2018年4月3日火曜日

「聖なる恐れ」(マルコ福音書第16章1節~8節)


201841日、復活祭聖餐礼拝(―典礼色―白―)、イザヤ書第256-9節、コリントの信徒への手紙一第1521-29節、マルコによる福音書第161-8節、讃美唱118/1(詩編第11814-24節)

説教「聖なる恐れ」(マルコ福音書第16章1節~8節)

 私たちは、灰の水曜日の礼拝から、昨日まで、日曜日、主の日を除く40日間を、四旬節、受難節と呼び、また、レントと呼び習わしている教会暦の時を過ごしてきました。そして、先週は、いよいよ主イエスが、十字架におつきになる受難週を、木曜日の洗足聖餐礼拝と、受苦日の礼拝を、ごく少数の仲間でありましたが、皆さんの代表として守って、今朝のイースターの礼拝を祝っています。

そして、今日与えられている日課は、いづれもこの日にふさわしいみ言葉であふれています。イザヤ書第25章の個所では、やがてメシアがお出でになり、すべての人の涙をぬぐい、死をも滅ぼしてくださるとの約束の預言が記されています。これは、今日先ほど一緒に読みました、マルコ福音書の出来事において、実現されたと言っていいのであります。人類の初め、創世記の始まったばかりのところでアダムとエヴァが犯した罪、それにより死が私どもの避けることのできない、だれにも訪れる結末となったのでありますが、既にその所で、主なる神は、二人に向かって、あなた方の末から、罪をそそのかしたサタン、蛇の頭を砕く者が与えられ、一方、蛇はその者の踵を砕くと祝福の約束をなさっておられました。

そこから、人類の歴史が始まり、神の民イスラエルの苦しまされる歩みも続いていったのでありますが、それに神が終止符を打たれる時がくると、イザヤはここで預言しているのであります。そして、旧約聖書とは、メシアが苦しまれるお方であることを、預言者たちへの迫害や、義人の苦しみなどを通して、預言し、証言し、また約束している、神の私たちに対する旧い契約なのであります。

それに対して、その旧約が実現したというのが、新約聖書であります。既に旧約聖書で指し示されている約束が、主イエスの十字架の死とそれに続く主のご復活によって、果たされたというのが、新約聖書なのであります。今日の第2朗読のコリントの信徒への手紙一第15章のパウロの書いているみ言葉もそれを示しています。
 一人の人によって、死が人類に入り込んで来たのだから、一人の人の復活によって死が滅ぼされ、すべての人が新しい命に生きることができるようになる。これが主のご復活の意味であります。しかし、そこには順序があり、キリストがまず、死者の中からよみがえった初穂であり、次にキリストを信じて死んだ人たち、次にキリストの再臨の時に信じゆだねている者たちが天にあげられると言っています。

そして、生も死も、そしてすべての権威や主権も、キリストに与えられており、それらすべてを与えているのは、父なる神である。そのすべての中に神は含まれていないことは明らかであるが、最後にはキリストも、ご自分を父なる神におゆだねになる。そして、神が全てのものにとって、すべてとなられるというのです。そして、そうでなければ、あなた方のうちのある者たちは、どうして、死者のために洗礼を受けたりするのですかと、パウロはただしています。復活ということがなければ、人間の営みや、また信仰もすべてむなしくなるとパウロは、説き明かししているのであります。

そして、旧約聖書には膨大な出来事や、預言者たちの言葉などが記されていますし、一見今の私たちとは関係がないと思われるような部分も少なくありませんが、それらはとどのつまりは、主イエスのご受難とその後の復活を預言したものであると言えます。また、私どもはそのように、旧約聖書を読むべきなのであります。そして、ある意味では今日の福音こそ、全聖書が目指していたものであり、この日の出来事こそ、すべてのみ言葉が指し示している事柄であり、御神の目指して来られたゴールとも言えるものであります。

それでは、今日の福音の出来事とは如何なる出来事であったのでしょうか。何を私たちに、指し示してくれるのでありましょうか。マルコ福音書第161節から8節までを通して、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。

この日の出来事、すなわちイースターの前の1週間を、私たちは特に、主の十字架の道行きをおぼえる受難週として歩みました。木曜日の洗足聖餐礼拝、そして、聖壇の布、紫の布もすっかり取り払っての金曜日の受苦日の礼拝を、数名の者で守りました。それは、主イエスがとことん、私ども弟子たちを愛され、その足を洗い、イスカリオテのシモンの子ユダの足も洗い、ペトロが主イエスを見捨てることも、ご存じでそのためにも主は祈られ、あなたの立ち直るために祈ったから、そのときには他の弟子たちを励ますようにと主は既に伝えておられました。そして、最後の晩餐、食事の後、ユダには裏切られ、結局はポンティオ・ピラトによって、十字架の上にあげられたのであります。この聖週間の礼拝に出られたある方は、自分は何者なのか、とても苦しい時でしたと後で打ち明けてくださいました。受苦日の礼拝では、私どもはただ教会讃美歌第86番だけを使って、十字架上の七つの主イエスのみ言葉をひとつひとつ味わい、あるいは祈りの言葉と言ってもいいこのみことばを読み進め、賛美しながら祈りと黙想の時を持ったのであります。

そして、そのことのあった、それに続く今日のみ言葉なのであります。マルコは、この日の出来事を、丁寧に、しかも極めて控えめに記しております。これが、4つの福音書のうちで、最初に書かれた福音書の主のご復活に関わる記事のすべてであるといっても過言ではありません。というのは、この後のマルコ福音書第169節以下は、明らかに使われている語彙もここまでとは違っており、また、中身も後代の付加であることは、今日、だれもが認めるところだからであります。マルコ福音書は世に出され、福音書なるものが初めて教会で読まれたとき、今日一緒にお読みした第168節で終わっていたのだと考えて、差し支えないと思うのであります。

マルコは、安息日が過ぎたときのことから、今日の記事を書き出しています。安息日とは、金曜日の日没から土曜日の日没までであります。マルコによれば、金曜日の日没前に、アリマタヤのヨセフが、急いで十字架上の主の遺体をもらい受けて、真新しい墓に納めたのを、女の弟子たちは確かに見届け、その日は帰って、翌日土の安息日が終わってから、香料あるいは香油と言われる高価なものを、主イエスの遺体に、とくに顔に防腐剤として塗って、丁重な最後のお別れをしようと仕入れておくというところから今日の出来事は始まります。

そして、夜が明けるのを待ちかねるようにして、非常に朝早く、太陽が昇ったときに、ですから、日が昇るとすぐと訳してありますが、この女の弟子たち、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、墓に向かってやって来るのであります。

しかし、彼女たちは、お互いに、あの墓をふさいでいる石をだれが取り除いてくれるのだろうかと語り合いながらやって来たのであります。墓穴をふさいでいる石は大きかったからだと記されています。私たちの世界と墓の向こうにある死の世界の隔たりも、とてつもなく大きいものであります。私が神学生のころ、ある教会の葬儀で火葬場に同行したことがありました。いよいよ故人が焼き場の中へと入れられ、鉄の戸が閉まったとき、ある婦人は「私はいつもこのとき、この鉄の壁の向こうとこちらとでは、越えることのできない世界があると思うの」と口にしておられました。マリアたちも、ある意味では、それと同じように、自分たちではどうすることもできない大きな、重たい石、あるいは悩みについて、どのようにして、それは除くことができようかとつぶやいていたのかも知れません。

ところが、彼女らが目を上げてみると、その墓の入り口をふさいであった石は既に転ばされてあったのであります。そして、彼女たちはその狭い墓の中に入ったとき、白い長い衣を着た若者が右手の方に座っているのを見出して困惑させられるのであります。
すると、その若者は、こう告げるのであります。「困惑させられることはない。あなた方は、あのナザレのイエス、十字架にかけられた方を捜しているが、その方はここにはおられない。起き上がらされたのだ。ここが人々が彼を安置した場所である」と。そして、更にこう彼は言うのです。「あなた方は行って、彼の弟子とあのペトロに言いなさい。『あの方は、あなた方より先にガリラヤに行かれる、そして、そこであなた方は彼にまみえる、あの方があなた方に言っておられた通りに』と。」この時、既に弟子たちはばらばらとなり、あのガリラヤに向かって失意のうちに帰ろうとしていたかもしれません。ここには、最後まで女弟子たちだけが残っていたのであります。

若者の言葉を聞いたとき、マリアたちはどうであったでしょうか。彼女たちを、震えと自失とが捉えました。そして、彼女たちは墓から離れて、逃げ出すのであります。そして、彼女たちは、だれにも、何も言わなかったとあります。「なぜなら、彼女たちは恐れさせられていたからである。」これで、実は、マルコ福音書は終わっているのであります。主イエスのご復活の体やそのみ声には出会っていません。ただ、その見定めた墓の中にはあのご遺体は既になく、そこにいた若者のとりなすみ言葉だけにしか出会っていないのです。

私たちの罪、死、闇の現実の中で、主イエスは、御父の起こしたみわざによって、埋葬されたあのご遺体が死者の中から起き上がらされ、既に死に打ち克たれていることを指し示しておられる。私たちの死と闇が、このお方のよみがえりによって既にその命へと飲み込まれているのであります。この出来事の前に震え上がり、正気を失って、恐れさせられる聖なる出来事、それが主イエスのご復活のときの私共の偽らざる姿であります。そして、ここからこそ、主イエスが、まことに神の子、キリストであり、私どもにとっての唯一の、福音、良き知らせであることを、私どもは学び始めるのであります。アーメン。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          

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