2018年4月10日火曜日

「新しい言葉を語る」(マルコ福音書第16章9節~18節)


201848日、復活後第1主日礼拝(―典礼色―白―)、使徒言行録第311-26節、ヨハネの手紙一第51-5節、マルコによる福音書第169-18節、讃美唱148(詩編第1481-14節)

説教「新しい言葉を語る」(マルコ福音書第169節~18節)

復活節を迎えて、二回目の主の日である今朝は、第1朗読ではめずらしく旧約聖書の日課ではなくて、使徒言行録から、み言葉、ペリコペーが与えられています。

それによると、使徒たちは既に、主のご復活に出会い、聖霊降臨の出来事も経て、あの怯えきって、逃げまどっていた弟子たちとはその様相を、一変し様変わりしている姿がうかがえます。ペトロは、足なえをいやし、それまでとは別人のように、それをみて驚いている群衆に向かって、「これは、私の徳や生まれながらに持ち合わせている力や才能によってなしたのではない。そして、この足なえの人が立って歩んでいるのは、復活の主イエス・キリストの名によって、可能になったことなのだ」と勇ましく復活の主を説き明かしする使徒に変えられているのを、私どもはここに見出すのであります。

第二の朗読も、ヨハネの手紙一から取られており、復活の主を知る兄弟姉妹として、私ども、教会の体の枝である一人ひとりは神から生まれた子として愛し合おう、それは決して難しい掟ではないと記者ヨハネは、復活節を祝っている私どもに励まし促す奨めをなしているように思われます。

また、私どもの今の礼拝では、まだ朗読されていませんが、参照として週報にも載せています今日の讃美唱148すなわち、詩編第148編は、すべてのものは主を賛美せよと、主のご復活の喜びを、自然の被造物も、また、老いも若きもすべての者は主をほめたたえよと、喜びの叫び声であふれています。新しい式文では、讃美唱も、毎週の礼拝で取り入れられる可能性があり、ちなみに、毎週の礼拝が、聖餐礼拝になる可能性が、この5月の連休に二年一度で開かれる全国総会で、話し合われることになっています。

さて、今日の福音は、先週に引き続くマルコ福音書第169節から18節が与えられています。先週のイースターの礼拝では、マルコ福音書がそこで完結していたと考えられている、第161節から8節までが与えられていました。そこでは、直接の、復活の主イエスとの弟子たちの出会いは記されていなかったのであります。ただ、安息日の始まる前の日没前に慌ただしく、アリマタヤのヨセフが十字架の主のなきがらを、ポンティオ・ピラトから申し受けて、墓に納めたのを見とどけていたマグダラのマリアたちが、安息日の終わった翌朝早く、墓に香料を塗りにやって来た。

ところが、あの墓の戸口をふさいでいた大きな石は、既に転がしてあり、中に白衣の若者がいて、ここにはいない、あの方は起き上がらされた、ここをみなさいと告げられ、かねてあの方が言っておられたように、弟子たちよりも先にガリラヤに行かれることを伝えるように、告げられた。

しかし、彼女らは、ただ恐れと自失に捕らわれるのみで、驚きつつ、墓の戸口とから逃げ去った、そして、当時誰にも、なにも告げなかった。なぜなら、彼女たちは恐れさせられていたからである、で完結していたのであります。

マルコ福音書のオリジナルは、そこで終わっていたと考えられるのであります。そして、今日の福音の日課である第169節以下は、新共同訳聖書でも、結び一、さらに、別の結び二となっており、これらは、かなり後になって、マルコ福音書の教会につながる者が書き加えたとされるものであります。

そのような後代の付加を、この復活節の大事なその第2主日のペリコペーとしてどうして、あえて今日読むようにと、先週の個所に引き続いて与えられているのでしょうか。

それは、先週の個所で、復活をあのような形で知らされた私ども、主イエスの弟子たちは、では、そのあとどのように信仰生活を送っていけばいいのか、その一つの答えがここに記されたと考えていいのではないでしょうか。聖書は旧約聖書の39巻と新約聖書27巻の合計66巻が、そのみ言葉には少しでも付加されたり、削除されたりしてはならないとされる正典として、公会議での決定やそれを導いた聖霊によって示されたものであるとされます。

しかし、今日の個所は、本来、168節までで完結していたものを、かなり後の時代になって、やはり、主のご復活の出来事と主から託されたみ言葉をこうであると示された、マルコとは別のずっと後の弟子によって書き記され、ついには、マルコ福音書の一部と認められ、正典の一角に位置付けられたものと言えます。

さて、今日の福音は、このように記されています。まず、やはり、マグダラのマリアに、安息日からの第1日目、すなわち今の日曜日、週の初めの日朝早く、ご復活の主は、その体をもって見えるようにご自身を示された。
次に2人に別の形でそうなさった。そして、最後に、ユダをのぞく11弟子たちにも、その食事中の席にご自身をあらわされたと簡潔に記されていくのであります。復活の主に出会った弟子たちの数は、しだいしだいに増えていきます。

しかし、それを聞いた弟子たちは、常に一貫して、それを信じられなかったと、今日の福音は繰り返し強調しています。なかなか復活の主を信じることができないでいる。それは、人間に共通することであり、2000年前の弟子たちも、今の私たちも同じではないでしょうか。

そして、マルコ福音書第168節までの弟子たちと同じ姿、主イエスに対して無理解である弟子たちの同じ姿が、ご復活の主に出会った後のここでも続いているのです。

まず最初に、マグダラのマリアは、主とのその出会いを、彼と一緒に成っていた者たち、そして、嘆いており、泣いている者たちに伝えました。しかし、彼らは、信じゆだねなかったとあります。主イエスの弟子たちのことを、彼と一緒に成っていた者たちと書かれています。主イエスにすべてをゆだねて、漁師などの生業も捨てて、一切をかけて、とにもかくにも、エルサレムのここまで従ってきた。しかし、弟子たちの夢は、主イエスの十字架上の死によって無残にも破れていたのであります。そして、主を失った彼らは、羊飼いのいなくなった羊のように、嘆き悲しむ者となっていた。そのような時には、容易にはたとえ、それがまことの朗報であっても、私どもは聴く耳を持たないものであります。

さて、二番目には、畑、農場を進んでいた二人の弟子たちに、別の形で、主は自らをお顕しになられました。いうまでもなく、エマオに向かう弟子たちへの顕現であります。そして、彼らは引き返して、残りの者たちにそれを伝えたが、彼等も信じゆだねはしなかったと記されているのであります。

そして今度は、最後の、食事の席についている11人に、主イエスは見えるように、御自身を示されるのであります。そして、ここでは、起き上がられた主を見た者たちに、彼らが信じゆだねなかった、その不信仰と心の硬さを𠮟責なさったのであります。どうしても復活の主を信じゆだねきれないでいる弟子たちを、面と向かって、最後にはお叱りになられる。復活の主の側から、直接ただされないと、受け入れることができなかった弟子たちが記されているのであります。

しかし、そのところから、今度は一気に、主は、彼らを世界宣教へと押し出されるのであります。驚かされる急転回です。あなた方は全世界へと出て行って、すべての被造物に、福音を告げ知らせなさいと命じておられる。私たちの聖書では「すべての造られたものに」と訳されています。告げる相手は通常は人間でしょうが、すべての神が造られたものに告げよともとることができます。
アダムとエヴァの堕罪によって、全被造物が罪に陥った、その全世界に、復活の主のよき訪れを、あなた方が告げよと言われるのであります。


そして、こう宣言されます。信じた者、そして洗礼を受けた者は救われよう。しかし、信じなかった者、不信仰なままだった者は、罪に定められようと。祝福からはずされ、宣告されるとまで、はっきりと言われています。私どもの願いは、ご復活の主イエスのこのみ言葉を証して、一人でも多くの、私どもの出会います人たちが、信仰を告白し、洗礼に与るに至ることであります。そしてまた、いったん信仰を受け入れ、洗礼を受けた人が、主の御言葉、福音を聞き続け、礼拝につながり続けることであります。

復活の主のこの約束を、常に胸に置きながら、私どものあらゆる生活、ふるまい、働きは、そこを目指しつつなされるべきものでありましょう。

さて、続いて、主は、信じゆだねた者たちには、次のようなしるしが伴うであろうと、約束なさいます。すなわち、彼らは、私の名において悪霊どもを追い払い、新しい言葉をしゃべるだろうし、その両手で蛇を持ち上げ、彼らは何か致命的な毒を飲んでも、彼らを害することはないだろうし、病人どもの上に、その双方の手を置けば、彼らは健康を取り戻すであろうと記されています。

ガリラヤで、12使徒が宣教へと派遣されたときと同じようでありますが、ここでは特に、彼らは新しい言葉を語るということと、蛇をもちあげ、毒を飲んでも死ぬことはないということが新たに加えられています。
 蛇を振り払い、損なわれることはなかったとは、使徒言行録の終わりの第28章で、マルタ島で、パウロの手に焚火の火からあぶりだされた蛇が絡みついたが、損なわれ死ぬことはなかった記事が思い起こされますが、毒を飲んでも、損なわれることがないといった聖書の記事は見当たりません。復活の主を信じる者は、たとえ死んでも生きると、ヨハネ福音書において、ラザロの復活の時に言われた主イエスのお言葉から、あるいは来ているのでしょうか。

そして、彼らは新しい言葉を語るというのは、原文では新しい舌でもってしゃべるとありまして、異言を語る場合などに用いられるいい方であります。しかし、要するに、復活の主に出会い、それを信じゆだねるようにされた弟子たちは、それまでとは全く違ったあたらしい意味合いの言葉を語れるようになるということではないでしょうか。たとえ、たどたどしくであっても、主イエスのご復活を信じる者として、新しい生き方ができるようになり、それを今までになかった新しい言葉で、人々に証しする者とされていくということではないでしょうか。

復活後の弟子たちも、まったく恐れから、あるいは失敗から、挫折から解き放たれたということではなかったでしょう。迫害の中で死を遂げた者は恐ろしかったことでしょう。しかし、彼らは、弱さや欠点、さらにはパウロの言っている、サタンによって、思いがらないように遣わされた使者としての体のとげのようなものを、負わされていたとしても、喜んで、復活の主に仕えて者に生涯を通して変えられていったのではないでしょうか。そして、それが、今の弟子である私たちにも言えることではないでしょうか。

今日のペリコペーとしてのみ言葉は、18節までとなっていますが、この結び 一の残り2節では、この復活の主が、天にあげられ、弟子たちがそのあと喜んで宣教していったことが記されています。

すなわち、「この主イエスはこれらのことを、彼らにしゃべられた後、天に上げられ、神の右の座に座られた」とあります。そして、彼らは出て行って、いたるところで宣教したが、かの主が共に働かれて、その言葉が、その伴うしるしどもを通して真実であることをお示しになったと書いて、この結び 一は閉じられているのであります。

これは、復活の主を知り、信じゆだねた者たちが付け加えた、自分たちの信仰の記録であります。そして、それは、2000年を隔てて、今主のご復活を信じて歩む私共のためのみ言葉であります。一言、お祈りをいたします。

主イエス・キリストの父なる神さま。

復活の主によって変えられていった弟子たちが、主から聞かされたみ言葉を、今日は与えられました。この復活の主を通して、私どもにも新しい言葉を語らせて下さい。そして、主によって指し示されます新しい生き方を、なしていくことができますように、弱い私どもを助けてください。そして、あなたのみわざを宣べ伝える器として用いさせてくださいますように。主のみ名によって祈ります。
アーメン。

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