2017年6月26日月曜日

「み言葉に生きる人に」(マタイ福音書第7章15節-29節)

マタイによる福音書第715-29節、2017625日(聖霊降臨後第3主日礼拝―緑―)、申命記第1118-28節、ローマの信徒への手紙第18-17節、讃美唱4(詩編第42-9節)

説教「み言葉に生きる人に」(マタイ福音書第715-29節)

 いよいよ今日の福音書の日課は、マタイ福音書の山上の説教の終わりの部分が与えられています。ここで、主イエスは、あなた方は偽預言者たちに警戒しなさいと語っておられます。そして、彼らは、羊の装いでやって来るが、内側は貪欲な狼、飢え切った者たちであり、あなたたちの命を踏みにじるためにやって来る者であると言われます。
 これは、外部からくる迫害者たちではありません。私たちと同じ、教会の中で、私たちの良き指導者たち、説教者たちと同じように、主のみ名において預言をし、神の言葉を語り、悪霊を追い出し、数々の力ある業、奇跡をなす者としてやって来るのであります。しかし、彼らは、まことの福音を伝える者ではありません。彼らは、私たちに対して、何も信仰を持っても変わっていないので、まことの信仰ではないと反対します。そして、よく目につく、華々しいことを行い、私たちを惑わすのであります
。しかし、主は、良い木は悪い実をもたらすことができず、悪い木は良い実を生むことはできない。あなた方はその実から、彼らを見分けることができる、その真偽を見定めることができると言われます。
 宗教改革の時代、マルティン・ルターは、修行による修道僧や修道女、聖人たちの行いによって、一般の者たちも免罪符、贖宥券等によって救われることに反対すると共に、熱狂主義者たちの行き過ぎたやり方にも反対しました。
 彼らは、主よ、主よとみ名を呼ばわり、変わったやり方で、礼拝をしたり、人々の目を奪うような目立ったふるまいによって、人々を動かしていたのであります。しかし、ルターは、彼らは決して良い実を結ぶ者ではないと、その実から注意して、あなた方は見分けるようにと促したのであります。こうして、山上の説教において、主は、最後に、私の言葉を聞いて行う者は、岩に向かってその基礎を置いて、家を建てた人と似た者とされるであろうし、逆に、そうしない人は、砂に向かって礎を置き、家を建てた人に似るであろうと言われ、両者は終わりの日にまったく違った二者に分けられるだろうと警告なさっておられるのであります。そして、これらの山上の説教のお言葉を完成させられたとき、これを聞いていた群衆は、正気を失っていた。なぜなら、主は律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えておられたからであると、マタイは、この部分を総括し、閉じているのであります。アーメン。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          

2017年6月22日木曜日

「思い煩いは神にゆだねる」(マタイによる福音書第6章24節~34節)

マタイによる福音書第624-34節、2017618日(聖霊降臨際後第2主日礼拝―緑―)、イザヤ書第4913-18節、コリントの信徒への手紙一第41-13節、讃美唱92(詩編第922-10節)

説教「思い煩いは神にゆだねる」(マタイによる福音書第624節~34節)

教会暦の上での大切な、四旬節、受苦日、復活祭、復活節、聖霊降臨祭を過ぎて、今日から再び、聖霊降臨後の季節に入りました。
今日は、「思い患いを神にゆだねる」と説教題を付けておきましたが、正しくは「思い煩う」と書くべきでしょう。しかし、思いわずらうことは、ある意味で病であり、その意味では間違った題ではないと改めて思うのであります。
私の母がまだ洗礼を受ける前に、私が高校のころでありますが、この主イエスのみ言葉を読んで、この言葉だけはその通りだなと思うと、私に語ってくれたことを思い出だします。
今日の個所は、新共同訳では、マタイ福音書第6章の24節と25節の間には1行あけてあって、25節から34節までが、一つの段落となっているのですが、私どもの聖書日課、ペリコペーでは、24節から34節までが、一つもまとまりとして続けて読むように、伝統的な区分に従っているのであります。
さらに言えば、この分け方は、第6章の19節からの流れに沿って読まれるべきことを指示しているように思います。天にあなたの宝を積め、あなたの宝のある所にあなたの心もある。あるいは、あなたの心の目は澄んでいるのか。そして、そこに、あなた方は二人の主人にかね仕えることはできない。そして、あなた方は富、マモンと神とに、かね仕えることはできない、と主は言われ、そして、そのあとに、今日の何度も繰り返される「思い悩むな、思いわずらうな」という言葉が出てくるのであります。
主は、悪魔的で人格的な力を持つ、富、マモンなるものと、神とにかね仕えるべきではないと言われるのではなく、かね仕えることはできないと断言されているのであります。そして、それだから、あなた方は命のことで何を食べ、何を飲み、体のことで何を着ようかと思い煩ってはならないと言われる。
神に仕え、従っていくために、思い煩いから解かれて、また、空の鳥、天の鳥や野の花のように、すべてを神の守りにゆだねて、なすべきことをなしていくようにと言われます。思い煩わないで、生きてゆくことができると、主は、私どもの日々の労苦を十分にご存知の上で、また、御自分はそのような、思い煩い、日々の悪、人生の苦難をその身に、私どものために代わって引き受けられながら、しかし、あなた方は、その日々の思い患いから、解かれて生きてゆけると、ここに約束なさっておられるのです。そのために、どうすればよいのか。主は、まず第1に神の国と彼の義を求めなさい。そうすれば、あなた方に必要な者は添えて与えられようと言われます。神は、私どもが祈るよりも先に、私どもに必要なものが何であるかをご存じであると言われます。
そして、旧約の詩人も、自分は、主に従う人が、他人にパンを乞い求め、さらには、その子孫までもがそうするのをいまだかつて見たことがないと証言しています。
マモンに決別し、神にのみ仕えていくとき、日々、耐えられないような労苦、災厄に遭うということもありましょうが、神がそこにも支配しておられるのですから、一日一日を神のご支配にゆだねて、その一日を精一杯生きてゆくことができる。その主の言葉に励まされて、私どもは、思い煩いから解き放たれた、キリスト者の歩みをさせていただきましょう。アーメン。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                               

2017年6月15日木曜日

「神のみわざを語りだす弟子たち」(使徒言行録第2章1節~21節)

ヨハネによる福音書第737-39節、201764日(聖霊降臨際礼拝―赤―)、ヨエル書第3章1節-5節、使徒言行録第21-21節、讃美唱104(詩編第10424-35節)
   
説教「神のみわざを語りだす弟子たち」(使徒言行録第21節~21節)

  今日の礼拝を、ペンテコステの礼拝といいます。50日目の日の礼拝という意味です。ちょうど、今年のイースターが416日ですから、その日から数えて、今日64日が50日目に当たります。主イエスが復活させられたのが、イースターであり、過ぎ越しの祭りにおいてでありました。
 そして、復活の主は、弟子たちに現れ、使徒言行録によると、その後40日間、弟子たちと共に飲食をなさりながら、天に上げられる前に、父の約束されたものを、エルサレムにおいて待つようにとお命じになられました。そして、50番目のその日が満たされたのであります。
 それは、いみじくも、ユダヤ人たちにとっての七週の祭りに当たる日であり、五旬祭ともいわれる三大祭の一つに当たる、ユダヤ人たちにとっての集会の日でありました。当時のユダヤ人の成年男子は、過ぎ越しの祭りと、この日の五旬祭と、秋の仮庵の祭りの、年に少なくとも三回はエルサレムの神殿に詣でるべきこととなっていたのであります。この五旬祭は、他の二つに比べれば、地味な祭りであったようであります。
 イスラエルの民が、エジプトから、出エジプトの後に、カナンの地に戻り、農耕生活にいそしむようになって、最初は新穀の感謝、小麦の初束をささげる収穫感謝の祭りでありましたが、この時代には、他の二つの祭り同様に、出エジプトを記念する祭りの意味合いが濃くなり、特にシナイ山での十戒、律法を与えられたことを記念する祭りとして定着していたようであります。
 そういうわけで、この祭りのために、信心深いユダヤ人たち、またそのユダヤ教への改宗者たちが、地中海世界の方々から、また、東はチグリス・ユーフラテス川流域や、エジプト、カスピ海、黒海周辺、クレタ島からアラビアまで、さらには、ローマからも、エルサレムの都に戻り、滞在していたのであります。
 さて、この日に弟子たちは、一つどころに集まり、同じ一つ思いとなって祈っていたのであります。少し前の記事を読むと、二回座敷に集まり、120人ほどの者が、主イエスの母マリアも含めて祈っていたとありますが、今日の記事の者たちが、同じ者たちで、同じ場所であったのかは定かでありません。
 12人の使徒たちであったのか、ガリラヤからのもっと大勢であったのか。とにかく、その日、その家じゅうを、天から強い風が吹き付けるような音がして、今度は、家の中に座っていた者たちの上に、火のような舌のかたちをした聖霊が一人一人の上にくだってきて、とどまったのであります。そして、そのガリラヤからの主イエスの弟子たちは、聖霊に満たされて、おのおの違った言語の言葉で語りだしていたのであります。それは、異言を語るという場合に使われる言葉が使われています。
  さて、それを聞きつけた、エルサレムに滞在していた、世界中から集まっていたユダヤ人や改宗者たちがやって来て、自分たちの生まれ育った国の言語で、主イエスの弟子たちが、神のみわざを語りだしているのを見て、度を失して驚き怪しむのです。その出来事は、家で起こったとありますが、あるいは神殿でのことであったのでしょうか。そして、そこで見られた表象は何を意味していたのでしょうか。世界中から集められていたユダヤ人たちは、これは一体何なのかと戸惑い、ある者たちは、彼らは甘い新酒に酔っているのだとあざ笑うしかなかったのです。
  その時、ペトロが、11人と共に立ち上がって、復活の主イエスと出会って後初めての説教を語りだします。ユダヤの人たち、知っていただきたいことがあります。あなた方が見聞きしているのは、預言者ヨエルが預言していたことなのですと。終わりの日々に、-神は言われるー私は私の霊からすべての肉に向かって、それを降り注ぐ。そうすると、あなた方の息子、娘は預言し、あなた方の若者は幻を見、あなた方の内の老人は夢を見る。私のしもべ、しもめにも、その日々には、私の霊から、降り注ぐと彼らも預言するだろう。上で、天において前兆を、下で地の上ではしるし、証拠を、私は与えよう、血と火とたちこめる煙を。太陽は闇へと変えられよう、月は血へと、大いなる輝かしい主の日が来る前に。しかし、主の名を呼び求める人はみな救われるであろうと預言がここに実現しているのですと、ペトロは新しい時代を、ここに宣言しているのであります。

  ペンテコステのこの日の出来事は、キリストの時代から、教会の時代へと新しい時代が始まったことを記しています。聖霊がくだり、聖霊に満たされるとは、預言の言葉が与えられ、神のみ言葉を、弟子たちが語りだせるようになったということです。それは又、復活の主のみ名を呼び求める者は皆救われる時となったのです。そして、そのみ名の他に、この地上には救いは与えられていないのであります。主イエスと共にやって来ていたガリラヤの弟子たちの語る言葉は、バベルの塔の出来事の時に人々の言葉が互いに通わなくなったのとは正反対に、すべての国の人たちに分かる救いの言葉であったのであります。ヨエルの預言の言葉は、直接にはいなごによるユダの国の飢饉、危機に際しての、しかし、祝福と救いの約束を伴った、黙示録的な警告の預言であったといいます。しかし、弟子たちは、そこに主イエスの聖霊降臨の約束の成就を見てとることができたのであります。アーメン。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                       

2017年6月12日月曜日

「ヘブル書講義解におけるルターの神学思想」岸千年著

―最近読んだ本からー
「ヘブル書講義解におけるルターの神学思想」岸千年
発行 昭和36111日 1961    
           発行者 聖文舎
           印刷  精文堂KK
 今年はマルティン・ルターの15171031日の95箇条の提題から始まったとされる宗教改革から500年記念の年を迎えている。今から20年ほど前、結婚して水俣教会に赴任したころ、岳父から、家内の祖父に当たる岸千年先生の著書である本書を譲られ、読んだのであるが、当時内容を理解することはできなかった。本書は、岸先生が京都教会におられるころ、同志社大学を使って研究し、同大学から受けた博士論文であったと記憶する。私は京都にいた学生時代に京都教会に通うようになった者であるが、たまたま銭湯で知り合った統計学であったか、何かの老教授が「あなたは岸千年先生を知っているか」と聞かれたことがある。その後、何度か、岸先生は京都教会に説教に来られ、私も32歳で神学校に入ることになり、まる一年ほど神学校でもお世話になったのだが、先生は天に召され、そのとき先生の著訳書を集めたりしたのだが、不思議な縁でその孫にあたる家内と結婚することにもなったのである。
牧師となって23年ほどになるが、宗教改革500年でもあり、久しぶりにルターセミナーにも出、この度、本書を何とか通読することができた。先輩の牧師先生方からは、ルーテル神学校長初期の頃の岸先生は極めて厳しい校長であったことを聞かされている。しかし、私がお目にかかった先生は、いつもにこにこした、元気のいい好々爺であった。京都時代に薫陶を受けた婦人会のある姉妹から伺った、岸先生から聞いて、耳に残っている言葉は、「あれもこれもはできない。あれか、これかでなければならない」というものであった。少し、前置きが長くなってしまったが、本書を読んでの感想を記したい。この書は、1961(昭和36)年に発行されている。岸先生の生涯は明治311898)年115日生まれで、1989(昭和64年、平成元年)630日逝去であるが、91歳で天に召されるまでほぼ生涯現役であった。であるから、この書は、先生の油の乗り切った60歳ころに完成されたものといえる。ルターの「ヘブル書講義」(1517年~1518年)を中心に、ルターの神学、信仰、聖書解釈、人間観やキリスト論、罪観等々、いわゆるルターの神学の骨子を、2000年の歴史の中で洞察し纏めたものといえる。日本にルターを紹介した草分けでありその代表的著書といえよう。ルターの「聖書のみ」「信仰のみ」「恵みのみ」の真意が理解できた。今ではキリスト教専門の古本屋でしか、手に入らないが、3000円ほどで入手できる。