2017年1月31日火曜日

「教会を通り過ぎていく人への福音」

―最近読んだ本からー
「教会を通り過ぎていく人への福音」
―今日の教会と説教をめぐる対話―
  WH・ウィリモン、S・ハワーワス(東方敬信・平野克己訳)    
日本キリスト教団出版局2016825日初版発行2200円+税)

この本は、アメリカで現代において最も著名な説教者といわれるウィリモンの10編の説教と、それに対する同じデューク大学の神学者、ハワーワスの短い説教批評を載せたものである。1980年代頃の説教についてとのことだが、恐らく、今のアメリカの説教の一端を、この書から窺うことができるのではないか。
翻訳が、東方敬信氏と平野克己氏という第一線で活躍している神学者、牧師によって、名訳なので一気に読むことができる。
従来の私などの説教では、与えられたテキストを、まず読み、私訳し、それから、そのテキストの著名な、特に英文注解書などを熟読しつつ、黙想を深め、黙想文やそのテキストについてなされた説教などを読んで、自分の説教を造っていくのであるが、どうも、ウィリモンやハワーワスの説教論は、このようなやり方から生まれるものではなさそうである。
それは、アメリカの複雑な社会、あるいはキリスト教の位置づけが異なっていることにも影響されているように思われる。
ここに載せられているウィリモンの説教は、いずれも、デューク大学のチャペルという独特な場所でなされたものである。
そして、ウィリモンは、自分の説教を聴く多様な人々を、ストレンジャー、教会を通り過ぎていく人たちと呼ぶ。日本の教会とは、かなり、脈絡が異なるともいえようか。
しかし、考えてみると、今の日本の教会も、程度の差こそあれ、ストレンジャー、知らぬ者同士の会衆に向かって、説教は語られているとも言えるのではないか。

神の言葉、福音は、この世の物語とは異質なものである。しかし、それは、聞く会衆に分かるように説かなければならない。しかし、その時、福音の本質を見失ってしまう危険が、一方では絶えず存在する。ウィリモンの説教とそれに対する優れた、洞察力のある神学者ハワーワスの分析は、その辺の戦いであると思う。日本での私どもの説教も、アメリカでのそのような戦いの、広い意味では同じ線上にあるといえるのではないか。今まで、私が試みてきた説教作りとは違った、大きな鳥瞰図を、この書は教えてくれる。

2017年1月25日水曜日

「天国の希望と神の裁き」(マタイ25:31~46)

マタイによる福音書第2531-46節、2017122日、白井徳満先生説教梗概

説教「天国の希望と神の裁き」(マタイ253146

 世には終わりがあるというのが、聖書の、特に新約聖書の教えであります。日常的にも、世の終わりだという考え方はあります。疫病が蔓延して、大勢の人が死んでいく、あるいは、核兵器で人類が滅びる危険性の中で、世界が終わりになるのではないかというとき、世の終わりになると私どもは考えています。
 しかし、聖書が言う世の終わりとは、そういう考え方とは異なります。世の終わりのことが、今日の聖書の個所、マタイ福音書第2531節から46節には書かれています。他の個所にも、いくつも同じ世の終わりのことが同じように記されています。
 たとえば、終わりのときに、毒麦とそうでない麦とがよりわけられるという譬えがありますし、また、天国、神の国が来るときとは、海に投げ下ろされた綱が引き上げられ、良い魚とそうではない魚が分けられ、良くない魚は外に投げ捨てられるというのです。すなわち、終わりのときに、裁きがあるというのが、聖書に書かれていることなのです。単なる地球が滅びるとか、人類の最後ということではない。
 しかし、これは、何も恐ろしいことではありません。それは、信仰によって正しく生きる人にとっては、喜びの時でもあるのです。
 今日の聖書の個所にはそのことが、書かれている。終わりのときに、人の子が天使たちを従えて、やって来て、王座につく。人の子というのは、イエスのことです。イエス・キリストが、メシアとして、王として終わりのときに、私どもを裁くためにお出でになる。2000年前に、貧しいヨセフとマリアの子としてお生まれになり、3年間ほど、神の国を説いて、十字架の死を遂げたイエスが、終わりの時には、メシアとして裁くために、お出でになって栄光の座にお着きになる。
 そして、羊と山羊のように、人類をお分けになる。羊は良いものとされ、山羊は悪いものとされています。そして、右のほうの、羊のほうの人々に、メシアである王は、言います。あなた方は、私が飢えていたとき、食べさせ、裸だったときに着せてくれ、牢に入れられていたときに見舞ってくれ、よそ者だったときに、集まってくれたので、世の初めから、あなた方のために約束されている祝福の中に入りなさい。
 その時に、その者たちは、尋ねます。主よ、あなたがはだかなのを見ていつ、着せ、飢えていたのを見ていつ食べさせ、牢に入れられていたのをみていつ見舞い、よそ者だったとき、病気だったときにいつあなたのもとに集まったでしょうかと。
 その時、王はこう答えます。あなた方のうちの最も小さい兄弟のうちの一人にしたのは、よく言っておくが、私にしたのであると。
 次に、左の山羊のほうに分けられた人々に、王であるキリストは言われます。悪い、呪われたしもべたちよ、お前たちは、悪魔とその手下に用意されている火の中へと進むが良い。なぜなら、お前たちは、私が飢えていたとき、食べさせず、裸でいたとき、牢にいたとき、病気だったとき、よそ者だったときに世話してくれなかった
 その時、左の者たちも言います、あなたが、いつ、飢えていたとき、病気のとき、牢におられたとき、病気だったとき、裸だったとき、よそ者だったときにお助けしなかったでしょうか。すると、王は答えます、よく言っておくが、これらのいと小さき兄弟のうちの一人にしなかったのは、私にしてくれなかったのであると。
 ルーテルは、良い行いというのは、それだと自分で気づかずにやるおこないであると言います。
 しかし、思いますに、自分が、この羊のほうの良い行いをした側に入ると言い得る人がいるでしょうか。自分が毒麦ではなく、良い麦のほうであり、悪い魚のほうではなく、良い魚に入ると言い切れる人がいるでしょうか。私どもはみんな、自分が不完全な者であることを痛感させられております。自分が滅びのほうに分けられても、仕方がないと感じています。
 しかし、神の愛は、そのような弱い者、小さい者の滅びることを決して欲しないのです。2アサリオンで売られている雀の一羽でも、私の許しなしには、地に落ちないと、イエスの言葉が記されています。しかし、この文の正しい原文は、私の知らないところで、雀の一羽でも地に落ちることはないというのが正しいと、特に最近では研究が進んで、一致して認められています。
 どんな人が死ぬ場合でも、イエス・キリストの見ておられないところで死ぬことはないというのであります。聖書には、終わりの時の裁きの言葉が、何個所にも、旧約聖書から新約聖書まで沢山出てきますが、それは同時に、希望の言葉であります。

 主イエスは、貧しい家庭に育ち、小さい者たち、弱い者たちを助け、神の国、天国の教えを説き、最後は、最も苛酷な十字架の死を遂げて、天に帰られました。それは、どのような滅びるに価する者をも、―人間は皆、そういう者ですが、―その者を滅びに渡さず、希望と祝福のうちに生きることができるようにというのが、神のご意志であり、そのために天国の希望と神の裁きが聖書に約束されているのであります。終わりの時の裁きとは、決して、私どもにとって恐ろしいものではなく希望と喜びをもって、待ち望むべきものなのであります。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  

2017年1月15日日曜日

「正しいことを皆行うために」(マタイ3:13-17)

マタイによる福音書第313-17節、2017115日(日)、主の洗礼日礼拝、(典礼色―白―)、イザヤ書第421-7節、使徒言行録第1034-38節、讃美唱45(詩編第452-9節)

  マタイによる福音書第313節~17節 

 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。


 説教「正しいことを皆行うために」(マタイ313-17

 今日は主の洗礼日という特別の祝日です。2017年の年明けから間もないこの主の日に、主イエス御自身が自ら洗礼をお受けになったという今朝の福音、マタイ福音書第3章の13節から17節が読まれました。
 なぜ、罪なきお方としてお出でになられた、神の子にして、救い主メシアである主イエスが、洗礼者ヨハネの施していた悔い改めの洗礼に与る必要があったのでしょうか。この点について、今回は、特に、マタイ福音書の14節、15節を中心としながら、ご一緒に考えてみたいと思います。
 主イエスは、ガリラヤから、ヨルダン川の洗礼者ヨハネのもとに、到来なさいます。そして、悔い改めの洗礼の促しに従って、民衆たちにまじって、洗礼を受けようとしてお出でになられました。
 ヨハネは、私は水で、悔い改めの洗礼を授けているが、私の後に来られる方は、私よりもはるかに力ある方であって、その方は、聖霊と火とであなた方に洗礼を授けようと公言していたのです。だから、あなた方は悔い改めにふさわしい実を結べと、言われ、実を結ばないでいる木は切り倒されて、火の中に投じられると迫っていたのです。
 ところが、そのはるかに力ある方が自分のほうへお出でになられると、それを止めようとします。「私こそ、あなたから、洗礼を受ける必要がある身ですのに、あなたが、わたしのところへ来られるのですか」と。
 主は、「今はそのままにさせて欲しい、なぜなら、正しいことを皆行うことは、我々にふさわしいことだからだ」とお答えになります。
 ヨハネは正しい人で、人々に悔い改めを迫り、自らに厳格な生活をしていましたが、主のみ前にあっては、人間として決して完全無欠とはいえなかったことでしょう。それで、主が自分の授ける洗礼に服することには、耐えられない思いだったでしょう。
 しかし、主イエスは、あなたとの間でこのことが行われるのは、すべての義が満たされるためだと、ヨハネに言い聞かせるのであります。
 そして、それは、それ以上に、そばにいた民衆どものためにも相応しいことであると、主イエスは言っておられるのではないでしょうか。
 神の子としてお生まれになったイエスは、どこまでも神の義が満たされるために、この洗礼に従ったのであります。神の意志は、主イエスが、民衆と同じように、悔い改めの洗礼を受けさせることであった。
 そして、その時、見よと、記者は記します。天が開かれ、鳩のように聖霊が彼のほうへとやって来るのを主は御覧になった。鳩のように聖霊が降るというのは、ノアの箱舟の鳩が新天新地が始まったことを示したように、また、創世記の始めに、うごめく霊が水の面をうごめいていたように、それが新しく、主イエスの洗礼のときにはじまったことを示しています。
 そして、見よ、と記者は今度は、天から声が成ったと記しています。「これは、わたしの愛する子、私の心に適う者」との神の声がその場にいた人々にも分かる客観的な神の声として、聞かれたのであります。
 主イエスは、どこまでも、神の子として、愛してくださる父なる神の声に従ったのであります。
 それによって、私たちは、確かな足取りで、まことの希望を手にして、新しい一年を歩むことが許されているのであります。アーメン。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            

2017年1月11日水曜日

「主の星に導かれた学者たち」(マタイ2:1-12)

マタイによる福音書第21-12節、201718日(日)、顕現主日礼拝、(典礼色―白―)、イザヤ書第601-6節、エフェソの信徒への手紙第31-12節、讃美唱72(詩編第721-15節)

説教「主の星に導かれた学者たち」(マタイ21-12
 今日は、顕現主日と言われる特別の主の日に当たります。顕現日は16日で、1月2日から8日の間で、それに近い日曜日が、顕現主日となります。
 そして、この日には、いわゆる東方から来た3人の博士たちの出来事であるマタイ福音書第21節から12節が、古くから、この日の福音所の個所として読まれてきました。クリスマスは、1225日に祝われますが、そのクリスマスが祝われるようになるよりも何世紀も前から、特に西方教会、今のヨーロッパの教会では、顕現日が特別の祝日として、盛大に祝われ、この個所が読まれてきたのです。それは、何故なのでしょうか、それについて、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。 今日の記事は、もとの文を直訳すると、「で、そのイエスは、ヘロデ王の日々に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方から、マギたちが、到来して、こう語る」と始まっています。
 ヨセフに、夢で天使が現れて語った、「その子は、聖霊によって身ごもり、その民を罪から贖う者となる、その子をイエスと名付けなさい」とのお告げにヨセフがみ言葉通りに従って、お生まれになったお方が具体的にいつどこで生まれたのかを、ここで、マタイは記しています。
 そして、大きく、この個所を3つに分けることができますが、そのいづれにも、「星」と「ひれ伏す(拝む)」という言葉が出てきます。それらが、今日の記事の鍵の言葉になっていることが分かります。マギたち、マゴスという言葉は、博士たちとか、占星術の学者たちとか、あるいは、マジシャンのもとになっている言葉だとして、魔術師、魔法使い、星占い、あるいは、山師・詐欺師といった悪い意味で使われる場合もあります。しかし、いずれにしろ、「ユダヤ人たちの王」としてお生まれになった方を拝みに来たというのですから、ユダヤ人たちが、アッシリア帝国やバビロン帝国によって占領され、連れて行かれた地で、ユダヤ人たちとの接触があった国の人たちだと考えられます。
 彼らがエルサレムに到来して、ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますかと突如人々に聞くのです。すると、ユダヤ人の王であるヘロデ王はうろたえたとあります。しかも、全エルサレムまでもそうであったと言います。なぜでしょうか。 ヘロデ大王は、南の隣国のイドマヤの出身で、エルサレム神殿を再建したり、ローマ帝国に取り入って権力を増大したりする、政治家としての手腕には長けていましたが、自分の地位がいつ脅かされないかと特に晩年は危惧しており、王がうろたえたことは、理解できます。しかし、全エルサレムまでも同様だったのは何故でしょうか。彼らも、やがては、主イエスを迫害し、十字架にかける民となるからでしょうか。
 次に、ヘロデは、祭司長たちや民の律法学者たちを呼び寄せ、メシアは、どこで生まれているのかを知ろうとしていました。 彼らは、答えます。すなわち、「ユダヤのベツレヘムです。なぜなら、ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの領主たちの中で、一番小さな者ではない、なぜなら、お前の中から、指導者が現れ、私の民イスラエルを牧するであろう」と書かれていますと。しかし、ユダヤ人たちは、教えるだけで、自らが行こうとはしません。 この預言は、ミカ書第5章の1節とサムエル書下第52節に書かれています。すなわち、ダビデの生まれた村、ベツレヘムからメシアは生まれるはずなのです。さらに、ヘロデは、密かに、マギたちを呼び出して、その星の輝きの時を詳しく確かめます。そして、「あなた方は出て行って、正確に調べ、見い出し次第、私に知らせてくれ、私も、その子を拝みに行きたいから」と言って、送り出すのです。 すると、見よ、その昇るのを彼らが見たあの星、彼らの先を行き、その子のいる場所の真上にまで導いて、とまったと記されています。そのとき、それを見て、「彼らはすこぶる大きな喜びを喜んだ」とまでもとの文では訳せる言葉が続きます。 マギたちは、まずは異邦人であったに違いなく、ユダヤ人たちの王が生まれたとの主の星に導かれて、ついにここまで辿り着くことができた、その神の救いの導きを喜んだのです。そして、その家に入ると、その子とその母マリアを見出し、跪いて拝むのです。そして、彼らの宝箱を開けて、黄金、乳香、没薬をささげます。いずれもアラビアや中東の異邦の国の産で、高価な贈り物でありました。しかし、3つであることから、やがて3人のマギたちであったと考えられたり、あるいは、そのマギたちは、王であったと信じられたり、メルキオールなどと名前まで付けられるようになります。 そして、中世の頃には、ルターも、金とは、主イエスが王であること、乳香は、神であることを、また、没薬は、主の受難と死を表しているなどと、象徴的に考えられるようにもなりました。 しかし、最近でも、実はこのマギたちとは、魔術師、あるいは当時流行っていた星占いのような者たちであった者らが、主の星に導かれて、み子のもとにいたり、リュックサックの中に入れて、いわば商売道具に携えていたものを、すべてみ子に、あるいは聖家族に、贈り物としてささげ、全く新しい生き方に変えられたのだとする説もあります。

いずれにしても、私たちもまた、このマギたちと同様に、奇しくも主の星に導かれて、主イエスにまみえることのできた、もともとは、異邦の民であります。み子に邂逅した喜びを知っている者として、2017年の歩みが、お一人お一人、祝福されたものとなりますように。アーメン。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    

2017年1月1日日曜日

説教「犠牲をも担われる神さま」(マタイ2:13-23)

マタイによる福音書第213-23節、201711日(日)、降誕後主日礼拝、(典礼色―白―)、イザヤ書第637-9節、ガラテヤの信徒への手紙第44-7節、讃美唱34/1(詩編第342-9節)

  マタイによる福音書第213節~23節 

 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。
 「ラマで声が聞こえた。
 激しく嘆き悲しむ声だ。
 ラケルは子供たちのことで泣き、
 慰めてもらおうともしない、
 子供たちがもういないから。」

 ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。。」そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。


説教「犠牲をも担われる神さま」(マタイ213-23

 3人の博士たちのみ子訪問の出来事が、来週読まれますが、今日はその後の出来事です。博士たち、マギたちは、ヘロデ大王の下に報告に戻るように命じられていたのですが、夢で主のお告げがあって、別の道を通って、自分たちの国へと帰っていきます。
 それによって、み子は逃れる時間ができたとも言えます。父ヨセフは、博士たちが、立ち去って行ったとき、夢で天使が現れ、その命ずるままに、夜に起き上がり、その子と母を連れて、エジプトへと、難を逃れるのであります。
 そして、ヘロデは、博士たちに馬鹿にされたことを知ると激怒して、ベツレヘムとその近隣へと人をやって、2歳以下の男の子を、虐殺したのです。
 これによって、預言者エレミヤが言っていた言葉が満たされたと言います。このような記録は、他の証拠によっては証明できないそうです。
 しかし、ヘロデは稀に見る残酷な王でありました。自分の最愛の妻マリアンネをも疑って殺し、最後は、自分の息子たちや叔父まで謀反の疑いで殺していったと言います。
 一方で、ヘロデは、エルサレム神殿を回復し、人々が礼拝できる場を取り戻し、優れた政治的手腕を発揮しましたが、他方では、考えられないような、疑心暗鬼の中での蛮行にも及んでいるのです。
 しかし、ヘロデ大王の姿は、私たちとは無縁のものでしょうか。私どももまた、自分本位となって、他人を犠牲にして顧みない残酷さや罪の姿を露出しているのが、偽らざる実情ではないでしょうか。
 こうして、この時の残酷な虐殺が行われ、無辜の幼子たちの命が奪われていったのであります。そういう現実はどのように考えればいいのでしょうか。
 マタイは、この出来事は、「ラマにおいて、声が聞かれた、泣き悲しむ声、大いなる嘆きの声だ。ラケルは、自分の子たちがもういないので、慰めてもらおうともしないでいた」というエレミヤの言葉が満たされるためであったと言います。
 ラケルは、自分の産んだ子ヨセフがエジプトに売り飛ばされたとき、夫のヤコブ、イスラエルと共に嘆き悲しみました。そして、エフラタの辺り、ベツレヘムの近くで、もう一人の子ベニヤミンを産んだとき、亡くなり、その傍の墓地に葬られました。
 エレミヤ書の預言の言葉は、アッシリアへと、ラマから捕虜として連れて行かれるときの、彼らの先祖、ラケルが連れて行かれる特に男の壮年や子たちを思って嘆くというものであります。
 その預言の言葉が、マタイは、このときのヘロデの嬰児虐殺を通して実現されたというのであります。
 この出来事に対して、ボンヘッファーという牧師にして神学者は、この子供たちは祝福されていると言っているとのことです。なぜなら、この子たちと共に、主イエスがおられるからだと。そして、ナチに抵抗し、ヒトラーを暗殺しようとして、失敗して捕まったボンヘッファーも、銃殺刑によって命を落とすことになります。
 クリスマスの出来事とは、このような大きな犠牲をも、神が自分の身をかがめて担ってくださる出来事であります。ヘロデが自分の権力保持のためにしでかす罪は、単なる他人事ではなく、私どもの生活の中にも露になってくる罪の姿をも表しています。それを取り除いてくださるために、み子がお生まれになったとも言えるのであります。
 夢の中で天使のみ告げを知らされたヨセフは、従順に神の導きに従い、エジプトにくだり、また、イスラエルの地に戻り、入って来ます。モーセがそうしたように、イスラエルの民の率いて救いを成し遂げたように、第二のモーセとして、また、新しいイスラエルとしてみ子イエスは、エジプトから戻ってきます。
 そして、神の導きのままに、ヨセフとその一家は、ベツレヘムへではなく、ガリラヤのナザレへと落ち着くことになるのです。それは、彼は、ナザレの人と呼ばれようとの預言者たちの言葉が実現するためであったと言います。旧約聖書にも出てこない小さな村ナザレの人イエスと呼ばれる。そこにまで身を低くして、私たち罪人のために降りて来てくださるというのが、クリスマスのメッセージであり、私どもの何ものにも勝る慰めなのです。
 あの母親、ラケルの墓で嘆き悲しむ声は、神にまで届き、その悲しみは癒され、希望が回復されるものだというのです。私たちが、罪から回復されて、新しい人となって生きてゆけるとの知らせ、それがクリスマスの訪れであり、喜び祝う意味なのです。そのような新しい生き方を、この一年の初めの日から求めていきましょう。アーメン。

 

説教「犠牲をも担われる神さま」(マタイ2:13-23)

マタイによる福音書第213-23節、201711日(日)、降誕後主日礼拝、(典礼色―白―)、イザヤ書第637-9節、ガラテヤの信徒への手紙第44-7節、讃美唱34/1(詩編第342-9節)

  マタイによる福音書第213節~23節 

 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。
 「ラマで声が聞こえた。
 激しく嘆き悲しむ声だ。
 ラケルは子供たちのことで泣き、
 慰めてもらおうともしない、
 子供たちがもういないから。」

 ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。。」そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。


説教「犠牲をも担われる神さま」(マタイ213-23

 3人の博士たちのみ子訪問の出来事が、来週読まれますが、今日はその後の出来事です。博士たち、マギたちは、ヘロデ大王の下に報告に戻るように命じられていたのですが、夢で主のお告げがあって、別の道を通って、自分たちの国へと帰っていきます。
 それによって、み子は逃れる時間ができたとも言えます。父ヨセフは、博士たちが、立ち去って行ったとき、夢で天使が現れ、その命ずるままに、夜に起き上がり、その子と母を連れて、エジプトへと、難を逃れるのであります。
 そして、ヘロデは、博士たちに馬鹿にされたことを知ると激怒して、ベツレヘムとその近隣へと人をやって、2歳以下の男の子を、虐殺したのです。
 これによって、預言者エレミヤが言っていた言葉が満たされたと言います。このような記録は、他の証拠によっては証明できないそうです。
 しかし、ヘロデは稀に見る残酷な王でありました。自分の最愛の妻マリアンネをも疑って殺し、最後は、自分の息子たちや叔父まで謀反の疑いで殺していったと言います。
 一方で、ヘロデは、エルサレム神殿を回復し、人々が礼拝できる場を取り戻し、優れた政治的手腕を発揮しましたが、他方では、考えられないような、疑心暗鬼の中での蛮行にも及んでいるのです。
 しかし、ヘロデ大王の姿は、私たちとは無縁のものでしょうか。私どももまた、自分本位となって、他人を犠牲にして顧みない残酷さや罪の姿を露出しているのが、偽らざる実情ではないでしょうか。
 こうして、この時の残酷な虐殺が行われ、無辜の幼子たちの命が奪われていったのであります。そういう現実はどのように考えればいいのでしょうか。
 マタイは、この出来事は、「ラマにおいて、声が聞かれた、泣き悲しむ声、大いなる嘆きの声だ。ラケルは、自分の子たちがもういないので、慰めてもらおうともしないでいた」というエレミヤの言葉が満たされるためであったと言います。
 ラケルは、自分の産んだ子ヨセフがエジプトに売り飛ばされたとき、夫のヤコブ、イスラエルと共に嘆き悲しみました。そして、エフラタの辺り、ベツレヘムの近くで、もう一人の子ベニヤミンを産んだとき、亡くなり、その傍の墓地に葬られました。
 エレミヤ書の預言の言葉は、アッシリアへと、ラマから捕虜として連れて行かれるときの、彼らの先祖、ラケルが連れて行かれる特に男の壮年や子たちを思って嘆くというものであります。
 その預言の言葉が、マタイは、このときのヘロデの嬰児虐殺を通して実現されたというのであります。
 この出来事に対して、ボンヘッファーという牧師にして神学者は、この子供たちは祝福されていると言っているとのことです。なぜなら、この子たちと共に、主イエスがおられるからだと。そして、ナチに抵抗し、ヒトラーを暗殺しようとして、失敗して捕まったボンヘッファーも、銃殺刑によって命を落とすことになります。
 クリスマスの出来事とは、このような大きな犠牲をも、神が自分の身をかがめて担ってくださる出来事であります。ヘロデが自分の権力保持のためにしでかす罪は、単なる他人事ではなく、私どもの生活の中にも露になってくる罪の姿をも表しています。それを取り除いてくださるために、み子がお生まれになったとも言えるのであります。
 夢の中で天使のみ告げを知らされたヨセフは、従順に神の導きに従い、エジプトにくだり、また、イスラエルの地に戻り、入って来ます。モーセがそうしたように、イスラエルの民の率いて救いを成し遂げたように、第二のモーセとして、また、新しいイスラエルとしてみ子イエスは、エジプトから戻ってきます。
 そして、神の導きのままに、ヨセフとその一家は、ベツレヘムへではなく、ガリラヤのナザレへと落ち着くことになるのです。それは、彼は、ナザレの人と呼ばれようとの預言者たちの言葉が実現するためであったと言います。旧約聖書にも出てこない小さな村ナザレの人イエスと呼ばれる。そこにまで身を低くして、私たち罪人のために降りて来てくださるというのが、クリスマスのメッセージであり、私どもの何ものにも勝る慰めなのです。
 あの母親、ラケルの墓で嘆き悲しむ声は、神にまで届き、その悲しみは癒され、希望が回復されるものだというのです。私たちが、罪から回復されて、新しい人となって生きてゆけるとの知らせ、それがクリスマスの訪れであり、喜び祝う意味なのです。そのような新しい生き方を、この一年の初めの日から求めていきましょう。アーメン。