2017年9月9日土曜日

「信仰のみによって義とされて」 ローマの信徒のへ手紙第3章21節~22節

説教「信仰のみによって義とされて」
ローマの信徒のへ手紙第321節~22
渡邊賢次

 私たち、特に現代人は理性に重きを置き、すべての問題も人間の理性で解決することができるというのが特に近代以降の科学の発達や文明の発展の出発点になっているように思います。しかし、聖書の考え方はそのような人間の理性に対して、どこまで信頼を置き、楽観的に考えているのでしょうか。実は、決して、そうではなく、人間の理性では、決して救いを見出すことはできず、ことに人間の罪の問題に関しては、私たちは、自分の力では決して解決することはできないことを聖書は語っています。
 現代の世界も、また、今の日本の社会も、行き先が見えず、閉塞感が漂い、行き詰っているように思われます。そのような混迷の中にあって、私たちは今一度、異邦人へ福音を伝えた使徒パウロのローマの信徒への手紙の使信の中核と言われる第321節以下からのみ言葉に聞いていきたいと思います。
 ここで、パウロは、「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」と述べています。すぐ前の部分で、パウロは、私たちの中には、正しい人は一人もいないと言っています。アダムとエアバが罪を犯して以来、誰一人として罪なき者はいないというのであります。
 そのような闇の続いた人間の歴史の中に、まさに今や神の義が見えるようにされたと、ここでパウロは語りだしているのであります。それも、律法とは、別に律法の外から、律法の助けによらずに、しかも、律法と預言者とによって立証されながらとうのであります。
 律法によっては、救われることはできず、ただ罪の自覚しか生じないとパウロは言うのであります。律法それ自体は悪いものではなく、それ自体は聖であり、善いものであるが、それを、罪によって私たちは果たすことができないのであります。
 私たちは、律法の行いによって救われることはできないのであります。ところが、そのような私たちのところに、今や、「神の義」が見えるようにされたというのであります。神の義とは、神が正しい方であることであります。神が神であられることであります。それを、自ら、私たちに見える形で、すなわち、主イエスの十字架の死を通して明らかにされたというのであります。
 そして、それは、旧約聖書を通して証言されているとおりに、実現したというのであります。
 そして、パウロは、その神の義とは、「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる」ものだと言います(22節)。これは、もとの文では、イエス・キリストの信仰を通して信じるすべての者に与えられるとなっています。
 私たちの信仰の行為というのではなくて、イエス・キリストの信仰、主イエスの父なる神への信頼あるいは、あるいは私たちへの誠実に対して、私たちが信じゆだねることによって与えられる「神の義」だというのです。神が、主イエスの十字架の死を通して与えてくださった義に全面信頼を寄せることだけが、私たちに必要なことなのであります。
 この「信仰のみによって義とされる」ということを、ルターは発見し、宗教改革につながっていったのであります。行いによっては救われず、その可能性はゼロなのであります。
 そして、そこには、異邦人も、ユダヤ人も区別はなく、すべての人がそうなのであります。
 続けて、パウロは、以上のことを、詳しく説いていくのであります。すなわち、すべての人は罪を犯したので、神の栄光からは足りなくなっているといいます。その私たちを、神は、キリスト・イエスにおける贖いを通して、その血でもって無償で義としてくださる。罪の囚われの身となっていた私たちを代価を払って、自由にしてくださったのであります(25節)。
 さらに、それは、神がキリストを罪の償いの供え物として、今まで犯されてきた罪の赦免のために、ご自分の義を証しするために、キリストの血において、その信仰を通して、すなわち信じる者のために、公然とお立てになり、開示なさったというのであります(26節)。
神は、私たちの罪を放っておくことはできません。しかし、私たちは、自分の力では罪をどうすることもできません。神は私たちを造られた方であり、憐れみ深く、私たちを愛し、罪を赦すお方であられ、最後の救済手段として、ご自分のみ子を罪のなだめものとして、十字架の死にお付けになったのであります。それは、「罪の償いの供え物」すなわち、イスラエルの民のために大祭司が契約の箱のふたのいけにえの血をささげたその供えものとして、主イエスを、私たちのために与えてくださったのであります。
 このように神は忍耐して来られ、まさにこの時に、ご自分が義であることを示し、このイエスへの信仰する者たちを義とすることを示されたというのであります(26節)。
 このように、私たちは、まったく無償で、贈り物、恵みとして、キリストの十字架の死を通して、それに信頼するという信仰のみによって義とされ、神との関係が、神の側からの働きかけによって与えられているのであります。
 私たちは、恵みのみによって義とされ、今や闇から光のもとに移され、罪から解き放たれて、生かされているのであります。そして、再び神の栄光を表しつつ生きることが許されているのであります。
 神が、私たちを義としてくださったのであります。それを、私たちは信頼して受け入れるだけであります。罪に対して下される神の怒りを、神は、私たちに向けられず、罪なき独り子イエスの死を通して、罪を滅ぼしてくださったのであります。この神のなさったみ業である神の義によって、私たちは神の子としての歩みを、新しく生きることが許されているのであります。信仰のみによって、神によって義とされているその幸いに感謝しつつ、私たちは、神を愛し、隣人に愛し仕えていくキリスト者の道をここから歩んで行こうではありませんか。アーメン。












 


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