2017年11月7日火曜日

「枯れた骨は生き返るか」(エゼキエル書第37章1節~14節)

2017115日(全聖徒主日聖餐礼拝―典礼色―白―)、エゼキエル書第371-14節、ローマの信徒への手紙第61-11節、ヨハネによる福音書第151-17節、讃美唱116(詩編第1161-19節)

説教「枯れた骨は生き返るか」(エゼキエル書第37章1節~14節)

 今日、私たちは、全聖徒主日を記念して集まっています。今年は宗教改革500年記念の年であります。マルティン・ルターが、時のローマ・カトリック教会の行っていた贖宥券の販売に対して反対して立ち上がったのは、15171031日であり、翌日の111日の全聖徒の日の礼拝に向けて、ヴィッテンベルクの城教会の門扉に95箇条の提題を張り出したと伝えられているのであります。
 それは、主イエス・キリストが、お出でになられ、「神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ」と言われたとき、キリスト者の全生涯が悔い改めであることを示されたのであるという第1条から始まっています。そして、この提題が、全聖徒の日の礼拝の前日に張り出されたということには、深い意味があったのではないかと思うのです。
 今日は先に召された聖徒たちのことを思い起こす日でありますと共に、私たちの残された生涯について、思いをひそめる時でもあります。
 聖徒とは、いわゆる聖人君子というような意味ではなくて、自分が罪深い者であることを知らされて、洗礼を受け、キリスト者となったすべての人のことであります。
 今日は、第1朗読に与えられましたエゼキエル書第37章1節から14節までを通して、そこに福音を見出していきたいと思います。
 この記事、エゼキエルが見た幻がどのような時のことであり、場面でのことであったのかは、定かに記されてはいません。
 しかし、エルサレムが、バビロン帝国によって滅ぼされた紀元前587年以降のことであったのは確かでありましょう。神の民であったイスラエルの民が、神に対して罪を犯したゆえに、イスラエルの国は滅ぼされた、そして、バビロンへとエルサレムの主だった者たちは捕囚として連れて行かれた出来事が起こったのであります。それは、彼らの祖先が、エジプトに逃れたときに、そこで奴隷とされたときに、モーセによって出エジプトの出来事が起こったのに匹敵する、彼らにとっては今でも忘れることのできない挫折の出来事でありました。
 そこで、闇と絶望以外には、何も見出せない現実の中にあって、エゼキエル
に、枯れた骨の幻と主なる神からの預言の言葉が与えられるのであります。
 主の手が、エゼキエルの上に現れ、主の霊において、彼は、谷間の平地の真ん中に連れて行かれます。そして、そこは骨でいっぱいであった、しかもその骨は甚だしく枯れていたというのであります。
 どこかの戦場であったのでしょうか。丁重に葬られもせず、放置されて、その骨は、干からびており、無数であったというのであります。死は、神に背いた罪の結果であると考えられていました。神の呪いを受けたイスラエルの民の姿であったのでしょうか。
 そこに、主の霊において連れて行かれたエゼキエルは、主によって、あなたはこれらの骨が生き返ると思うかと尋ねられます。
 彼は、それはただあなたのみがご存じですと答えるしかありません。主は、これらの骨に生き返るように、預言して、霊に言いなさいと命じられました。そして、主の言われる通りに、預言しますと、これらの骨はカタカタと音を鳴らして、近づき始め、骨には筋肉がつき、その上のすべてに皮膚がかぶさったのであります。しかし、その中には霊はまだありませんでした。
 主は、彼に、四方から霊を、それらに向かって吹きつけるように預言して言いなさいと命じます。そして、その通りにすると、今度はその骨どもはしっかりと立ち上がり、その足で歩き始めます。そのとき、主の言葉がありました。
 これらは、イスラエルの全家である。彼らは、自分の希望は消え失せた、自分たちは滅びると言っている。
 しかし、私が、彼らを、彼らの墓から引き上げ、彼らの土地に連れ帰るとエゼキエルに預言して、告げられるのであります。そして、彼らは、私こそがまことに神であり、このことを語り、なしたことを知るようになると言われるのであります。

 死とは罪の結果であると聖書は告げています。しかし、その死をも、神は支配なさっておられます。土に息を吹き込まれ、霊を注がれて生きる者となった私どもは、枯れた骨となっても、命の主である神が、その霊を吹き込まれる時、死をも打ち破って、肉をまとい、霊が与えられて、新たな人間へと回復させることがおできになるのであります。それが、復活であります。 死の世界、地下の陰府の世界に降りた者は、生きる望みはないと、旧約の世界では考えられていました。しかし、エゼキエルは、そのような罪に陥って死んだ人類をも、主なる神は、命へと再び回復することがおできになることを、まことの神である主によって示され、その生かす霊に向かって、主が命じられた通り、預言しているのであります。主が語られたことは、その通りになるのであります。そのことを、私どもも信じて、主イエスが定められている善い働きにいそしむ者とされたいと思います。 人知では到底測り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。             

0 件のコメント:

コメントを投稿