2018年1月22日月曜日

「人をすなどる漁師にしよう」(マルコ福音書第1章14節~20節)

2018121日、顕現節第3主日(―典礼色―緑―)、エレミヤ書第1614-21節、コリントの信徒への手紙第729-31節、マルコによる福音書第114-20節、讃美唱62/2(詩編第629-13節)

説教「人をすなどる漁師にしよう」(マルコ福音書第114節~20節)

 この日から、教会暦では顕現節第3の主の日として、典礼色は緑に変わりました。緑は、神における希望を表しています。ちょうど、ノアの洪水の時に、放った鳩が、オリーブの枝をくわえて戻ってきて、洪水が引いたことを知らされたように、神のみわざとみ言葉を学ぶときとして、今日からの時期を過ごすのであります。
 そして、今日の第1朗読は、エレミヤ書からであり、そこでは、バビロン捕囚から解放されて帰って来る喜びを、エレミヤは預言していますが、そのときには、漁師が多くの魚を釣り上げ、また、狩人たちが、岩の裂け目から獲物を引き上げるとの預言があり、罪人を神がお裁きになるとの警告がなされています。
 また、今日の第2朗読のコリント書一のパウロも、終わりの時が近づいているのだから、今からは妻を持つ人は、持たないかのように、喜ぶ人は喜ばない人のように生活するように、なぜなら、この世の事柄は過ぎ去るからであると、私たちの生き方の姿勢を、改めるように促しています。
 そして、今日のマルコ福音書は、主イエスが、私たちとの公生涯に入られた後の最初の説教と、なさったみわざが記されています。
 ヨハネが捕らえられたのちに、イエスはガリラヤへとやって来られたと、今日の記事は始まっています。
 ヨハネの受難が記され、それは、やがて主御自身の受難へとつながることを示しています。そして、それは実は神御自身のご意志がそこに働いていることを意味しているのであります。主イエスも、十字架におかかりになることが、ここに既に予期されているのであります。
 そして、主はここで宣言なさるのです。時は満たされた、神の国は近づいた。なんじら悔い改めよ、そして福音を信じなさいと。
神が王となられるとのイザヤ書のみ言葉、喜ばしい知らせを告げる者が来るとの約束が、主イエスがお出でになることによって、既に実現しているのであります。主イエス御自身が福音なのであります。ただ、そのお方に信頼して私たちの全生活の向きを合わせるだけで、十分なのであります。神の国、すなわち、神が王となられるという旧約聖書の約束が、主イエスのご到来において、また、その説教において、存在において成就されているのであります。
 そして、主イエスは、ガリラヤの海に沿って、通り過ぎておられましたときに、網を打っているシモンとその兄弟アンデレをご覧になる。漁の最中の漁師であります。そして、主は、私の後にやって来なさい、そうすれば、あなた方を人間をとる漁師に成れるようにしてあげようと招くのであります。
 かつて、評論家の亀井勝一郎氏は、この漁師たちの召し出しについて、書いております。耶蘇はなぜこれらの太古の自然の民を弟子として召し出したのであろうかと。そのままにしておけばずっと良かったのではないかとでも言いたげであります。
 しかし、果たしてそうでしょうか。彼らは無学なガリラヤの漁師に過ぎなかったかもしれません。しかし、主の一方的な呼び出しに対して、すぐに網を捨てて、主に従って出て行くのであります。これによってどれほどの多くの罪に死んでいた人間たちが、新しい命へと変えられていくことになったことでしょうか。人をすなどる漁師に成れるように、私があなたがたに責任を持つから、ついて来なさいと、招かれ、その場で新しい生涯へと旅立ってゆくのであります。それは、アブラハムが、主なる神の導きによって新しい地へと出て行ったのと同じであります。
 主イエスは、さらに少し進まれたとき、舟の中で網の手入れをしている別の兄弟、ヤコブとヨハネを目にとめ、すぐに呼びますと、彼らも、父と雇人を後に残して、主に従って出て行ったのであります。
 先ほどの亀井勝一郎さんの言葉ではありませんが、私どもも、主イエスによって呼び出されなかったならば、もっと楽であったのにと思うようなこともあるのではないでしょうか。
 洗礼を受けて、主イエスの弟子とされている私共一人ひとりであります。
旧約聖書の時代、エレミヤの預言によれば、神御自身が、人間の罪とがを漁師となって終わりの日に裁かれると預言されていました。人間の罪をそのままにしておかない、終わりの日の裁きが記されています。

 しかし、主イエスがお出でになられて、私があなた方を人をすなどる漁師に成れるように作ろうと招かれたのであります。福音、喜びの知らせである主イエス御自身があなた方を、罪に悩む人間どもを救う代理人あるいは助手にしよと召し出されたのであります。闇に打ち伏せるガリラヤの民に、光が与えられたのであります。人間に寄り添って、罪の縄目から解き放ち、共に重荷を担っていく12弟子たちを、主イエスは必要となさるのであります。 そして、それは、2000年を隔てて、洗礼を受け、信徒となり、弟子となっている私共にとっても、同じことと言ってもいいのではないでしょうか。 私の後について来なさい、あなた方を必ずや人をすなどる漁師に成るように、私が作ろうと、主は今も招いておられます。復活の主が導いて下さいます。アーメン。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    

2018年1月17日水曜日

―最近読んだ本からー「土の器」 阪田寛夫著

―最近読んだ本からー「土の器」
阪田寛夫著
昭和50315日 第1刷発行
昭和50623日 第2冊発行
定価:絶版にて近くの図書館か古本屋でお求め下さい
発行所 文芸春秋
  説教塾主宰の加藤常昭先生からの紹介で「土の器」を読んだ。私が手にした「土の器」は、文芸春秋発行の本で、それは5つの短編から成っていて、そのうちの「土の器」のみを読んだのであるが、それはいずれも著者の身内を扱った小説とのことである。①「音楽入門」は著者の父を、②「桃雨」は祖父を、③「土の器」は母を、④「足踏みオルガン」は叔父を、⑤「ロミオの父」は作者の娘のことを中心に書かれているとのことである。
 さて、今回の「土の器」の感想文は、ご自分の母のことを記した③の「土の器」であることを記しておきたい。これは、現代の介護が、大きな問題になっているが、その先駆けとも思われる作者の母の晩年の病気との闘い、そして家族がその介護に、翻弄される物語である。著者の母は、熱心なクリスチャンであった。その死に至るまでの経緯が、小説家らしい観察と洞察、表現力で事細かく、記されている。人が死ぬるときは、ここに記されているような深刻な問題にだれもが突き当るのではないか。病気と老いの問題と、本人を取り巻く家族の問題が、キリスト教徒の家族であるがそれだけに母を見て来た息子の立場で鮮明に浮き彫りにされている。阪田寛夫は、19251018日生まれで2005322日逝去79歳の生涯で、日本の詩人、小説家、児童文学者とあり、身内にも著名人が何人もいて、古い血筋の家系に生まれ、大阪市の育ちであって関西に長くいた私には、なじみやすい小説でもあった。「土の器」とはご存じのとおり、パウロのコリントの信徒への手紙二第47節に出て来る言葉である。著者の母の体がすい臓がんに侵され、末期には、点滴のきれいな液と、対照的に配管から出て来る尿のこげ茶色の黒くなった血のような液など、死期を前にした人間の肉体が壊れて行く描写などが生々しい。そして、クリスチャンとして歩んだその生涯が重病を通しての心理の変化、末期の描写が、阪田寛夫でしか書けないタッチで記されている。私どもの信仰とはいったいどのようなものなのだろうか。クリスチャン家庭で子供の育った心理も窺われて反省もさせられるが、この小説は誰が読んでも得るところが大きいと思う。パウロは、我々は「土の器に」神の賜物が込められているという。阪田寛夫は自分の母親の最期まで介護し、この小説を書きその後どのように変えられていったのだろうか。








2018年1月13日土曜日

宗教改革500年合同集会 <2017年11月22~23日長崎の浦上天主堂にて全国教師退修会・カトリックとの記念シンポジウムと合同礼拝

宗教改革500年合同集会
2017112223日長崎の浦上天主堂にて全国教師退修会・カトリックとの記念シンポジウムと合同礼拝https://youtu.be/CkLUSYOPZoA
マルティン・ルターの95箇条の提題、15171031日にビッテンベルクの城教会の門扉に掲示から、500年を記念して、日本福音ルーテル教会と、日本カトリック司教協議会は、長崎市にあるカトリック浦上教会で、宗教改革500年を共同で記念する行事を1123日(木・祝)に共に行いました。
 これに先立って、1122日には、日本福音ルーテル教会の現役教職数約90名は、同じ浦上教会の一角を使用して全国教師退修会を開き、長崎市で宗教改革を記念する意義を考え、平和についての学びを改めて行いました。
 講師として、平和学の専門の鹿児島大学教授木村朗先生をお招きし、長崎に原爆が落とされた経緯、そして今に至る原発の推進の経緯が説明され、原子力の平和利用はあり得ないとの先生の結論が示され、現在世界を覆っている暗雲を取り去る必要が迫っていることを知らされました。
また、この退修会の中では、懸案であった新式文も二通りのもの、ピース案とハート案とがCDで披露され、これは今年20185月の全国総会で承認されて、各教会で順次、用いられることになるでしょう。それになじむまで各教会で、練習をしたり、定着させる努力がかなり必要となることでしょう。因みに、聖書も2018年の終わりころには、これまでの「新共同訳聖書」に代えて、「共同訳聖書」として日本聖書協会から出版される予定です。
 退修会では、そのほかにも、各施設や教会の内外で「平和を実現するためのワークショップ」も行われ、また、ルターの信仰義認の真意をつかむために、むしろ「恩恵義認」恵みによって義とされると考えたほうがいいのではないかとの江口再起先生の講演もありました。
 そして、いよいよ、1123日(木・祝)を迎えました。前夜の雨から打って変わって、青空に恵まれてのカトリック浦上天主堂での共同記念の時を迎えました。
午前は、天主堂の中にある被爆のマリア聖堂で、ルーテル教会の教職、信徒が一堂に会しての早天礼拝から始まりました。この朝の礼拝は、東教区教師会長の、大森教会の竹田牧師が説教に当たりました。
 その後、浦上天主堂の大きな聖堂で、1300人に及ぶ、日本福音ルーテル教会とカトリック教会の信徒、教職が集まり、午前中は、シンポジウムが開かれ、宗教改革500年の意義について、カトリックの司祭や、ルーテルの教職の代表が発題をしていきました。被爆にあったという深堀好敏という浦上教会信徒の方は、体調不良で、急遽、カトリック中町教会主任司祭の橋本薫神父が、長崎市の、しかも原爆直下の浦上教会で、宗教改革500年を記念する意義を説かれました。知られている通り、この地は、キリシタン迫害のなまなましい歴史を担っている場所であります。
 ユーモアを交えて語る橋本神父の講演は、カトリック教会の懐の広さを知らされるものでありました。ルーテルからは、石居神学校長が、ルターの罪認識の深さについて考究し、それが現代世界で生かされる道を考えさせられました。光延神父は、世界のエキュメニズム(教会一致運動)の中で宗教改革500年の意義を捉え直すべきであるとし、ルターも当時の世界に「福音」が見えなくなっていたのに異議を申し立てたとし、新たなカトリック性(全一性、全体に従っての意)を求めるべき時だとされました。
午後1時半からは、100人を超えるルーテルの教職とカトリックの司祭の合同司式団によって、総勢1300人の合同礼拝が実現したのでした。これは100年前の宗教改革400年記念の年には考えられないことでした。 本教会提供のDVD「リック・スティーヴスと歩むールターと宗教改革」をご覧になれば分かる通り、ルターの宗教改革以後、血なまぐさい宗教戦争や争いが起こって、歴史は展開されてきました。私たちは、宗教改革者たちの戦った信仰の戦いを、受け継ぎながらも、現代の国内外の争いの絶えない世界情勢の中でまことの平和を求めつつ聖書の示す神観に立って、一筋の希望の光を見出しながら、和解の任務を負った奉仕者として、教派間の違いや対立を超えて手を携えて、福音を伝える者となりたいものです。




2018年1月12日金曜日

「異邦人に示された救い」(マタイ福音書第2章1節~12節)  

201817日(顕現主日聖餐礼拝―典礼色―白―)、イザヤ書第601-6節、エフェソの信徒への手紙第31-12節、マタイによる福音書第21-12節、讃美唱72(詩編第721-15節)

説教「異邦人に示された救い」(マタイ福音書第21節~12節)
 
2018年に入っての最初の日曜日は、顕現主日あるいは公現主日と言われ、古くから、伝統的な教会ではマタイ福音書第2章1節から12節が読まれます。
 そして、この日は、東方教会では、今でも、この箇所が読まれて、クリスマスとして祝われています。今日与えられている旧約聖書の日課、使徒書の日課、また讃美唱の詩編の72編の記事も、いずれも異邦人に救いが、そして、キリストの福音が宣べ伝えられていくことを、預言し、あるいは証言しています。異邦の王たちが、まことの王、救い主イエスのもとに向かって、金や乳香、香料などの財宝を携えて、忠誠を誓い、ひれ伏し仕えるために到来するというのです。
 さて、1年の初めの主の日に当たります今日、この記事を与えられているのは、何のためなのでしょうか。この新しい一年、2018年はどのような年になるのでしょうか。この新年をどのように、皆さんお迎えでしたでしょうか。私は、新年礼拝を守った後、翌日にとんぼ返りでしたけれど、松山の母や妹を訪ねて帰省してきました。今年88歳を迎えます母は、かなり認知症が進んでいるようでした。一生のうちで、私たちが元気に過ごせる時間というものも、限られていることを改めて感じさせられたことでした。
 今日のテキストの、東の方で、その方の星を見たので、私たちは、その星に導かれて、お生まれになったユダヤ人の王を拝みに来たのですという記事を思い起こさせられました。私たちを導く星とはいかなるものでしょうか。私たちを導く主の星は、今年どこに私たちを導こうとしているのでしょうか、今日の福音から聴いていきたいと思います。
 マタイ福音第21節以下は、もとの文を見ますと、このように始まっています。
「で、そのイエスは、ヘロデ王の日々において、ユダヤのベツレヘムにおいてお生まれになった」と。そのお誕生の場面、状況は、ルカ福音書のようには何も記されてはいません。
  その時、東方から、マゴスと言われる者たちが、エルサレムに到着して、言うのです。
「お生まれになったユダヤ人の王はどこにいますか。私たちは、その方の星の昇るのを見たので、拝みに来たのです」と。ところが、これを聞いたヘロデ大王は、うろたえた。さらには、エルサレムの全住民もそうだったとあります。なぜでしょうか。ヘロデ大王は、自分は、ユダヤの出ではなく、イドマヤ、エドム人の血を引いており、水道工事やエルサレム神殿の再建など、行政的には非常な実績をあげていましたが、正当なユダヤ人たちの王ではなく、長い統治の晩年には、猜疑心が強くなり、自分の妻や息子も殺めたりする残虐な支配者であり、そのことは、この記事の後の嬰児虐殺をみてもわかることです。
 それでは、全エルサレムも、同じだったとは、どういうわけでしょうか。そこには、エルサレムの慰められるのを待ち望んでいたシメオンやアンナもいたのではなかったか。確かに敬虔な、救いを待ち望んでいた住民も少なくなかったでしょうが、その指導者たちをはじめ、ここに住むユダヤ人たちが、結局は、主イエスを十字架にまで追いやり、その血の責任は我々と子孫にあると公言するに至るからであります。
新しい誠のユダヤ人の王を必要としないどころか、それは、自分たちの現状維持にとって不都合なものだと、不安におびえたのであります。私たちは、どうでありましょうか。
さて、ヘロデは、聖書に詳しい、民の祭司長たちや律法学者たちを皆呼び集めて、どこにメシアは生まれるのかと、問いただします。彼らは、一致して、すぐこう答えます。「ユダのベレツレヘムです。なぜなら、こう預言者が語っています。ユダのベツレヘムよ、お前は決してユダの君たちの中で最小の者ではない。お前の中から治める者が出て来、その者が我が民イスラエルを牧するであろうと。」
ヘロデは、今度は、マゴスたちを密かに呼んで、星が昇り、輝いたのはいつかを詳しく尋ね、突き止めます。そして、彼らを送り出して言うのです。「お前たちは行って正確にその子のことを調べてくれ。そして見つかったら、私に報告してくれ、私も拝みに行きたいから」と。彼らはこれを耳にしながら出て行きますと、見よ、その昇るのを見たその星が彼らに先立ち、その子のいる真上にまで進んで、そこでぴったりと止まったのであります。「彼らはすこぶる大きな喜びを喜んだ」とマタイは、その喜びの大きさを特別に表現しています。彼らが捜しに探して、ここまで来た、そのお方についに達した喜びであります。私たちが捜しに探して歩んできたものは、何でありましょうか。私たちが心の底で求めてやまなかった方は誰でありましょうか。
彼らは、家の中に入ると、そこにその子を、その母マリアと共に見出し、跪いてひれ伏し、その宝箱から持参した贈り物、金、乳香、没薬をささげます。そして、夢でヘロデのもとに戻るなとのお告げを知らされ、別の道を通って彼らの本国へ帰って行ったのでありうます。彼らはいかなる出自の者だったのでしょうか。マゴスとは、魔術師とも訳されます。ただはっきりしていることは、彼らは神の民イスラエルには属さず、東の国から来た異邦人たちであったということです。その彼らに、星の輝きが示されて、その星のたどり着くところまで導かれて、その星の主を知り喜びにあふれ、そのお方に礼拝をし、最高の贈り物をして、変えられて、自分の国に帰って行ったということであります。
私たちも、この星の輝きの主を知っております。このお方を礼拝しつつ、すべての私たちの持ち物をこのお方のために用いる、そのような一年とさせたいものであります。
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☆今、毎月第1金曜にルターの学びをしています。現在はエンキリディオン、小教理問答書を学んでいます。「主の祈り」が終わったところです。大教理問答書は絶版ですのでコピーしていますができれば毎日少しずつでも3冊を並べて聖書個所が挙げられていれば必ずそこも聖書を開いて参照しながら学ぶのがコツです。聖書日課等と一家で夕食前等お薦めです。(次回2/2、金曜に、洗礼・聖餐・懺悔)。尚、218日(日)は特別伝道礼拝日!