2016年12月28日水曜日

「世の光キリストを迎えよう」(ヨハネ1:1-14)

ヨハネによる福音書第11-14節、20161225日(日)、降誕祭礼拝、(典礼色―白―)、イザヤ書第527-10節、ヘブライ人への手紙第11-9節、讃美唱98(詩編第981-9節)

  ヨハネによる福音書第11節~14節 

 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
  
ヨハネによる福音書第11-14節、20161225日(日)、降誕祭礼拝、(典礼色―白―)、イザヤ書第527-10節、ヘブライ人への手紙第11-9節、讃美唱98(詩編第981-9節)

  ヨハネによる福音書第11節~14節 

 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
  
「世の光キリストを迎えよう」(ヨハネ11-14

 クリスマス、おめでとうございます。今年は、祝福されて、今日が1225日であり、日曜日と重なり、降誕祭の礼拝の日課そのものに従って、この日の礼拝を祝うことができているのであります。
 その各聖書個所、ペリコペーも、ふさわしいものが読まれました。イザヤ書の言葉は、よき知らせを知らせる者の足は何と麗しいものかと、シオンへの救いの知らせを預言しています。
  第2朗読のヘブライ書も、昔は神のみ旨は、預言者や黙示などを通して、部分的に示されていたが、世の終わりのときとなって、キリストを通して明らかに示されたと証言しています。
 讃美唱の詩編第98編も、すべてのものをもって、主を讃美せよと、詩人は歌い、主は来られると、救いの到来を預言しています。
 さて、クリスマスの日課として、ヨハネ福音書第11節から14節が与えられています。1節から18節までが読まれることもあります。ここがなぜ、クリスマスに読まれるのでしょうか。
 ここには、飼い葉桶も、嬰児主イエスに巻かれた布切れも記されず、東方のマギたちも登場しません。しかし、ここには、神の独り子が、私たちと同じ、弱く罪に満ちた人間となって、この世界にお出でくださったこと、そして、そのなさったみ業が記されているのです。
 日本のプロテスタントによる初めてのヨハネ福音書の和訳を試みたギュツラフは、「始まりに賢い者ござる」と、この福音書の書き出しを訳しています。私たちの新共同訳聖書は、「初めに、言があった」となっています。言とは、言葉に意味もあり、ギリシャ語ではロゴスという言葉です。
 初めに「み言葉」があったと訳してもいいでしょう。すなわち、天地創造の初めにおいて、既に、主イエスが、父なる神と共におられたということであります。「賢き者」という人格的なお方が、私どもの存在の初めからおられ、かかわっておられるとヨハネ福音書記者は言いたいのであります。
 そして、そのお方は、この世界へと肉となられた。そして、私たちの住む世界、現実のなかに天幕を張って住んでくださったというのであります。
 ところが、自分の民のところに、このお方、み言葉なる主イエスはお出でになられたのに、民は受け入れず、認めなかったのであります。このお方によらずに成ったものは何一つなく、成ったものはこのお方における命において生かされ、このお方こそ、人間どもの光であったのに、この世界を覆っていた闇はその光を理解しなかったというのであります。
 あるいは、しかし、闇は、光に勝つことはできなかったとも訳されます。当時のヨハネ記者の教会は、迫害の中にあり、ユダヤ教からは会堂追放のおそれの中で、キリスト教信仰の棄教の危険にさらされている中で、この福音書が、信者たちに信仰を捨てないようにと、書かれたことを、私どもは思い起こさねばなりません。
 しかし、そのような闇と拒絶が深まる中にあっても、光であり、命であるこのお方にとどまり、信じゆだねる者たちには、神の子となる資格、力、権威が与えられると、ヨハネ記者は、この言であり、「賢い者」から離れない者たちを励まし、勇気づけ、また、彼らと一緒になって、み子を讃美しているのであります。
 そして、私たちは、このお方の、神の独り子としての栄光を、はっきりと見たと証しし、それは恵みと真理とに満ちていたと、このヨハネの教会、共同体の人々は高らかに信仰を宣言しているのであります。
 そして、それは、今なお、信じている私どもの告白でもあります。この、私どもの生活、苦しみ、悩みの中に、その只中に住んでくださった、そして、十字架の死によって、私どもの罪を贖ってくださった「賢いお方」「み言葉」なる主イエスのご降誕を、今日のこの福音書に記されている一連の讃美の告白と共に、私どもも、声を合わせて、迎え祝いたいものであります。アーメン。




 クリスマス、おめでとうございます。今年は、祝福されて、今日が1225日であり、日曜日と重なり、降誕祭の礼拝の日課そのものに従って、この日の礼拝を祝うことができているのであります。
 その各聖書個所、ペリコペーも、ふさわしいものが読まれました。イザヤ書の言葉は、よき知らせを知らせる者の足は何と麗しいものかと、シオンへの救いの知らせを預言しています。
  第2朗読のヘブライ書も、昔は神のみ旨は、預言者や黙示などを通して、部分的に示されていたが、世の終わりのときとなって、キリストを通して明らかに示されたと証言しています。
 讃美唱の詩編第98編も、すべてのものをもって、主を讃美せよと、詩人は歌い、主は来られると、救いの到来を預言しています。
 さて、クリスマスの日課として、ヨハネ福音書第11節から14節が与えられています。1節から18節までが読まれることもあります。ここがなぜ、クリスマスに読まれるのでしょうか。
 ここには、飼い葉桶も、嬰児主イエスに巻かれた布切れも記されず、東方のマギたちも登場しません。しかし、ここには、神の独り子が、私たちと同じ、弱く罪に満ちた人間となって、この世界にお出でくださったこと、そして、そのなさったみ業が記されているのです。
 日本のプロテスタントによる初めてのヨハネ福音書の和訳を試みたギュツラフは、「始まりに賢い者ござる」と、この福音書の書き出しを訳しています。私たちの新共同訳聖書は、「初めに、言があった」となっています。言とは、言葉に意味もあり、ギリシャ語ではロゴスという言葉です。
 初めに「み言葉」があったと訳してもいいでしょう。すなわち、天地創造の初めにおいて、既に、主イエスが、父なる神と共におられたということであります。「賢き者」という人格的なお方が、私どもの存在の初めからおられ、かかわっておられるとヨハネ福音書記者は言いたいのであります。
 そして、そのお方は、この世界へと肉となられた。そして、私たちの住む世界、現実のなかに天幕を張って住んでくださったというのであります。
 ところが、自分の民のところに、このお方、み言葉なる主イエスはお出でになられたのに、民は受け入れず、認めなかったのであります。このお方によらずに成ったものは何一つなく、成ったものはこのお方における命において生かされ、このお方こそ、人間どもの光であったのに、この世界を覆っていた闇はその光を理解しなかったというのであります。
 あるいは、しかし、闇は、光に勝つことはできなかったとも訳されます。当時のヨハネ記者の教会は、迫害の中にあり、ユダヤ教からは会堂追放のおそれの中で、キリスト教信仰の棄教の危険にさらされている中で、この福音書が、信者たちに信仰を捨てないようにと、書かれたことを、私どもは思い起こさねばなりません。
 しかし、そのような闇と拒絶が深まる中にあっても、光であり、命であるこのお方にとどまり、信じゆだねる者たちには、神の子となる資格、力、権威が与えられると、ヨハネ記者は、この言であり、「賢い者」から離れない者たちを励まし、勇気づけ、また、彼らと一緒になって、み子を讃美しているのであります。
 そして、私たちは、このお方の、神の独り子としての栄光を、はっきりと見たと証しし、それは恵みと真理とに満ちていたと、このヨハネの教会、共同体の人々は高らかに信仰を宣言しているのであります。
 そして、それは、今なお、信じている私どもの告白でもあります。この、私どもの生活、苦しみ、悩みの中に、その只中に住んでくださった、そして、十字架の死によって、私どもの罪を贖ってくださった「賢いお方」「み言葉」なる主イエスのご降誕を、今日のこの福音書に記されている一連の讃美の告白と共に、私どもも、声を合わせて、迎え祝いたいものであります。アーメン。




2016年12月7日水曜日

「道備えをする洗礼者ヨハネ」(マタイによる福音書第3章1節~12節)

マタイによる福音書第31-12節、2016124日(日)、待降節第2主日礼拝、(典礼色―紫―)、イザヤ書第111-10節、ローマの信徒への手紙第154-13節、讃美唱72(詩編第721-15節)

 説教「道備えをする洗礼者ヨハネ」(マタイによる福音書第31節~12節)
 
  先週から、アドベントに入り、今年は、3年サイクルのペリコペ、聖書日課のA年に戻り、マタイ福音書が主たる福音として与えられており、今日の福音は、マタイ福音書第31節から、12節までであります。
週報にも、予告の欄に、次の主の日の、各聖書個所を前もって、お読みくださり、十分に黙想した上で、礼拝にお臨みくださいと記していますが、今朝は、主たる福音のマタイ福音書の記事から、この教会歴の新年に当たるアドベントの時期をどのように過ごすべきなのかを、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 それにしましても、今は、クリスマスを前にして、町の中の商店などでは、クリスマスソングが繰り返し流されて、主イエスのご降誕を前に、にぎやかで、それを待つ喜びで一色になっているようでもあります。
 しかし、み子のご降誕の意味を考えるということは、必ずしも、2000年前のその出来事を喜び、それを心待ちにするということだけではないのであります。
すなわち、アドベントというのは、到来、あるいはそれを待ち望むという意味でありますが、2000年前のあの馬舟の中でのみ子の到来という意味のみならず、その主イエスの終わりの日の到来をも待ち望む。それが、アドベント、待望節、この教会の新しい年の始めに、私どもが心すべきことなのであります。  
そのようなことも、思い起こしつつ、伝統的な教会で、アドベントの第2主日に必ず読まれてきたと言います洗礼者ヨハネの主イエスの道備えの記事をマタイ福音書に従って、聞いていきましょう。
 今日の記事は、「そのころ」と始まっていますが、これは、「その日々に」と元の文にはあり、大事な出来事が起こるときに使われる聖書の言い方であります。救いの時が到来したのです。
マタイ福音書では、この第3章から、洗礼者ヨハネの宣教と、主イエスの宣教へと大きく、幕が変わっていきます。2章までのみ子の誕生の時代から、一気に一世代の間隔があき、この世界での主イエスの宣教のときがいよいよ近づいたのであります。
そして、それに先駆けて、洗礼者ヨハネが、現われ、主イエスの道備えをするために、悔い改めの洗礼を授けたことが、4つの福音書いづれにも記されているのであります。
 そして、それは、旧約聖書にも預言されていたことだと福音書記者たちは語っています。そして、不思議なことに、神はご自身で人間、ことにその民を、救われるのではなく、人間でもあるメシアを通して、救われるのであります。そして、その前にその道備えをする使者をお立てになる、それが再来のエリヤであり、今日登場する洗礼者ヨハネであるというのです。
 このヨハネは、荒れ野において、到来します。それは、預言者イザヤによって、言われていた者であり、主の道を、あなた方は備えよ、その小路を真っ直ぐにせよと呼ばわる声であると紹介されています。
その出で立ちは、預言者エリヤと同じであり、彼は、いなごと野蜜を食し、らくだの毛衣と、腰に革の帯をしていました。そして、悔い改めへの洗礼を施し、エルサレムと全ユダヤ、全ヨルダン近域は、彼に向かってやって来つつあったと言い、彼らはヨルダン川で彼によって、罪を告白しながら、洗礼を受けつつあったと記されています。
 その当時でも、クムラン教団やエッセネ派の共同体では、入会式のためや清めのための水浴、洗礼があり、ユダヤ教への改宗のための洗礼はあったといい、ヨハネの洗礼との関係が論じられていますが、ヨハネの悔い改めの洗礼は、そのいずれにもまさって、全ユダヤに大きな反響を引き起こすものでありました。
 ところが、その中には、ファリサイ派やサドカイ派の大勢もいるのを見たヨハネは、「蝮の子らよ、迫っている神の怒りから逃れられるとだれが教えたのか。自分たちはアブラハムの子らであると言おうと考えたりするな。神は、これらの石からでもアブラハムの子らをもうけることがおできになる」と激しく非難するのであります。
自分たちは律法を守り、悔い改めていると自負していた者たちが、ヨハネの洗礼に与ろうとするのに対して断固として異議を申し立てます。そして、悔い改めにふさわしい実を結べと警告しています。
 そして、自分より後に来られる方は、自分より強い方で、私はそのお方の靴を脱がせるにも価しないというのです。
そして、私は水で洗礼を授けているが、その方は聖霊と火において、あなた方に洗礼を授けようと告知しています。聖霊と火において洗礼を授けるとは、どういう意味でしょうか。聖霊という火で終わりの日に私たちを厳しく裁くということでしょうか。
ヨハネは、今は、天の国、主の主権の到来に備えて、神に全存在を持って立ち帰るようにと、水での、メシア到来に備えての洗礼を授けました。
 しかし、その方が来るときには、結ばない木は皆、切り倒され、火の中へと投げ込まれるとも言いました。そして、重ねるように、その方は、聖霊と火で洗礼を授け、農夫が箕を手に持って、麦と殻を吹き分けるようにして、麦を御自分の倉におさめ、殻は、おさまることのない火で焼き払われると、ここで宣言しているのです。
 洗礼者ヨハネは、主イエスが再び来られる時、そのような厳しい裁きをなさり、全存在をもって、神へと立ち返った者は、火で純化された者としてお救いになり、そうでない実を結ばない者は、焼き滅ぼされると、私どもに強い警告を発しているのであります。
 しかし、その後、お出でになられた主イエスは、そのような厳しい裁き手としてお出でになられたのではありませんでした。そのようなお厳しい神の裁きを、御自分が十字架におかかりになることによって、引き受けられたのであります。
 私どもは、このようにして、神の恵みを受けて、悔い改め、全存在が神に立ち帰る生き方へと招かれているのであります。クリスマスの祝いを前にしながらも、私どもは、このような主イエスが再び終わりの日にお出でになられることを待ち望みつつ、日々悔い改めながら、選ばれた者として、終わりの日に備えてつつ歩んでいきたいものです。

アーメン。

2016年12月1日木曜日

「聖書と終末論」[作家の方法](小川国夫著)

―最近読んだ本からー
「聖書と終末論」[作家の方法](小川国夫著)
    岩波書店1987730日 第1刷発行1100円)
 一人の文学者が聖書を自分の眼で読み、説き明かししている。私は、牧師として、どうしても注解書に頼りながら、聖書を、特に新約聖書は原文に立ち返りながら読むことで、木を見て森を見ずになりがちである。しかし、小川国夫は聖書の生き方、終末論という大きな羅針盤をもとに、聖書の深いところに洞察を深めていく。この世界の終わりに、神が裁判をしてくださり、すべてが明らかにされる。たとえば、あのゴッホの絵を見て、そこに聖書の終末観が明らかに見て取れるという。あるいは、同じ文学者の中、たとえば、ドストエフスキーの作品に聖書の終末論が貫かれていると見ている。終末というテーマが、旧約聖書、そして、新約聖書を読む鍵であると洞察している。そして、たとえば、預言者エレミヤの中に、そして、イエス・キリストの中に、また、使徒パウロの信仰の大逆転を経ての宣教の中に、あるいは、ヨハネの黙示録において、終末、神が終わりのときに裁判をして、この世界の白黒をつけてくれるとの堅い約束・預言への信頼を見て取っている。小川国夫のような聖書の骨髄を見抜く眼を養いたいものである。

「風浪・蛙昇天」(木下順二戯曲選Ⅰ 木下順二作)
        (岩波文庫200575日第4刷発行)
「風浪」 木下順二といえば、高校2年のとき、現代国語で習った「夕鶴」を思い出す。「風浪」は、木下順二の処女作といってよい。故郷熊本弁でこの戯曲は描かれている。私も、熊本市に1年住み、水俣市に4年住んだので、明治初年のころの題材になっているとはいうものの、懐かしく、一気に読ませられた。木下順二については、よく知らないが、熊本バンドを背景にした時代物である。キリスト教に対しては、晩年であろうか、ある距離を置いていたとも聞いているが、明治の時代にあって、青年たちが日本の国を新たに背負って立とうとするなかでの苦悶が記されている。現代の若者たちは、この戯曲をどのような思いで読むことだろうか。それにしても、良く熊本弁が息遣いまでぴったりと表現されている。言葉を紡ぎ出すとよく言われるが、この作品のようなものを、指して言うのだろう。

「蛙昇天」蛙たちを、主人公にして、1950年代頃の冷戦体制を背景として、ユーモラスに描かれた、今度は、現代の歯切れにいい東京弁で描かれた痛烈な、時代批評というべき戯曲である。こんなに戯曲が読みやすく、面白いものだとは知らなかった。木下順二は、今、2016年の日本に対してなら、どのような戯曲を書くことだろうか。一回の牧師にとっても、考えさせられる作家である。今の時代に何をこの作品は訴えかけているのだろう。