2017年12月31日日曜日

最近読んだ本からー 「祈る―パウロとカルヴァンとともに」 ルドルフ・ボーレン著 (川中子 義勝[訳])

―最近読んだ本からー
「祈る―パウロとカルヴァンとともに」
ルドルフ・ボーレン著
(川中子 義勝[訳])
20171130日 初版発行
定価(本体2700+税)
発行所 教文館
 今年は、宗教改革500年の記念すべき年である。マルティン・ルターの95箇条の提題に始まった宗教改革のもう一人の忘れてはならない人物は、ジャン・カルヴァンである。
 このほど、説教塾ともつながりがあり、加藤常昭先生の説教学の先生でもあるルドルフ・ボーレン著の「祈る」という本書が川中子義勝先生の翻訳で出た。名訳であると思う。祈りに関する著書は、たとえばルターの大教理問答書の主の祈りに関するものなど多数あるが、本書は、「パウロとカルヴァンとともに」と副題がついているように、特にパウロ書簡のテモテへの手紙第一、第二を拠り所にしながら、文字通り「祈る」作業を、ボーレン先生を含めて、パウロ、カルヴァンの三人で進める体裁をとっている。
 最初読んでいくと、パウロの手紙を、カルヴァンが行った注解の言葉をずっと紹介しているのかと思って読んでいったが、カルヴァンの注解や同労者などに出した書簡の言葉は、いずれも終わりに記されていて、その間の橋渡しの言葉は、詩人でもあるボーレン先生のパウロのみ言葉をめぐる思索の言葉であり、「祈る」ことそのものであることが分かった。神学とは祈りである。

 ボーレン先生は、改革派の神学者で、カルヴァンの流れから、近くでは、バルトやトゥルナイゼンなどと親しい関係にあられた。親日家でもあり、日本の「源氏物語」などに関する著述もなさっておられるようである。 今回の著書を通して、ボーレン先生の神髄に触れた思いである。私どもは、ルーテル教会員であり、マルティン・ルターの著書を通して、信仰による義から始まって、義人にして同時に罪人、生涯は悔い改めの連続など、それは、プロテスタント一般に、あるいはカトリック教会においても、承認されているといっていい信仰生活の宝であり、宗教改革の出発点といっていいルターの教理であるがそれを前提とした上で、カルヴァンはそれを更に教会生活の上に受肉させ、信仰の聖化、浄化と言おうか、祈りにおいて教会制度の確立を目指したのではないか。

2017年12月18日月曜日

「キリストを証しする者」(ヨハネ福音書1:19-28)

20171217日(待降節第3主日―典礼色―紫―)、イザヤ書第611-4節、テサロニケの信徒への手紙一第516-24節、ヨハネによる福音書第119-28節、讃美唱301302(ルカ福音書第147-55、ルカ福音書第168-79節)
     説教「キリストを証しする者」(ヨハネ福音書119-28
 今日で三度目のアドベント、待降節の主の日を迎えています。今日は、先週のマルコ福音書による出だしの、洗礼者ヨハネの記事に対して、ヨハネ福音書の洗礼者ヨハネの記事、第1章19節から28節までが、与えられています。共観察福音書の記事と比べて、ヨハネ福音書における洗礼者ヨハネは、違った見方から、記されています。
 マルコ福音書などでは、ヨハネは、主イエスの先駆者として現れ、人々に、主、メシアがお出でになる前に、悔い改めの洗礼を説教する者として、言わば、旧約の預言者の最後の者として、また、旧約のどの預言者よりも大いなる者として登場しているのですが、ヨハネ福音書では、あくまで主イエスの到来を告げる者、キリストの証人として、位置付けられているのです。
 ヨハネ福音書では、主イエスは、光として、この世にお出でになりますが、ヨハネはあくまでも、その光について証しする者に過ぎないのであります。
 そのヨハネについて、ヨハネ福音書では、その序章に続いて、どのような者として、現れたのかを、主イエスの登場の前に、すぐ記されているのであります。
 すなわち、ヨハネの証しはこれであると、ロゴス賛歌のあとに、続けられ、それは、ユダヤ人たちが、エルサレムから、祭司やレビ人たちを遣わした時のことであると始まります。
 あなたは、だれなのかと彼らは、ヨハネに向かって問いかけるのであります。人々は、メシアを待望していました。ユダヤの当局にとっては、期待と共にそれよりも恐れの方が大きかったのであります。ユダヤ全土に知れ渡っていた洗礼者ヨハネは何者なのかを知ろうとしていたのであります。
 それに対して、ヨハネは、告白し、真理を隠すことはなく、自分は、キリストではないと、明言して語るのであります。では、エリヤなのかと彼らが聞くと自分はそれではないと言い、では、かの預言者なのかと問い詰められると、「否」と次第に短い問答となります。
 自分はそのような、メシアでもなければ、メシアの時に現れるメシアに近い人物でもないと言い切ります。
 それでは、何だというのか、送り出したユダヤの者たちに答えれるようにしてくれと強いられたとき、ヨハネは、イザヤの預言に従って、自分は荒れ野で呼ばわる声、主の道をあなた方は真っ直ぐにせよという声に過ぎないと断言するのであります。
キリストがお出でになることを告げる声に過ぎないというのです。キリストの証し人に過ぎないと。これは、しかし、素晴らしいことであります。この世に来た光を証しする証人だと、自分のことを、はっきりと告白している。
 これは、洗礼者ヨハネに限らず、私どもも言うことのできる、最高の言葉であります。そして、アドベントの今、一番大事なことは、キリストこそ救い主であると呼ばわる声に、私どももなることができるということであります。 
 ヨハネを問い詰めたユダヤ人たちは、ファリサイ派であったと記されています。これは、ヨハネ福音書が書かれたころ、教会を迫害していたのはファリサイ派のユダヤ人たちであったことが、窺われる記事であります。
 ヨハネ福音書はこのようなファリサイ派からの迫害下にあって、救い主キリストへの信仰を捨てないように励ますために書かれたものだと言われます。
 このアドベントの時期にここが読まれますのは、私たちも、来たるべき主イエスへの信仰を、確認し、力強く証しすることができるためであります。
 更に、ではなぜ、洗礼を授けているのかと問われると、自分の後に来る方は、その靴紐を解くことにさえ自分は価しないが、その方はあなた方は知らないが、あなた方の中に既に立っておられるという。
 ユダヤの当局の者たちは、キリストを理解できなったのであります。しかし、あなた方の只中に既に立っておられると、洗礼者ヨハネは、その到来を告知するのであります。自分は、キリストでもなければ、それに近い預言者やメシア的存在でもない。ただ、キリストを証しする声として立っていると断言するのであります。
 私どもも、アドベントを迎える時、そのようにキリストの到来を証しするものとされたいと思います。
 今日の福音、ペリコペーの最後の節には、これは、ヨルダン川の向こう側のベタニアでの事であったと記されています。この救いの出来事が、確かな時と場所において起こったことを聖書は書き記すことを忘れません。
 確かにこの地上で、特定の場所と時において、この救いの出来事は、起こったのであります。
 このヨハネ福音書の初めの出来事として、洗礼者ヨハネの行ったこと、語った言葉が、私どもに救いの到来を証ししているのであります。そして、一年の初めに、私どももその声に耳を澄まし、主のお出でになる道を真っ直ぐにし、主のお進みになる道を整えると共に、自分の栄誉や評判を求めるのではなく、主の栄光をのみ求め、キリストを証しする喜びに行きたいものであります。
 そして、クリスマスを、1週間後に迎えようとしている今、このキリストの身を伝える声としての伝道にいそしむ1週間としたい者であります。アーメン。











                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              

2017年12月16日土曜日

「悔い改めの時」(マルコ福音書第1章1節~8節)

20171210日(待降節第2主日―典礼色―紫―)、イザヤ書第401-7節、ペトロの手紙二第38-14節、マルコによる福音書第11-8節、讃美唱85/1(詩編第852-8節)

説教「悔い改めの時」(マルコ福音書第1章1節~8

  アドベントの第2主日を迎えました。今年は先週の123日から、アドベントを迎えていますが、3年サイクルの教会暦のB年として、マルコ福音書を主たる福音書として、そこからみ言葉を与えられていきます。
 マルコ福音書は、4つの福音書の中で、最も古い福音書であり、また、最も簡潔なものであります。初めて福音書としての形が示されたものとしての精彩を放っているのではないでしょうか。
 さて、アドベントとは、「到来」と言う意味であり、2000年前にお生まれになった、第1のアドベントである主イエスのお誕生を、再びこのクリスマス前の時期として、待ち備えるという意味と共に、終わりの時に再び来たもう主イエスの再臨という第2のアドベントに備えて、目を覚まして生きようという時でもあります。そして、教会暦のこの一年の初めに用いられます聖壇やストールの色は紫でありますが、これは、まことの王、主イエスを表すとともに、その主が十字架に付けられたときに着せられた紫の衣の色でもあり、悔い改めの時でもあるのです。
 今日は、マルコ福音書の最初の第1章1節から8節が、この日の福音として与えられています。そこから、私たちは福音を聴きたいと思います。
 マルコ福音書は、「神の子、イエス・キリストの福音の初め」との表題をもって書き始められています。これは、「イエス・キリストという福音の源、神の子の、」とも訳せる言葉です。当時、ローマ帝国下においては、後にローマの平和を確立したとされる、あの主イエス誕生のルカ物語において出て来る、人口調査の勅令を出す皇帝アウグスツスが、誕生したときに、神の子の誕生として、「良き知らせ」すなわち、福音が知らされたと伝えられています。
 それに対して、マルコは、まことの「良き知らせ」の起こりは、主イエス・キリストにあると言うかのようであります。そして、その良き知らせは、洗礼者ヨハネの出現と共に始まったと言うのであります。
 それは、預言者イザヤの書にこう書かれてあると記し始めるのですが、この預言は、マラキ書と出エジプトにある預言と、イザヤ書の預言が組み合わさったものであります。出エジプトの時に主なる神が、み使いを先に送って、イスラエルの民を約束の地に導きました。主なる神が、民を呼び出し、民を立ち帰らせて約束の地に戻されたのが出エジプトの出来事でした。
 そして、預言者イザヤの時代には、イザヤ書第403節にあるように、バビロン捕囚の憂き目から、主なる神が、再び第2の出エジプトとして、イスラエルの民を、荒れ野で呼ばわる声に導かれ、主に再び立ち帰るように導かれ、荒れ野にまっすぐな道を用意させて、イスラエルの地に彼らを戻らせたのであります。そして、そのいずれの出エジプトにおいても、主なる神は、荒れ野において霊を送って、民をご自分に立ち帰るようにして約束の地に戻されたのであります。
 そして、それは、洗礼者ヨハネが終わりの時に現れるのを預言しているとされ、メシアの来られる前に、先駆者エリヤが再来すると信じられていたのであります。そして、そのことが、ここに成就したと今日の福音において語られるのであります。
 このヨハネは、荒れ野で呼ばわる声であります。そして、彼は、罪の赦しに至る悔い改めの洗礼を説教するものとして現れ、イザヤの預言の通り、成ったのであります。  ヨハネは、救い主すなわち、キリストを証しする先駆者であります。罪の赦しそのものを与えることはできない。そのための備えを、全ユダヤに、全エルサレムになさせるために、荒れ野の境目のヨルダン川で洗礼を授け始めたのであります。
 人々はぞくぞくと彼のもとに押し寄せ、自らの罪を悔いて、ヨハネから洗礼を授けられていたのであります。
 しかし、彼は、自分の後に、自分とはとても比較もできない強い方がお出でになり、その方こそ、聖霊で洗礼をお授けになると公言するのであります。私どもの罪の赦しを与える事のできる方は、神の子である主イエスの他には誰もいないのであります。そのことを、ヨハネは、水で洗礼を授けながら、告白するのであります。自分と主イエスが連続するものとしてではなく、まったく新しい救いが、主イエスによって、もたらされることを告白し、感謝し、ほめたたえて、私どもに告げ知らせるのであります。
 そのお方をお迎えするために、洗礼者ヨハネは、荒れ野で、らくだの毛衣と腰に革の帯をし、いなごとの蜜を食しながら、人々に、主に向かって立ち帰り、正気になって心を向け、また、そこから行いも生活もただされるようにと悔い改めを説くのであります。 そして、この悔い改めの時、そして喜びの時、それがアドベントの時であります。
 この新しい一年、前途に何が待っているのでありましょうか。私たちを全く新しいものとして、罪赦され、歩むことを可能にしてくださるキリストを待ち望むとき、それが、今のこの時であり、クリスマスを迎えるにあたって、最も必要なことは、神のみ旨に、全身全霊で立ち帰ることであります。
 そして、今年も、心さわやかに、憂いを振り払って、主イエスのご降誕をご一緒に迎えたいものであります。
 このお方こそが、神の子にして、唯一のまことの神であり、また、まことの人であるからであります。このお方こそが、聖書において待ちに待たれたメシア、キリストであり、このお方の他には、この地上では救いの手立てはないと信じるからであります。
 人知では、とうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって、守るように。アーメン。










             

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      

2017年12月14日木曜日

「王道―21世紀中国の教会と市民社会のための神学―」

―最近読んだ本からー
「王道―21世紀中国の教会と市民社会のための神学―」
王艾明 著
(松谷曄介[編訳])
20121126日 第1版第1冊発行
定価(本体2300+税)
王艾明牧師は、現代の中国の代表的な神学者の一人とのことである。1963年、江蘇省生まれとのことであり、一度その講演をお聞きし、そのさわやかな語り口に、好印象を憶えたことを、つい昨日の事のように思い出す。この本「王道」の編訳者でもある松谷曄介牧師も、説教塾での講演に、通訳として同行されていたが、その流ちょうな通訳にも感心させられたことも記憶に新しい。そして、この本のもともと優れていることもあろうが、訳した松谷牧師(1980年生まれ)の翻訳や知見の優れていることも、この書を読みやすくしている要因ではないかと思う。現代の中国のキリスト者は、7000万人とも、ひいては9000万とも推定されるらしい。かつては、中国共産党の政府のもとで、キリスト教は、マルクス主義に反するものとして、否定されていたとのことだが、現在では、改革も進み、経済も自由化の中にあって、中国指導層の中にも、洗礼を受け、教会につながる人たちも出てきているという。それにしても、なお共産党の一党支配の政権下にあり、中国での教会の前途には大きな課題が山積していることは容易に想像できる。「王道」とは、孫文が用いた方向を指し、「覇道」に対して、道徳を重んじて、武力に走らない行き方を指すらしい。王艾明先生は、中国の教会が伸びるためには、中国のこれまでの精神的礎柱であった儒教の、2000年以上に及ぶ教えから出来上がっている文化を十分に理解しながらも、キリスト教の初代教父たち、原始教会の神学や宗教改革者たちの神学に絶えず立ち返って、自らを検証していくことが不可欠の作業であると主張されている。今の中国の教会には、3自教会と家の教会のような二つの流れがあるが、いずれにしろ、「教会性」「教会論」が不足しているというのである。今年は宗教改革500年記念の年だが、王先生は、マルティン・ルターの健全な教理の回復と、その上に立ってのジャン・カルヴァンの教会制度・教会秩序の確立をもたらした神学の重要性を説いておられる。教会が各国で異なる歴史を持ち、神学もそれぞれのコンテキストに応じた展開が必要である。宗教改革500年記念の年、ルターとカルヴァンの両者が日本のルーテル教会でも問い直されるべきだろう。