2017年5月24日水曜日

「執り成す方を送るとの主の約束」(ヨハネ福音書第14章15節~21節)

ヨハネによる福音書第1415-21節、2017521日(復活後第5主日礼拝―白―)、使徒言行録第1722-34節、ペトロの手紙一第38-17節、讃美唱66(詩編第661-9節)

 説教「執り成す方を送るとの主の約束」(ヨハネ福音書第1415節~21節)

 私どもは、ここのところ復活節を、ヨハネ福音書の告別説教の1節から与えられています。最後の晩餐で、主イエスが弟子たちの足をお洗いになられた。そして、あなた方も、師である私がしたように、互いに仕え合いなさいと教えられた後に語られているお言葉の一節であります。
 始めと終わりに、囲い込みのようにして、もしその人が私の言葉を守るならば、その人は私を愛する者である。私を、あなた方が愛するのならば、私の戒めを守るであろうと、主は言われています。ご自分は、もう数時間後には、弟子たちと、この地上での別れをすることになる。しかも、主は十字架上の死を遂げて、弟子たちは一旦はばらばらにされる時が迫っている。
 しかし、そこで、主は、あなた方は、私を愛するならば、私の言葉、あの身をもって教えた、主が私たちを愛されたように、互いに愛し合い、仕え合うとの戒めを、守るであろうと弟子たちに語られます。
 そして、この時、私は父にお願いしよう、別の弁護者をあなた方に与えてくれるように、そうすれば、その方はあなた方と永遠にいてくださることになると約束なさいました。
 この弁護者と訳されているもとの言葉は、パラクレートスという言葉です。そばで叫ぶ、あるいはそばに呼ばれるというパラクレオーという言葉から来ています。弁護士とか、カウンセラーとかの意味があり、助け主とか慰め主とか訳されてきました。主イエスも、パラクレートスとも言われ、新共同訳はここで、適切に別の弁護者と訳しています。主イエスに代わって、永遠に私たちと共に、私たちのそばにいて、私たちを励まし、支えてくれる聖霊を父が与えてくれるように、私はあなた方のために願おうと言われるのであります。
 このお方は、真実の霊であるとも主は言われます。主イエスは、ご自分こそ、道であり、真理であり命であると言われました。その真理と命である主御自身へと導くのが、この弁護者なる聖霊の働きであります。
 この世は、これを見ず、認識もしないが、あなたがたは、それを認識するであろうと、主は私どもがこのお方を認識することになると約束されたのであります。
 そして、主は、私はあなた方を孤児にはしておかないと言われます。聖霊が、この後、父への主の願いを通して与えられることになるからであります。そして、それと共に、主はご自身のご復活を約束して、続けて語られます。私はあなた方に向かってやって来る。あなた方は、私を見るであろう、なぜなら、私は生きる、そして、あなた方は生きることになるであろうからだ、と主はここで、主が、私たちのあらゆる罪責、死と闇を打ち滅ぼすために、十字架の死を遂げ、まったく新しい命によみがえられ、私たちもその全き命に生きるようになると、別れを前にしている弟子たちにはっきりと約束なさっておられる。
そして、もはや、私たちは誰一人として自分のために生きるのではなくなる。そして、もはや、孤独に、孤児として置かれることはなくなると、これから起こることを預言しておられるのであります。
それは、死を前にした人にとっても、「私は生きるので、あなた方は生きることになる」と主は真の慰めを、主イエスを信じるすべての人に約束なさっておられるのであります。
主イエスは、ここで繰り返し、「あなた方は、」「あなた方は」とヨハネの教会の人々に向けて語っておられます。私たちは、もはや独りぼっちではないのであります。
そして、主は、その日には、父が私の内におられ、私があなた方の内におり、あなた方が、私の内にいることを、あなた方は認識するであろうと言われます。
もうしばらくすると、世は私を見なくなるが、あなた方は私を見ると言われます。
そして、最後に、私の掟を持つ者、私の掟を守る者が、私を愛する者である。その人を、父は愛され、私もその人を愛するであろう、そして、私はその人に、自分を現すであろうと主は明言なさっています。
主イエスを愛する者とされる、それは、主イエスのご復活を信じて、新たに生きる者とされることであります。そして、それは、教会において起こることであり、兄弟姉妹のために祈り、仕え合うことを通して、初めて実現することであります。
この復活節の終わりの主の日に、私どもは、主のご復活の日に起こること、私たちの弁護者である聖なる霊が、私どものもとに送られ、そして、ご復活の主にまみえ、主と出会い、はっきりと認識するに至るとの主イエスの言葉をいただいています。そして、私どものすべての者がその言葉に生きることができます。
実際に主イエスと飲食を共にし、そのみ声に接し、手で触れていただいた、この日の弟子たちに勝るとも劣らず、私たちは、主イエスとは別のパラクレートスなる執り成し手である真理のみ霊をいただいており、また、ご復活の主に出会って、「私は生きるのであなた方も生きるであろう」との主の約束を受けて、生かされている幸いを、教会を通して、感謝したいものであります。



                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                   

2017年5月19日金曜日

―最近読んだ本からー 「国家神道と日本人」島薗進著

―最近読んだ本からー
「国家神道と日本人」島薗進
            岩波新書(新赤版)1259
発行 2016721日 第6刷発行    
           発行者 岡本厚
           印刷所 株式会社 岩波書店
 日本人は無宗教という言い方がしばしばなされる。島薗氏は、それに対して、そうであろうかと最初に疑問を出されている。この書を読む契機となったのは、尊敬する先輩の牧師先生が、島薗進氏の記事がその日の朝日新聞に載っているから是非読みなさいとのアドバイスからであった。
 早速、店で朝日を買ってきて読んだのである。それは、確か現在の安倍内閣の伊勢神宮参拝などの動向を危惧するものであったと思う。その記事の終わりに、先生の著書として、この本が挙げられていたので、買っておいたのである。先生は1948年生まれであるから、まだ69歳であり、今もなお、現代日本社会に対して、この著書のような発言をなさっておられることを思うと心強い。
 日本の神道の影響の多大であることを、島薗先生は、宗教学の立場から明らかにしておられる。一口に神道といってもその定義付けは難しく、特に明治維新以降の国家神道が、日本社会に及ぼした内容について、多くの側面から考察を展開しておられる。そして、国家神道の中心に天皇崇敬があり、皇室祭祀と神社神道が、紆余曲折を遂げながら、明治憲法、教育勅語などを転機として、戦時体制を整えていく展開となっていく。
 その中で、仏教や新宗教も取り込まれていったと大枠では捉えることができよう。明治維新の前から、尊王攘夷では一致していたとはいえ、神道と、国学、儒学の間での相克も一筋縄ではいかなかった歴史が検証されている。
 この著書の中では、内村鑑三の不敬事件が取り上げられているが、キリスト教、西洋思想は、明治政府の国家神道を日本国の国体とする政策の中で一貫して遠ざけられていくのである。では、象徴天皇制となった現在ではどうなっているのか。島薗先生は、国家神道、天皇の皇室祭祀を中心とする実態、意識、風土といえようか、それは今も形を変えながら存在していると見ておられる。

 天皇や皇室に対する敬慕の念は確かに日本人一般に今なお大きい。そのような中で、私たちは、世界大戦に突入していった日本人の宗教観や価値意識に国家神道が与えた影響力を忘れることはできないし、それはまた、現在も続いている大きな課題であることを正視しなければならないと改めて自覚させられた。今後とも島薗先生の働きに注目し、学ばせていただきたいと願っている。

2017年5月16日火曜日

「場所を用意しに行かれるみ子」(ヨハネ福音書第14章1節~14節)

ヨハネによる福音書第141-14節、2017514日(復活後第4主日礼拝―白―)、使徒言行録第171-15節、ペトロの手紙一第24-10節、讃美唱146(詩編第1461-10節)
 
説教「場所を用意しに行かれるみ子」(ヨハネ福音書第141節~14節)

 先週は「主の憐みの日」の礼拝として、ヨハネ福音書第101節から16節の」「私が良き羊飼い」との主のみ言葉を聞きました。今年は主たる福音はマタイ福音書ですが、私たちは、残すところ2回の復活後の主日も、ヨハネ福音書から、福音の記事が与えられています。しかも、今朝と次の主の日にはいずれも、最後の晩餐の記事の中から、今日の個所とそれに続く個所が読まれます。
 復活節を祝うこの時期に、今日の個所が選ばれているのはなぜなのか、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 主イエスは、ここで、あなた方の心を騒がせないがよいと語り始めておられます。もう数時間後には、裏切ったユダが、エルサレム当局の者たちと共に、主を捕えに来る。そして、主の命がこの世から絶たれる時が迫っている。11弟子たちは、本能的にそのことを直感していたに違いありません。その時に主は、この言葉を語られる。そして、続けて、「神を信じゆだねなさい、そして私をも信じなさい」と言われます。弟子たちは、自分の生涯を傾けてきた大きな支えを失おうとしている。自分のすべてを賭けてきた主イエスがいなくなることを、肌で感じ取っている恐怖と不安のどん底にあったともいえる弟子たちに、おののくことはない、神にゆだねなさい、そして、私へと信じゆだねればいいと言われます。
 私たちも、しばしば、それに近い試練や危機にぶつかり、不安に打ちのめされそうになります。しかし、この主の言葉によって、それを乗り越えることができるのであります。
 主は続けて、不思議な言葉をここに残されています。「私は、あなた方のために、父の家に場所を用意しに行く」と言われている。私の習った宣教師の先生は、教会学校の分級で、中学クラスを一緒に教えるときに、今日の個所をある日のテキストとして選ばれ、このような言葉を語った人は、イエス様の他にはだれもいませんと語られたのを、今も鮮明に覚えています。
 主は、父の家には多くの住まいがある。そうでなければ、あなた方のために場所を用意しに行くといっただろうか。そして、私は場所を用意したら、また、やって来る。そして、あなた方をそこへ連れて行くであろう。そうして、私にいるところに、あなた方もいることになると言われます。
 復活節を祝っているこの日に、今日のみ言葉が与えられているのは、主がこの後、苦しめられ、十字架の死を遂げ、三日後によみがえり、天の父の父の右の座にお座りになることの意味を、今日の個所が表しているからではないでしょうか。
 主は、続けて、あなた方は、私が行くところ、その道を知っていると語られます。すると、あのトマスが、「主よ、あなたが行くところ、その道を私たちは知りません。どうして、知ることができましょうか」と質問するのです。
 主を慕って、一心についてきたトマスの、愚直といえば愚直な問いかけであったかもしれません。しかし、主はそれを無視して、答えられないようなお方ではありません。この問いかけによって、私たちに最も必要な主の言葉の一つが残されることになったとも言えましょう。主は、「私が、道であり、真理であり、命である。私を通らないでは、だれも父のもとにやって来る者はいない」と言われたのであります。私があなた方に道を教えようというのではないのです。私が道であると言われます。父なる神のみことに行くには、子であるキリストを通してでなければ、到達することはありえないと言われます。
 他にも、道はあるのではないかと考えがちな私どもに、まことと命に通じる道は、私の他にないと言われます。それが、分かれば、私どもは、もはや、どのような試練にあっても、心騒がすことはなくなるのではないでしょうか。
 さらに、今度は、フィリポが、「主よ、神を見せてください。そうすれば、私どもは満足します」と懇願するのであります。
 主は、フィリポよ、あなたはこんなに長く私と一緒にいるのに、父がわからないのか。私を知った者は、父をも知っているのである。今から、あなた方は父を知っている、否、父を見ているのであると言われます。
 神を見た者は、死なねばならないと、旧約聖書では信じられていました。
しかし、主はここで、私を知る者は、父をも知っており、父を見たのであるとまで言われるのであります。そして、私は、父の内におり、父も、私の内におられる。私が語っている言葉は、父が私においてなさっているみ業なのであると言われます。そして、そのことを信じる者は、私のしている業を行い、さらには、私よりももっと大いなることを行うことになると、弟子たちに、そして、信じる私どもに約束なさっておられるのです。今の世界中に広がっている教会の働きの預言であります。
 そして、その働きのためにも、主は、何事でも、私の名において要求しなさい、そうすれば、私がそれを行うであろうと、主のみ名による祈りの必要性を教えておられます。主を、そしてその父なる神を信じるということは、主イエスの名において、祈り求めるということであります。主の命の唯一の道に生かされ、常に心騒がされないで、宣教の働きへと励む者とされたいものです。













                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                

2017年5月10日水曜日

「迷わず生きるために」(ヨハネによる福音書第10章1節~16節)

ヨハネによる福音書第101-16節、201757日(復活後第3主日礼拝―白―)、使徒言行録第61-10節、ペトロの手紙一第219-25節、讃美唱23(詩編第231-6節)
   
説教「迷わず生きるために」(ヨハネによる福音書第101節~16節)

 私どもは、この復活節の4回目の主の日に、今日の「私はよい羊飼いである」という主イエスご自身がご自分こそが「良き羊飼い」であるとの主の残されたお言葉を聞かされています。
 昔から、この箇所が、主の復活後の第2あるいは、私どものように第3といった主の日に読まれ、「主の憐みの主日」の福音として大切にされてきました。この記事は、生まれつき盲人であった人の眼に主イエスが唾で泥をねり、お付けになって眼を見えるようにされたその第9章の出来事に続いて記されている主のお言葉であります。そして、昔から教会が大きな危機に面したときに、この箇所を通して、繰り返し説教がなされ、教会が教会であることを主イエスがご自分について語っておられるそのお言葉を通して、確認し、あるべき道をその都度、取り戻してきた大切な部分でもあります。
 主イエスは、まず羊と羊飼いについて、ここで語り始めておられます。羊は、羊の囲いの中で初めて安全に保たれるものである。羊飼いが羊たちを中へと導き、門番、見張りは羊飼いに、門、戸口を開き、羊は、羊飼いの声を聞き分け、従っていく。
 ところが、その羊の囲い、柵を乗り越えて、別のところから入る者がおり、それは盗人であり、強盗である。しかし、羊たちは、彼らにはついていかず、その声には従わないと主イエスは語られました。それは、だれに語られたのか。原文では、彼らにとしかないのですが、それは、第9章から続いていた、対立していたファリサイ派の人たちに対してでありました。
 彼らは、そのたとえが、何のことを、主イエスが語っておられるのか、まったく分からなかったともとの言葉では強い言葉で書かれています。ここでの「たとえ」というのは、ことわざ、格言とか謎めいた言葉、隋のある言葉といった意味です。ここでは、主イエスが、自分たちを、羊の囲いに塀を乗り越えて侵入してくる者だと、主がたとえられたのを、このユダヤ人たちは認めることは到底できなかった。というよりも、むしろそのようなことには思いも及ばなかったのであります。しかし、羊たちは、羊飼いの声を知り、見分けてついていく。そして、その一人が、すぐ前に詳しく記されている、主によって、眼に泥を塗って見えるようにされた、生まれつき眼が見えなかった人であります。
 そこで、主イエスは、再び、まことに、まことに、あなた方に言っておくが語り直されるのであります。
 私は、羊たちの門であると言われています。羊たちは、その門、あるいは戸口を出たり入ったりし、また、彼らは牧草を見出す。私は、門であって、それは、羊たちが命を持つため、しかも豊かに持つためであるという。そして、私より前に来た者は、いづれも、盗人であり、強盗であるとまで言われます。それは、この言葉を聞いているファリサイ派やユダヤ人の指導者たちを指して言っておられるのです。
 そして、主は、「私は良い羊飼いである」と言われます。私こそが良い、まことの羊飼いであるとここで断言されます。そして、偽物の羊飼い、所有者でない、雇い人に過ぎない者は、狼が来ると逃げ出すと言われます。そして、狼は、羊たちを引きずり回し、追い散らすのであります。
 しかし、主イエスは、ご自分こそ、待たれた、唯一のまことの羊飼いであって、羊のために、命をも捨てる、差し出すとここでお答えになっておられます。そして、父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じように、羊たちは、私を知っており、私も羊たちを知っており、ご自分の命を羊のために捨てるのであると約束されています。羊たちは、自分の声を聞き分け、従ってくるのだと言われるのです。
 私たちは、この「私こそが良い羊飼いである」という主のみ声を聞き分けねばなりません。その他のどのような声にも聞き従うべきではありません。たとえそれが、自分に生来与えられている誠実さというような賜物であっても、それによって、主にのみ聞き従い、そのお声を知ってついていくことが妨げられるのであれば、それに信頼してはならないのです。
 私は、キリストなしでやっていける、そのような声に私どもは決して従っていくべきではなく、私たちに命を得させ、しかも豊かに得させるとの声に、「私こそが良い羊飼いである」と十字架の死とご復活を通して言われる方の声のみに、聖書の声のみに私たちは従ってくるようにと、主は招いておられるのです。
 今日のペリコペー、聖書日課である福音記事の終わりのヨハネによる福音書第10章の16節では、主は、私には、この囲いにはいない別の羊たちがおり、その羊たちをも、私は導かねばならない、父のご意志によって導くことになっている。そして、彼らは一つの群れとなり、一人の羊飼いのもとへと成るであろうと預言しておられます。確かに、私たち日本人も、主の約束された通り、主の羊の囲いの中へと招かれて今、この私どもの飯田教会の群れへと、一人ひとり招かれ、この後、主の聖餐にも与ります。

 しかし、宗教改革記念500年のいまだなお、一つの教会、一人の「良き羊飼い」である主イエスのみ声を聞き分け、ついていく同じ思いの一つの群れであるかは、問われ続けねばならないのであります。アーメン。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          

2017年5月1日月曜日

「信じるトマス」(ヨハネによる福音書第20章24節~29節)


ヨハネによる福音書第2024-29節、2017430日(復活後第2主日礼拝―白―)、使徒言行録第236-47節、ペトロの手紙一第117-21節、讃美唱100(詩編第1001-5節)
  
説教「信じるトマス」(ヨハネによる福音書第2024節~29節)

今日は、復活後第2主日で、イースターから、3回目の主の日ですが、今日の記事、ヨハネ福音書第2024節から29節は、イースターの翌週の主の日に起こった弟子たちへの二度目の復活の主の顕現の記事ですので、古くから伝統的には、2回目の主日に読まれる個所であります。
最初の主のご復活になられた日、イースターの日に、閉ざされた家の中に集められていた時に、主は平和があなた方にと挨拶されて、弟子たちのところにやって来られましたが、そのとき、ディドモと呼ばれるトマスはそこにはいませんでした。主イエスの壮絶な十字架の死に恐れを抱き、絶望の底にあって、独りでいたのかもしれません。
ほかの10人の弟子たちは、自分たちは「主を見た」と告げましたが、トマスは容易には信じません。主の両手の傷跡を見、そこに指を入れるのでなければ、そしてまた、そのわき腹に手を入れてみなければ、自分は決して信じないと言い張るのです。
このトマスは、ラザロが死んだときに、主イエスがベタニアに行こうと言われたときに、何かを感じて、自分たちも一緒に行って死のうではないかと言ったことがあります。また、最後の晩餐の席では、主が、あなた方は私が行こうとしている道を知っていると言われたときに、自分はあなたが行こうとしている道は分かりません、それを教えてくださいと正直に尋ねた弟子であります。
そして、それに答えて、主は、私は道であり、真理であり、命であると言われたのであります。
私どもが、本当に恐れ、疑い、深い絶望の中に置かれているときには、復活の主を信じることなどできません。しかし、そのような困難を乗り越えることは、復活の主が自らお出で下さらなければできることではありません。
この、主のご復活から8日たった2回目の主のご復活を祝うべき主の日に、今度は、トマスも一緒に弟子たちとともにいました。教会の礼拝をしているところに、その主であられるご復活の主イエスもそのみ体で、お出でになられるのであります。
その日、同じように、閉ざされた家の中に、ご復活の主は、それを乗り越えられて、しかも、十字架の傷跡を保ったままで、その復活の体をもってやって来られる。
そして、再び、平和があなた方にあるようにと挨拶なさり、弟子たちの真ん中にお立ちになられます。しかし、この二度目の弟子たちへの、顕現は、トマスを目指してのものでありました。
そして、主は、私の手を見なさい、そして、指をその傷跡に持ってきて入れなさい、わき腹に手を入れなさいと、ご自分の体を示され、不信仰にならないで、信仰的になりなさいと教えられるのであります。
それを見て、トマスは、どうしたでしょうか。彼はご復活の体の主イエスをその眼で見るや、「あなたこそ私の主であり、私の神です」と信仰告白の言葉を向けるしかありませんでした。
この疑い深く、頑固であった、ある意味では弱い信仰の弟子であったトマスが、ここにあなたしか、私の主はおられず、私の神はおられませんと脱帽したのであります。
昔から、イースターの前夜に向けて洗礼を受ける者が一番多かったのです。そして、イースターの次の主の日であるこの日は、洗礼を思い起こす主日として重んじられてきました。
主の洗礼にあずかった者たちは、この日のトマスとともに、「あなたこそ、私の主、私の神」と信仰を告白して自分の洗礼を思い起こしたのであります。
トマスは、不信仰から、信じる者へと、ご復活の主のみ傷のお体を見せられ、平和があるようにと言われ、信じる者になるようにとのみ言葉によって、新しい弟子へと変えられていったのです。
私どもは、このような者でも、自分は洗礼を受けていると、この主の日、トマスとともに、主のご復活を心から祝うことができます。
自分が変えられ、復活の主とともに、その平和の裡に歩み者とされたことを、はありません。
主が、復活させられて、私どものもとに、平和があるようにと祝福されながら、入ってきてくださいます。もはやどのような恐れも、疑いも、戦いも、この主とともに乗り越えることができます。
もはや、トマスは、疑い深いトマスではなく、信じるトマスとされています。
私どもも、このトマスとともに、変えられて、洗礼に至らせていただいた復活の主イエスを、「わが主、わが神よ」と告白することができます。あなた以外には、私には主人はおらず、私の神はおられませんとはっきり告白することができます。
そして、この復活の主とともにある平和をのべ伝えるものと主イエスはならせてくださいます。

アーメン。