2016年11月20日日曜日

「子供たちを祝福なさる主イエス」(ルカ18:15~17)

ルカによる福音書第1815-17節、20161120日(日)、幼児・児童祝福式礼拝(典礼色―緑―)

 ルカによる福音書第1815節~17
 
 イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」



  説教「子供たちを祝福なさる主イエス」(ルカ181517

 今日は、幼稚園の園児や、卒園生、教会学校のお友達等をお招きし、また、その保護者の皆さまにも、少なからず来ていただいて、幼児・児童の祝福式の礼拝を持っております。
 先ほど、ご一緒に朗読したルカ福音書の記事には、人々が、主イエスに、その乳飲み子たちにも、触れていただこうとしてやって来ていたとありました。おそらくお母さんたちが連れて来ていたのでありましょう。
 今朝のこの礼拝にも赤ちゃんが何人か連れられてきています。1歳にもなりますと、はいはいから初めて歩き始めます。それは、世界が変わるような出来事だと言います。途中で、こけたりして失敗しますと、もうそうなるまいと伝え歩きをして、幼稚園の玄関を、後ろ足から降りていく。そんなけなげな赤ちゃんの姿も見られました。
 ところが、今日のエピソードでは、これを見た弟子たちは、叱り始めたとあるのです。
 エルサレムへの旅の途中です。俄かに弟子たちもムードが違ってきていることを、察知していたころであります。乳飲み子に祝福を祈ってほしいと言っている場合ではないと思ったのでしょう。
 しかし、主は乳飲み子たちを呼び寄せて、言われたのです。私の所に来ることをそのままにしておきなさい。彼らを妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものだからだと。
 神の国とは、難しく思われることでしょう。それは、神が臨在しているところ、あるいは、神がすべてを統治なさっている、神の御心にかなっているということであります。主が来られて、福音が訪れ、恵みの救いが成就しているところであります。
 乳飲み子を始め、子供は、偏見がなく、自分が無力であることを知っています。そして、母親に、あるいは父親に、そして、神に対して、寄りかかって生きるしかありません。助けられなければ、生きていけないことを、幼子たちは示しています。
 その幼子たちを、主イエスのもとへと、触れていただき、祝福を祈って欲しいと母親たちが考えたのも、無理のないことであります。今日では、乳飲み子や、1、2歳の赤ちゃんは、しっかりと母親が触れることが大事だと言われています。3歳から上になると、言葉が良く分かってきますから、その子のいうことに耳を傾け、親や大人たちからも、十分な言葉かけが必要だと言います。
 そのようにして、幼少期を愛情をいっぱい受けて育った子供は、大人になったら、その愛情を、周りの人たちに返すようになると言います。どんないつらいことがあっても、失敗するようなことがあっても、幼時のときに基本的信頼を培われていた子供は、試練を乗り越えていくと、考えられるのです。
 主は、今日の出来事の最後に、よく、あなた方に言っておくが、子供のように神の国を受け入れるものでなければ、決して、だれも、神の国に入ることはできないと言われるのです。今日のルカの聖書個所のすぐ前には、神殿から返って行った徴税人と、誇らしげに祈ったファリサイ派の人の祈りが出ています。
 主はその譬えの結論として、言っておくが、義とされて帰って言ったのは、実に徴税人のほうであったと教えられ、だれでも自らを高くする者は、低くされ、自らを低くする者は、神によって高くあげられると宣言されているのです。
 自分を低くする子供のように、私たちも、あるべき姿に立ち帰って、新しい生き方を、今日のこの子どもたちの祝福式の礼拝から、改めて始めたいものであります。
                      アーメン。


2016年11月10日木曜日

「み言葉を行う人になりなさい」(ヤコブ1:19-27)

ヤコブ12220161107、園合同礼拝

ヤコブの手紙第119-27

 わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。
 御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。しあkし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。
 自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。


説教「み言葉を行う人になりなさい」(ヤコブ119-27

 ヤコブの手紙という聖書には、「み言葉を行う人になりなさい」と書かれています。み言葉は、人を真実に生まれ変えさせる力がありますが、それを聞くだけで、行わない人もいます。
 しかし、今日のみ言葉を書いたヤコブという人は、み言葉を聞くだけの人に終わらず、それを行う人になりなさいというのです。そして、み言葉を行うとは、聞くのに速く、話すのに遅く、怒るのに遅いことであるというのです。
 私どもはしばしば、その逆になりがちであります。しかし、それでは、神の義は進まないと、ヤコブは言います。
 そして、み言葉を聞くだけで、行いにまで行かない人は、自分の顔を、鏡の中におぼろに眺めて、そこから出て行くとすぐに、自分の顔がどうであったのかを、忘れてしまう人のようだと言います。言わば、み言葉は、練習をして、それを覚えるよう実行していくことが、不可欠であると、ヤコブは言っているようです。
 そして、完全な、自由を与える律法を、見つめて、それにとどまる人は、ただ聞いて、すぐに忘れてしまう人ではなくて、ふるまいにおいて行う人であり、その人は、その行いにおいて、祝福されるであろうと、言っています。キリストの教えという、まことの律法にとどまる人、そして、聞いてすぐ忘れる人にならないで、その教えを行う人はだれでも、どのような人でも、必ず幸せになれると、この手紙の著者、ヤコブは、私ども一人一人を残らず、絶望することもないように、励まし招いているのであります。
 確かに信仰は、私どもが耳にたこができるほど、聞かされているように、み言葉を、聞き、信じゆだねることがなければなりません。しかし、み言葉は、それを行うことをも生み出す力があるものであります。み言葉を聞いて、それを行わないということは、鏡で自分の顔を見て、そのあとすぐ、それを忘れてしまう人のように、自分を欺いているのだと、ヤコブは言うのです。
 そして、最後に、礼拝とは、自分の口にくつわをかけることができ、そして、自分の心をそのおもむくままにはさせないものであるとまで、ヤコブは、み言葉を行うという意味を具体化して言っています。
 そして、それを、さらに推し進めて、清い、汚れのない真の礼拝とは、悩みの中にある孤児と寡婦を助け、訪問し、この世界から、自分を一点のしみもなく守ることであると、私どもに奨めているのです。
 「み言葉を行う人になりなさい」と、ヤコブは奨めています。聞くだけの人に終わるのではなく、私たちの心に植え付けられた、私たちの魂を救う力のあるみ言葉を、へりくだった心で受け入れ、そして、あらゆる下品と過度の悪を、脱ぎ捨て去って、キリストを着る者とさせていただきましょう。アーメン。


2016年11月1日火曜日

「神の宮を主にささげよう」(ヨハネ2:13-22)

ヨハネによる福音書第213-22節、20161030日(日)、宗教改革主日(典礼色―赤―)、列王記下第228-20節、ガラテヤの信徒への手紙第51-6節、讃美唱46(詩編第461-12節)

 ヨハネによる福音書第213節~22
 
 ユダヤ人の過越際が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか]と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。



説教「神の宮を主にささげよう」(ヨハネ213-22

 今日は、宗教改革を記念する主の日の礼拝であります。来年20171031日で宗教改革500年祭となります。ご承知の通り、15171031日に、ローマ・カトリック教会の一修道僧であったマルティン・ルターが、当時の贖宥券、いわゆる免罪符に反対して95か条の提題を、ヴィッテンベルクの城教会に貼り付けたことに端を発して、宗教改革が期せずして、ヨーロッパに広がっていったのであります。
 その95か条に書かれていた一つのことは、キリスト者の全生涯は、悔い改めの毎日の連続であるということであります。すなわち、私どもは、行いにより、功績を積むことによって、神の前に義とされることはなく、ただ恵みによってのみ、義とされるというのであります。
 今日の福音、ヨハネ福音書第2章13節から22節が、この日に与えられている意味について、しばらくご一緒に考えてみましょう。
 それは、過越祭が近づいている頃のことでありました。そのとき、主イエスは、エルサレムへと上っていかれます。いわゆる神殿から商人を追い払うという出来事が起こったのであります。他の福音書記者たちとは違って、ヨハネ福音書記者は、このことが公生涯の始めに起こったとしています。この出来事によって、新しい救いの時代が来たと、記者ヨハネは言いたかったのであります。
 他の記者たちは記していない、縄で、主イエスは鞭を作られて、神殿の境内から売られていた犠牲の羊や牛を追い出し、両替人の台をひっくり返し、鳩を売っている者たちに、そのようなものを、ここから運び出せ、私の父の家を、商売の家にしてはならないと現実行動に出られたのであります。
 なぜ、主は、その最初の舞台と言ってもいい、このときに、そのようなとっぴとも思われる行動に出られたのでしょうか。
 宗教改革500年祭を、世界の教会が、今祝おうと準備しています。宗教改革といいますけれども、実は、それは当時の社会の改革でもありました。
 当時はびこっていた迷信を打破し、不条理な高利貸しを禁じ、貧しい人たちの共同基金を設けたり、学校制度を創ったりしていったのです。
 今日の福音の記事における主イエスのなさったみ業、語られた数少ないみ言葉も、神の御心が、当時の神殿礼拝の中で改められていったことを示しているのではないでしょうか。
 弟子たちは、主イエスのふるまいを見ながら、「あなたへの熱心が、私を食い尽くすだろう」との詩編の言葉を思い出したとあります。しかし、その主がなさったことの意味は、実際には、主イエスの十字架の死と復活の後に、聖霊が降って初めて、初めてその真意が弟子たちには分かったのではないか。
 この主のふるまいに対しては、ユダヤ人たちは、それなら、しるしを見せていただきたいと言いました。主は、この神殿を壊してみよ、私は三日でそれを立て直してみせると答えられました。
 記者ヨハネは、それは、御自分の体のことだったのであると記しています。この神殿とは、ナオスという言葉で、聖所、神のいますところという意味の字が使ってあります。主イエスご自身が、家造りらには捨てられたが、隅の親石となってくださるのであります。
 主イエスが神の小羊として、ただ一回のいけにえとして、やがて十字架の上でささげられるのであります。
 そして、エルサレムの神殿ではなく、主イエスにおいて、真実と霊とにおいて礼拝がされるようになることを、今日の記事は示しています。今や神の宮として、教会が、主にささげられる、新たしい救いの時代に、このときから入ったのであります。
 そして、主イエスが、神殿から、商人を追い出し、すべてを聖別されたように、私どもも、礼拝・信仰生活のみならず、日常生活も、職場も、家庭も、社会に向かっても、神の御心に適ったようにふるまうべきことが、求められているのであります。キリスト者の全生涯が悔い改めであると、マルティン・ルターが宣言したことの意味は、そのようなものであります。そして、今日の主イエスのふるまいと、み言葉は、そのような恵みと、そして、裁きの両面に私どもを導くものであります。来年、改革500年を迎える、神の宮である教会を、主にささげる喜びを、この日共に祝いたいと思います。
                  アーメン。