2017年4月26日水曜日

「復活の主と出会う」(マタイによる福音書第28章1節~10節)

マタイによる福音書第281-10節、2017416日(復活祭聖餐礼拝―白―)、使徒言行録第1039-43節、コロサイの信徒への手紙第31-4節、讃美唱118/1(詩編第11814-24節)

説教「復活の主と出会う」(マタイによる福音書第28章1節~10節)

 私どもは、少数の者でありましたが、去る受苦日には、礼拝堂に集められて、マタイによる福音書から、主イエスの十字架上の言葉から、主のみ苦しみを共に思い起こしました。
 それは「わが神、わが神、どうしてあなたは、私をお見捨てになられたのですか」という父のみもとに召される直前午後3時頃に大声で叫ばれた、マタイによれば、主が十字架上で発せられた唯一のお言葉であり、祈りの言葉でありました。父の独り子であるみ子が、父によって見捨てられるということがどうして起こったのでしょうか。
 しかし、主イエスは、その時にも、父である神を、わが神、わが神と二度も呼ばれつつ、霊を父のみ手にゆだねられて、十字架の死に至るまで、父のみ旨に従い通されたのであります。 
 それを、遠くから見守っていたのが、マグダラのマリアと他のマリアたちでありました。そして、そのご遺体を、アリマタヤのヨセフが、引き取って新しい墓に納め、しかしその墓は大きな石で封印され、番兵たちが見張りとしておかれていたのであります。 
 主イエスが、十字架上でなくなり、墓に納められたのは、安息日が始まる前のこと、すなわち、金曜日の日没前のことでありました。そして、安息日は金曜日の日没から、土曜日の日没まで続きます。
 そして、今日、イースターの出来事は、もとの文を読みますと、「安息日の遅くに、それから一つ目の明け方が始まるときに」起こったと記されているのであります。これは、難解な書き方ですけれども、主イエスが何度も予告しておられた、十字架に付けられて三日後に、あるいは、三日目に起き上がらされたということを表しているのであります。
 マグダラのマリアと、もう一人のマリアは、この日早く起き出して、主イエスのご遺体のある墓を見に行くのであります。大きな石でふさがれており、封印されて、番兵たちの見張る墓へ、とにかく二人は出かけるのであります。
 ガリラヤから、主イエスに付き従ってきた女の弟子たちの先生イエスへの人間的な思慕から、二人は、ご遺体を見届けるために来たのであります。あるいは、それとも、既に、この二人は、主イエスが何度も予告していた、主がご復活になるという約束を信じてやって来ていたのでしょうか。それは、ありそうもありません。しかし、ともかく、二人は、墓のところまで、この日の明け方に来たのであります。
 すると、そのとき、み使いが天からくだり、その大きな石を動かし、その上に座ったのであります。それゆえに、大きな地震となり、番兵たちは恐れて死人のようになります。そのとき、み使いは、女たちに言います。「恐れることはない。あなたたちは、十字架に付けられたイエスを探していることを、私は承知しているが、その方はここにはおられない。死人の中から起き上がらさせられたのだ。
ここを見なさい。その方が横になっておられた場所である。あなた方は、彼の弟子たちに言いなさい。彼はあなたがたよりも先にガリラヤに行かれる。そこで、あなた方は彼に出会うことになると。確かに私はあなた方に言いました」と。
 二人は、恐れと大きな喜びをもって、墓から駆け出します。復活の出来事は、私どもに、恐れと喜びとを起こさせるものであります。ところが、その途上で、見よ、主イエスが二人を出迎えられるのであります。そして、「おはよう」と言われて、おなじみの挨拶で声をかけられた。
 二人は、思わず、そのみ足を抱き、ひれ伏し礼拝するのであります。そして、主イエスはそれを温かく受け止められる。11弟子たちよりも前に、起き上がらされたお方は、女の弟子であったマグダラのマリアたちにお姿を現わされるのであります。そして、み使いが告げたのとほぼ同じ使信を二人に託されます。「あなた方は恐れる必要はない。あなた方は出て行って、私の兄弟たちに伝えなさい。彼らがガリラヤへと出発するように。彼らはそこで、私に会うであろう」と。
 ペトロをはじめ、主の十字架におかかりになるときに、主を知らないと言い、主を見捨てて逃げてしまうことを主は前もって弟子たちに予告し、「私は羊飼いを撃ち、羊たちは散らされてしまう」と告げておられました。しかし、主イエスは、そのときに、ご自分は復活した後、彼らより先にガリラヤへ行くと約束しておられました。その使信を伝える務めを、マグダラのマリアたちに託されたのであります。

 そのとき、11人は逃げ出していましたが、再びどこかに集まっていたらしく、マグダラのマリアたちはそこに向かっておりました。そして、ご復活の主イエスにも最初に出会うという光栄をマリアたちは与えられ、その主イエスを通して、再びガリラヤに参集し、兄弟姉妹としての交わりを回復してくださるとの使信を弟子たちに伝えるのであります。死と罪と闇から、私たちを、解き放つために、主イエスがこの朝、死者の中から、父によって起き上がらされ、今も共に生きて、お治めになっておられることを共に祝いましょう。アーメン。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                               

2017年4月19日水曜日

「宮沢賢治童話全集 新装版 6 なめとこ山のくま」

―最近読んだ本からー
「宮沢賢治童話全集 新装版 6 なめとこ山のくま」
宮沢賢治
                発行 2016930日    
                発行者 岩崎弘明
                発行者 株式会社岩崎書店
                定価  2138円 
 宮沢賢治の「なめとこ山のくま」を読みなさいと、ある先輩牧師先生から薦められた。さっそく取り寄せてみたが、しばらくたってしまった。「なめとこ山のくま」は、岩崎書店発行の「全集の新装版の6」に納められている。
賢治が故郷の岩手県を中心に題材として残されている民話、伝説などから作った同系列の童話が他に8篇、載せられている。
宮沢賢治については、詳しく知らないが、晩年、日蓮宗の熱心な信徒であったと聞いている。しかし、一方では、キリスト教の影響も大きかったのではないかとも聞かされている。
若干37歳の若さで、1933年(昭和8年)に病気でなくなっている。日本には、今も各地に古くからの伝説や民話が残っている。「なめとこ山のくま」もそのような日本の地方、特に賢治が生まれ育った岩手の山奥に伝わる伝説から、賢治が作品としたもののようである。

「小十郎」が主人公とも言えるなめとこ山の猟師である。そして、むしろ、真の主人公は「なめとこ山のくま」たちである。小十郎は生きるために、熊を撃ち、その毛皮や内臓などを、安いお金で、町に下りていって売り、酒に変えたり、一家の生活の糧にせざるをえない。熊たちも、小十郎を憎んでいるわけではなく、一匹一匹と仲間を失いながらも、なめとこ山で共生しているのである。ある夜、小十郎は愛犬と森をめぐっているとき、母熊と小熊が向かいの谷の景色を眺めているのに出くわす。小十郎もまた、なめとこ山の熊たちを、この上なく愛していたのである。やがて、小十郎も、熊に襲われる日が来る。そのしかばねを、熊たちは真ん中にして、集まり、葬るかのように群がる。なきがらとなった小十郎の顔もどこか笑っているようであった。そのような自然と動物と人間が一体となって生きていた日本の昔の伝説から、作られた童話が、この全集の6巻に納められている。かなりの年齢である日本人には、だれでも懐かしくなる、そのような童話が9篇、集められている。方言も美しく、文学者賢治が聖霊に促されて、紡ぎ出した言葉の宝庫がここにあるのではないか。

2017年4月10日月曜日

「謙りの主イエスの都入り」(マタイによる福音書第21章1節~11節)

マタイによる福音書第211-11節、201749日(枝の主日礼拝―紫―)、ゼカリヤ書第99-10節、フィリピの信徒への手紙第26-11節、讃美唱22/2(詩編第2224-32節)

説教「謙りの主イエスの都入り」(マタイによる福音書第211節~11節)

 今日から、受難週、聖週間が始まりました。今朝の主の日は枝の主日と呼ばれます。待降節、アドベントの最初の日曜日にも、先ほど一緒にお読みしましたマタイによる福音書第21章1節から11節までが読まれます。それは、新しい一年の信仰生活を、まことの王、主イエスを、私どもの生活の中にお迎えする用意をするために、その記事を持って礼拝をし、歩み出すわけです。
 そして、レントの最後の日曜日に、同じこの聖書個所が与えられているのは、クリスマスで、主イエスがお生まれになり、地上で生活なさり、みわざとお働きをなさったのちに、時が来て、十字架に向かわれる。そして、都エルサレムで受難の1週間を、ここからお始めになる。そして、捕えられ、十字架に付けられ、最後まで、父なる神のご意志に従って、苦しまれ、ついに死なれて墓に納められるが、三日後に、死人の中から、旧約聖書によって預言されていたとおりに、起き上がらされるに至るのであります。
 その主イエスの地上での歩みを、今朝の記事の中に、私どもはその全体の姿を読み取ることができるのであります。
 今日の出来事とその意味をしばらくご一緒に考えていきたいと思います。
 先ほどお読みしましたように、主イエスと大群衆は、ホサナ、ホサナと歓呼の声をあげながら、エルサレムの都へと入って行きました。
 そのとき、迎えたエルサレムの人たちはどうであったか。彼らは、この人は一体だれなのかと戸惑い、それどころは、揺り動かされたというのであります。
 これは、主イエスがベツレヘムでお生まれになったときに、東の方から博士たちがやって来て、ユダヤの王としてお生まれになった方はどこにいますかと問うたとき、ヘロデ大王と全エルサレムは、うろたえたと書いてあるのと同じ言葉が使われています。
 彼らは、地震を受けたようになったというのです。歓迎するどころか、心騒ぐばかりで、このまことの王を拒んだのであります。それに対して、ガリラヤから、過ぎ越しの祭りで一緒になってエルサレムに巡礼し、主イエスと共に都入りをする群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と賛美しながら応えている。
 主イエスがだれなのかを、巡っては、人間は中立であることはないし、そうはできないのであります。神の民であるはずの都の民、シオンの娘は、主イエス、神の子を拒み、ガリラヤからの群衆は、主イエスを喜び、歓呼の声をあげつつ入城しているのであります。
 今日のお出でになっておられるお方を、自分のまことの王として受け入れるのか、それとも、今の自分には必要ない、あるいは、無益だと拒むのかが、私ども一人一人に問われてくる出来事であります。
 その出来事を、今日のテキストのみ言葉に従って、丁寧に見ていきましょう。
主イエスは、エリコから、オリーブ山へと、ベトファゲへと、エルサレムに向かって近づかれたとき、弟子の二人を遣わして言われます。向かいの村へと行きなさい、すると、ろばがつながれているのを見出す。それをほどいて、引いてきなさい。もしだれかが何か言ったら、その主がそれを必要としているとあられます応えなさい、そうすればすぐに渡してくれる。そして、彼らは、出て行ってそのとおりにしたと記されています。
 主イエスが命じられるとおりにすることが、私ども主に従う者がなすべき生き方なのであります。そして、二人は、雌ろばとその子ろばを引いてくる。
 これによって、マタイは次の預言者の言葉が満たされることになったと言います。すなわち、エルサレムの娘よ、あなたの王があなたのところにお出でになる。彼は柔和な方で、雌ろばと荷を負う言葉に乗って。
エルサレムの娘、神の民のところに、主はお出でになる。そして、それは今では私たちのところへであります。この方は柔和な方であり、重荷を、私どものために担ってくださるお方であって、王でありながら、私どもの罪や重荷を担ってくださる。そういうふうにして、平和をもたらされる王である。
 柔和なお方、へりくだられて、十字架の死に至るまで父なる神のご意志に従われ、苦しまれる、仕えるしもべであられる王である。 力によって戦争をする王ではなく、ただ戦争がないというだけの平和をもたらされる王でもない。積極的に、仕える事を通してこそ、まことの幸いが得られるのではないでしょうか。自分の才能や力によって、人を支配する。そこからは、真の幸いも救いも、私どもは得ることはできないのであります。 そして、連れて来た雌ろばと子ろばの上に、二人は自分たちの上着を敷くと主イエスはそれにお乗りになります。そして、大群衆は、上着を主の進まれる前に広げたり、野から枝を切ってきて敷く。そして、ホサナ、ダビデの子に!主のみ名によってこられる方に祝福あれ、ホサナ、いと高きところに、と歓呼しながら都に入っていく。ホサナとは今助けて下さい、あるいは、万歳といった喜びの叫び声であります。これによって、詩編118編の、人々が無益だといって捨てた石が隅の親石になったとある預言が満たされることになったのであります。主はそのようなまことの王として、そして、十字架に付かれる王として、今日私どものところにお出でになられている。その主を仰ぎ見たいのであります。アーメン。









 

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                             

2017年4月5日水曜日

「マルタの信仰告白」(ヨハネ福音書第11章17節~53節)

ヨハネによる福音書第1117-53節、201742日(四旬節第5主日礼拝―紫―)、エゼキエル書第3310-16節、ローマの信徒への手紙第51-5節、讃美唱116(詩編第1161-19節)
 
説教「マルタの信仰告白」(ヨハネ福音書第1117節~53節)

 今、レントの時を過ごしています。今日は非常に長いヨハネによる福音書からのみ言葉を、皆さんと一緒に声を合わせて読みました。そして、今朝は、はるばるフィンランドからの思わぬお二人のお方と共に礼拝に与っています。
 この飯田教会を建てた、この教会の初代宣教師サホライネン先生のひい孫娘に当たるミーナ・サホライネンさんとそのご主人ミカ・ベンホーラさんご夫婦です。
 そして、先ほどは、いみじくも、マルタが、信仰告白をする、長いペリコペー、聖書個所を一緒に朗読したのですが、この個所が、この日に与えられたのも、不思議な神の導きのように思います。
 100年以上も前に、飯田の地に来たビートリ・サホライネン先生もまた、今の私たちがしているのと同じように、式文を用い、今日与えられているような聖書日課を用いながら、この飯田の地で、同じような礼拝を持ったことだろうと思います。
 そして、たまたま、一緒に今日お読みしたこの福音の個所は、サホライネン先生たちを思い起こさせるのにふさわしい個所であります。
 100年前に、この地に、主イエス・キリストの福音の種を蒔いたサホライネン先生も、今では遠い過去の人のようですけれども、そのなさった働きは、消えることはなく引き継がれ、ここに教会、幼稚園は存続し、そのひい孫に当たる方とそのご主人が、曽祖父の残した遺産を確かめようと訪ねて、一緒に今礼拝をしているのであります。「私を信じる者はたとえ死んでも生きる。生きていて私へと信じゆだねる者は皆、決して死ぬことはない。」これは、サホライネン宣教師にとって、当てはまるみ言葉であります。
 さて、今日の福音はこういうものでありました。
 エルサレムの近くの村、ベタニアのマルタとマリアの弟ラザロが何かの病気で危篤となります。
 その知らせを、二人から聞いた主イエスは、どういうわけか、すぐには助けに行かれなかった。そして、この病を通して、神の栄光が表されることになると、主は不思議な言葉を弟子たちにお語りになりました。
 そして、ついにラザロはなくなり、四日後、主イエスとその一行は、ベタニアの村はずれまでやって来ます。
 それを聞きつけたマルタは、主をお迎えしに、その場所までやって来ます。そして、主にお会いするなり、「主よ、あなたがいてくださったら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と悲しみを吐露します。
 そして、しかし、今でも、あなたが神にお求めになることは何でも、神はお与えになると知っておりますと言いますと、主は、あなたの兄弟は起き上がると不思議な言葉を返されます。
 マルタは、終わりの日における起き上がり、復活において彼も起き上がるであろうことは信じていますと言うと、主は「私は、起き上がり、復活であり、命である」と言われました。
 そして、私を信じる者は死んでも生きる。生きていて、私へと信じる者は皆、もう死ぬことはないと言われたのであります。
 そして、マルタに向かって、このことを、あなたは信じるかと問われる。マルタは、それに対してはっきりと答えることができました。「私は信じました、あなたこそ、メシア、神の子、そして、この世にお出でになられるお方だと。」
 この応答、信仰告白は、聖霊の不思議な促しによってなされたとしか言いようがありません。
 この後、マルタは、マリアを家に呼びに行きます。マリアは、先生があなたを呼んでおられると聞くとすぐに起き上がり、主の下に急いで行って、足もとにひれ伏し、同じように「主よ、あなたがいてくださったら、弟は死ななかったでしょうに」と言います。そのとき、エルサレムから、弔問に訪れていたユダヤ人たちも、後を追って来ていました。
 そして、この情景を見て、盲人の目を開けたこの方も、ラザロを死から救い出すことはできなかったのかと評します。

 主は、この時、ラザロのために涙を流されますが、彼らの言葉に対して、深くお感じになり、自ら動揺されたとあります。新共同訳はこれを、「憤りを、主はお覚えになった」と訳しています。何に対してお怒りになったのでしょうか。それは、彼らの不信仰に対してであります。主が命と死との主であられることを信じない私どもに対する憤りです。 そして、主は、ラザロの墓石をどかせて、天の父に向かって感謝の祈りをささげられ、この祈りは周りにいる者たちのためにする祈りだと言われ、ラザロよ、出てきなさいとお命じになる。すると、死人は包帯のような者に巻かれたまま出て来る。主は、それをほどいてやって、行かせなさいと言われました。このことによって、それを見た多くのユダヤ人たちは、主を信じたが、それを信じないで、エルサレムに引き返し、ユダヤ当局に告げ知らせる者たちもいました。そして話し合った後、ついに主は、十字架の死へと決定されるのです。しかし、主を生きていて信じる者は皆、もう死ぬことはない。このみ言葉は日々の生活の只中で真実です。アーメン。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    

「マルタの信仰告白」(ヨハネ福音書第11章17節~53節)

ヨハネによる福音書第1117-53節、201742日(四旬節第5主日礼拝―紫―)、エゼキエル書第3310-16節、ローマの信徒への手紙第51-5節、讃美唱116(詩編第1161-19節)
 
説教「マルタの信仰告白」(ヨハネ福音書第1117節~53節)

 今、レントの時を過ごしています。今日は非常に長いヨハネによる福音書からのみ言葉を、皆さんと一緒に声を合わせて読みました。そして、今朝は、はるばるフィンランドからの思わぬお二人のお方と共に礼拝に与っています。
 この飯田教会を建てた、この教会の初代宣教師サホライネン先生のひい孫娘に当たるミーナ・サホライネンさんとそのご主人ミカ・ベンホーラさんご夫婦です。
 そして、先ほどは、いみじくも、マルタが、信仰告白をする、長いペリコペー、聖書個所を一緒に朗読したのですが、この個所が、この日に与えられたのも、不思議な神の導きのように思います。
 100年以上も前に、飯田の地に来たビートリ・サホライネン先生もまた、今の私たちがしているのと同じように、式文を用い、今日与えられているような聖書日課を用いながら、この飯田の地で、同じような礼拝を持ったことだろうと思います。
 そして、たまたま、一緒に今日お読みしたこの福音の個所は、サホライネン先生たちを思い起こさせるのにふさわしい個所であります。
 100年前に、この地に、主イエス・キリストの福音の種を蒔いたサホライネン先生も、今では遠い過去の人のようですけれども、そのなさった働きは、消えることはなく引き継がれ、ここに教会、幼稚園は存続し、そのひい孫に当たる方とそのご主人が、曽祖父の残した遺産を確かめようと訪ねて、一緒に今礼拝をしているのであります。「私を信じる者はたとえ死んでも生きる。生きていて私へと信じゆだねる者は皆、決して死ぬことはない。」これは、サホライネン宣教師にとって、当てはまるみ言葉であります。
 さて、今日の福音はこういうものでありました。
 エルサレムの近くの村、ベタニアのマルタとマリアの弟ラザロが何かの病気で危篤となります。
 その知らせを、二人から聞いた主イエスは、どういうわけか、すぐには助けに行かれなかった。そして、この病を通して、神の栄光が表されることになると、主は不思議な言葉を弟子たちにお語りになりました。
 そして、ついにラザロはなくなり、四日後、主イエスとその一行は、ベタニアの村はずれまでやって来ます。
 それを聞きつけたマルタは、主をお迎えしに、その場所までやって来ます。そして、主にお会いするなり、「主よ、あなたがいてくださったら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と悲しみを吐露します。
 そして、しかし、今でも、あなたが神にお求めになることは何でも、神はお与えになると知っておりますと言いますと、主は、あなたの兄弟は起き上がると不思議な言葉を返されます。
 マルタは、終わりの日における起き上がり、復活において彼も起き上がるであろうことは信じていますと言うと、主は「私は、起き上がり、復活であり、命である」と言われました。
 そして、私を信じる者は死んでも生きる。生きていて、私へと信じる者は皆、もう死ぬことはないと言われたのであります。
 そして、マルタに向かって、このことを、あなたは信じるかと問われる。マルタは、それに対してはっきりと答えることができました。「私は信じました、あなたこそ、メシア、神の子、そして、この世にお出でになられるお方だと。」
 この応答、信仰告白は、聖霊の不思議な促しによってなされたとしか言いようがありません。
 この後、マルタは、マリアを家に呼びに行きます。マリアは、先生があなたを呼んでおられると聞くとすぐに起き上がり、主の下に急いで行って、足もとにひれ伏し、同じように「主よ、あなたがいてくださったら、弟は死ななかったでしょうに」と言います。そのとき、エルサレムから、弔問に訪れていたユダヤ人たちも、後を追って来ていました。
 そして、この情景を見て、盲人の目を開けたこの方も、ラザロを死から救い出すことはできなかったのかと評します。

 主は、この時、ラザロのために涙を流されますが、彼らの言葉に対して、深くお感じになり、自ら動揺されたとあります。新共同訳はこれを、「憤りを、主はお覚えになった」と訳しています。何に対してお怒りになったのでしょうか。それは、彼らの不信仰に対してであります。主が命と死との主であられることを信じない私どもに対する憤りです。 そして、主は、ラザロの墓石をどかせて、天の父に向かって感謝の祈りをささげられ、この祈りは周りにいる者たちのためにする祈りだと言われ、ラザロよ、出てきなさいとお命じになる。すると、死人は包帯のような者に巻かれたまま出て来る。主は、それをほどいてやって、行かせなさいと言われました。このことによって、それを見た多くのユダヤ人たちは、主を信じたが、それを信じないで、エルサレムに引き返し、ユダヤ当局に告げ知らせる者たちもいました。そして話し合った後、ついに主は、十字架の死へと決定されるのです。しかし、主を生きていて信じる者は皆、もう死ぬことはない。このみ言葉は日々の生活の只中で真実です。アーメン。