2016年10月21日金曜日

「私どもは、神を誇り喜ぶ」(ローマ5:6-11)

ローマの信徒への手紙第56-11節、20161021、聖研・祈祷会

 ローマ56-11

 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。



メッセージ「私どもは、神を誇り喜ぶ」(ローマ56-11

 私どもは、先回、ローマ書第5章に入り、信仰のみによって義とされた私どもは、キリストを通して神に向かって既に平和を得ているとの使徒パウロの言葉、ぶっつけるような信仰の宣言のみ言葉を聞きました。
 そこで、パウロは、私どもは、それ故に、苦難をも誇ると言い、なぜなら、苦難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を、そして、練達は、絶望することのない希望をもたらすからであると言いました。それは、なぜなら、イエス・キリストを通して、また、聖霊の力で、今もなお、神の愛が私どもの心に注がれているからであると宣言していました。
 今日は、それに続いて、それをさらに深く説き明かします。で、なぜなら、私どもが、私どもがまだ弱かったときに、定められた時に及んで、キリストはその私どものために死んでくださったからであるというのです。
 正しい人のために死んでもいいという人は先ずいません。善い人、これは見事な人といった意味ですが、私どもに大きな益を与えてくれた人といった場合でしょうか。あるいは親友のことを考えてもいいでしょうか。そういう大事な人のためなら、あるいは死ぬ人もいるかもしれません。
 けれども、神は、私どもが神の敵であるとき、罪人であるときに、神の子であるキリストを死なせることをなさったのです。それは、私どもの思いも及ばぬ出来事であります。
 そして、パウロは言います。私ども闇に属していた、神に敵対していた者が、キリストの死によって、義とされたのなら、ましてや、信じて、新しい生活に入った私どもが、キリストの命において、神と和解させられた私どもがなおさら、救われるのは間違いないのだと。
 そして、そればかりか、私たちの主イエス・キリストを通して、彼を通して和解を受けた私どもは神において誇る者であるというのであります。
 神を誇るとは、神を喜ぶとも訳すこともできる深い意味が込められています。
私どもの功績や力によって神の前に義とされたのではなく、私どもが、不信心な者をも義とする方を信じる者は、たとえ働きがなくても、その信仰が義と認められる(ローマ書第45節)とは、自分のありのままを受け入れ、それが神によって受け入れられている。自分の弱さ、あるいは落ち度や挫折をそのまま認めて、自分の罪のために、キリストが死んでくださったことを、喜び、誇るに至るのであります。
パウロも、ファリサイ派の中のファリサイ派、ユダヤ人の中のユダヤ人と誇ることのできた人物ですが、今ではそれを糞土のように思っており、また、神によって、サタンの使いによって与えられた体の棘を取り除いてくださいと三度も祈ったが、キリストの力はあなたの弱さにおいて現れるとの天よりのみ声を聞き、ついに弱さを誇り、主を誇る者へと変えられていったのであります。神と和解させられた私どもは、その和解を世に告げ知らせる務めをも与えられているのであります。喜んで、主が私どもの上になさったみ業を誇る者にならせていただきたいものであります。
        アーメン。   







2016年10月20日木曜日

「私どもはいかに生きるべきか」(コヘレト10:1-20)

コヘレトの言葉第101節~20節、20161020、英語で聖書を読む会

コヘレトの言葉第101-20

 死んだ蝿は香料作りの香油を腐らせ、臭くする。
 僅かな愚行は知恵や名誉より高くつく。
 賢者の心は右へ、愚者の心は左へ。
 愚者は道行くときすら愚かで
 だれにでも自分は愚者だと言いふらす。
 主人の気持ちがあなたに対してたかぶっても
 その場を離れるな。
 落ち着けば、大きな過ちも見逃してもらえる。
 太陽の下に、災難なことがあるのを見た。
 君主の誤りで
 愚者が甚だしく高められるかと思えば
 金持ちが身を低くして座す。
 奴隷が馬に乗って行くかと思えば
 君候が奴隷のように徒歩で行く。

 落とし穴を掘る者は自らそこに落ち
 石垣を破る者は蛇にかまれる。
 石を切り出す者は石に傷つき
 木を割る者は木の難に遭う。
 なまった斧を研いでおけば力が要らない。
 知恵を備えておけば利益がある。

 呪術師には何の利益もない。
 賢者の口の言葉は恵み。
 愚者の唇は彼自身を呑み込む。
 愚者はたわ言をもって口を開き
 うわ言をもって口を閉ざす。
 愚者は口数が多い。
 未来のことはだれにも分からない。
 死後どうなるのか、誰が教えてくれよう。
 愚者は労苦してみたところで疲れるだけだ。
 都に行く道さえ知らないのだから。

 いかに不幸なことか
 王が召し使いのようで
 役人らが朝から食い散らしている国よ。
 いかに幸いなことか
 王が高貴な生まれで
 役人らがしかるべきときに食事をし
   決して酔わず、力に満ちている国よ。

 両手が垂れていれば家は漏り
 両腕が怠惰なら梁は落ちる。
 食事をするのは笑うため。
 酒は人生を楽しむため。
 銀はすべてにこたえてくれる。
 親友に向かってすら王を呪うな。
 寝室ですら金持ちを呪うな。
 空の鳥がその声を伝え
 翼あるものがその言葉を告げる。



メッセージ「私どもはいかに生きるべきか」(コヘレト101-20

今日の個所、コヘレトの言葉第10章は、複雑というか、知恵の言葉を、コヘレトは、ここにまとめて記録しているように思われる。賢者と愚か者、王と奴隷、不幸な国と、幸せな国といった類で、思いつくままに、ここにコヘレトは、ていねいに収録しているのであろうか。
しかし、今日の記事も、やはり、コヘレトらしい気風が感じられるのである。箴言の著者や、ヨブ記のヨブの思想、信仰とは一味違う、コヘレトらしさを、ここでも私どもは味わうことができる。
今から、2000、数100年も前のコヘレトがここに記してる言葉は、今もなお、力を失ってはいないのである。
蛇の呪術師が、先に蛇にかまれては、呪術師としての報酬をえることはできない。木こりが、斧の頭が間違ってはずれて、死や大きな傷害をもたらす危険がある。
あるいは、私は、奴隷が馬の背にまたがって行くのを見、王が徒歩で歩いていくのを見たという。知恵は、愚かさに、もちろんまさるのであるが、必ずしも知恵が思い通りに勝ち取っていくわけでもないと言う。
今日の記事でも、コヘレトは、人は死後どうなるのかだれも分からないと語り、与えられた仕事を精一杯こつこつとこなしていくのが幸いだと言っているのである。怠け者の屋根は漏り、うなだれた手で無気力に過ごす愚かさに警鐘を鳴らしている。
そして、食べ物は力を与え、ぶどう酒は、その人の顔を輝かせると言い、宴会も日中の決められた時に、セルフ・コントロールを働かせながら楽しむが良いと、労働と楽しみのバランスをとることを奨めているのである。私どもはともすると偏りすぎる傾向があるのであるが、コヘレトは長い経験から得た知恵、あるいはおそらく、箴言など旧約聖書の知恵から独自の生き方を、黙想しながら体得していったのではないか。
私どももまた、み言葉、聖書の言葉に深く思いを凝らしながら、調和のとれた信仰生活を歩んでいきたいものである。

           アーメン   

「信仰を探し求める神」(ルカ18:1~8)

ルカによる福音書第181-8節、20161016日(日)、聖霊降臨後第22主日(典礼色―緑―)、創世記第3223-31節、テモテへの手紙二第314-45節、讃美唱121(詩編第1211-8節)

 ルカによる福音書第181節~8
 
 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、「相手を裁いて、わたしを守ってください」と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見出すだろうか。」


説教「信仰を探し求める神」(ルカ1818

 ルカ福音書と共に歩んできた、昨年のアドベント以来の出来事もいよいよ終わりに近づいてきています。今日の主イエスの語られたみ言葉も、人の子は速やかに、あるいは不意に、予期しない時にやって来る。しかし、そのとき、地上にかの信仰を、人の子は見出すであろうかとの疑問文で終わっています。
 終末のときが、必ず来る。予期しない時に来る。だから、この主イエスの警告の言葉をむしろ招きの言葉として受け入れ、一見答えがないかに見える祈りを落胆することなく続けるようにとの譬えが、今日の不正な裁判官とやもめの譬えと言われる主イエスが語ってくださった物語であります。
 これは、神の国はどこにあり、あるいは、いつ来るのかとのファリサイ派の人々に対して、神の国は、むしろあなた方の間にあると主イエスがお答えになられた。そして、それに対して、弟子たちが、人の子が来る時にはどんなしるしがありますかと、主に質問しました。
 それに対して、主イエスは、死体のあるところには、はげ鷹も集まるものだと、最後にお答えになった。それに続いて、主イエスが弟子たちに向かって、今日の譬えを語っておられるのであります。それは、絶えず祈り続けなければならないこと、しかも気落ちすることなく、私どもは祈らねばならないことを教えるためでありました。
 ある町に不正な裁判官がいたが、神を神とも畏れず、人を人とも思わない悪徳裁判官であったというのです。そこに、同じくやもめがいて、ひっきりなしにやって来ては、私のために正義を、相手方に対して行ってくださいと願い続けるのです。
 この裁判官は、当初、一向に気にも留めないでいました。しかし、あまりにもしつこく、このやもめは裁判をして欲しいと通い続けてくるので、彼はこう考えたのです。このままほおっておくと、終わりには、目の下に隈をつけられ、さんざん苦しめられることになるので、彼女のために正義を行う裁判をしてやろうと。
 これに対して、主イエスは、この裁判官の言いぐさを聞きなさいと弟子たちに注意を促します。そして、それならまして、夜昼呼び求める彼の選んだ民どもに対して、神は正義を行わないことがあろうかと一転して神が私どもの祈りを聞いてくださることを約束なさるのであります。ルカ福音書第187節の文は難解ですが、これは、たとえ、彼がその選民たちに対して忍耐するとしても、その呼ばわる自分の選んだ者たちに必ず正義を行ってくださるのではないかと主イエスの、私どもに対する祈りへの招きのみ言葉であります。
 そして、主は、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、はたして、この地上に、かの信仰を見出すであろうかと、お問いになるのであります。
 人の子が来る終わりの時は、すぐにも来る、思いがけない時に、終末のときが来ると主は警告し、また、これは招きと慰めの言葉でもあります。決してそのときには、私が期待したような信仰は見られないだろうとの否定的な見方ではない。不正な裁判官さえ、変わるとすれば、どうして、私たちを選ばれた神が、私たちの祈りに答えられないはずがあろうか。必ず、私たちのうめきや訴えをお聞きになってくださるとの主イエスとそのメッセージを受け入れている私ども主イエスの弟子への慰めと励ましへの招きの言葉と言っていいのです。そして、今日の出てきた、ひっきりなしに不正な裁判官のもとへとやって来るやもめとは、私ども、小さな、そして弱い弟子たちを示していると考えてもいいのです。なりふり構わず、そうせざるを得ないで、勝算もないのに、通いつめたやもめは、私どものありようでもあります。
 この世界の怒涛の中で、私どもは、神に向かってひっきりなしに嘆願し続ける今日のやもめの姿であっていいのです。神はその願いに、たとえ忍耐強く、急には答えてくださらないとしても、終わりの時には、予期しない時に速やかに、私どもを擁護し、正義を行ってくださる。神はそのような私どもの信仰と祈りを探し求めておられるのであります。それに信頼して、雄々しく今週もこの1週間の旅路へと遣わされていきましょう。
アーメン。





2016年10月15日土曜日

「次に何が起こるかは分からない中で」(コヘレト9:1-18)

コヘレトの言葉第91節~18節、20161013、英語で聖書を読む会

コヘレトの言葉第91-18

 わたしは心を尽くして次のようなことを明らかにした。すなわち
 善人、賢人、そして彼らの働きは
  神の手の中にある。
 愛も、憎しみも、人間は知らない。
 人間の前にあるすべてのことは何事も同じで
 同じひとつのことが善人にも悪人にも良い人にも
 清い人にも不浄な人にも
 いけにえをささげる人にもささげない人にも臨む。
 良い人に起こることが罪を犯す人にも起こり
 誓いを立てる人に起こることが
 誓いを恐れる人にも起こる。
  太陽の下に起こるすべてのことの中で最も悪いのは、だれにでも同じひとつのことが臨むこと、その上、生きている間、人の心は悪に満ち、思いは狂っていて、その後は死ぬだけだということ。

 命あるもののうちに数えられてさえいれば
 まだ安心だ。
 犬でも、生きていれば、死んだ獅子よりましだ。
 生きているものは、少なくとも知っている
  自分はやがて死ぬということを。
 しかし、死者はもう何ひとつ知らない。
 彼らはもう報いを受けることもなく
 彼らの名は忘れられる。
 その愛も憎しみも、情熱も、既に消えうせ
 太陽の下に起こることのどれひとつにも
  もう何のかかわりもない。

 さあ、喜んであなたのパンを食べ
 気持ちよくあなたの酒を飲むがよい。
 あなたの業を神は受け入れていてくださる。
 どのようなときも純白の衣を着て
 頭には香油を絶やすな。
 太陽の下、与えられた空しい人生の日々
  愛する妻と共に楽しく生きるがよい。
 それが、太陽の下で労苦するあなたへの
  人生と労苦の報いなのだ。
 何によらず手をつけたことは熱心にするがよい。
 いつかは行かなければならないあの陰府には
 仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ。

 太陽の下、再びわたしは見た。
 足の速い者が競争に、強い者が戦いに
  必ずしも勝つとは言えない。
 知恵があるといってパンにありつくのでも
 聡明だからといって富を得るのでも
 知識があるといって好意をもたれるのでもない。
 時と機会はだれにも臨むが
 人間がその時を知らないだけだ。
 魚が運悪く網にかかったり
 鳥が罠にかかったりするように
 人間も突然不運に見舞われ、罠にかかる。

 わたしはまた太陽の下に、知恵について次のような実例を見て、強い印象を受けた。
 ある小さな町に僅かの住民がいた。そこへ強大な王が攻めて来て包囲し、大きな攻城堡  
塁を築いた。その町に一人の貧しい賢人がいて、知恵によって町を救った。しかし、貧しいこの人のことは、だれの口にものぼらなかった。それで、わたしは言った。
 知恵は力にまさるというが
 この貧しい人の知恵は侮られ
 その言葉は聞かれない。

 支配者が愚か者の中で叫ぶよりは
 賢者の静かに説く言葉が聞かれるものだ。
 知恵は武器にまさる。
 一度の過ちは多くの善をそこなう。


メッセージ「次に何が起こるかは分からない中で」(コヘレト91-18

 私どもは、コヘレトが言うように、賢者が、あるいは正しい者が必ず勝利するわけではない、ある意味で不条理な人生を生かされている。あまりにも正し過ぎないようにと、あった以前のコヘレトの言葉が想起される。
 明日は、何が起こるか分からない、不確実性の中を、一人一人は歩んでいるのである。思わぬ言葉によって傷つけられることが、いつ投げかけられるとも限らない。
 そのような時には、コヘレトが、今日語ってくれているような言葉さえも、容易には頭に入らない経験すら、私どもはするものである。
 しかし、そのような苦しいときでも、改めて、今日のコヘレトの言葉に近づいてみたい。
 正しい者にも、悪人にも、愚かな者にも、賢者にも死が訪れる。死者は自分自身についてもはや何も知らない。シェオール、旧約聖書の時代の人々が、死んだらゆくと信じた死者の国では、もはや、仕事も企てもなく、神をほめたたえることもできなくなると考えられており、コヘレトもそれを受け入れて正視している。
 それゆえ、死んだ獅子よりは、生きている犬のほうがまさっているという。なぜなら、生きてさえいるならば、私どもは、まだ望みがあるからだというのである。
 そうだ、私どもは、健康を与えられて、心身ともに健やかにされて、日々与えられる仕事を精一杯やれるならば、この空しい人生にあっても、神からの労苦の報いを受け取って、それでよしとすべきなのではないか。
 そして、働いて得た収入で、飲み食いし、妻と共に楽しむがいいのだ。そのためにも、コヘレトの言葉に聞き、この世の生がきわめて限られたものであることを知り、明日、否、一日のうちにも、次に何が起こるか分からない、危険で不条理なことの起こる生活の中で、分をわきまえて、過度に正しすぎず、自分が賢いと、あるいは人より、まさっており、聖であるとうぬぼれることなく、穏やかな、平静な心で人々と接したいものである。
アーメン。


2016年10月12日水曜日

「あなたも主イエスに応答する人生を」(ルカ17:11~19)  

ルカによる福音書第1711-19節、2016109日(日)、聖霊降臨後第21主日(典礼色―緑―)、列王記下第51-14節、テモテへの手紙二第28-13節、讃美唱111(詩編第1111-10節)

 ルカによる福音書第1711節~19
 
 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところへ行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは住人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻ってきた者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」


説教「あなたも主イエスに応答する人生を」(ルカ171119
 
 今日の福音は、改めて、主イエスがエルサレムでの十字架の死を目指してのたびの途上にあることを記しています。第1朗読で読まれた列王記下第5章に、やはり異邦人であったアラムの将軍ナアマンが、同じようにして、神の人エリシャによって癒される出来事が記されています。
 また、ルカの福音書の第5章にも、癒された重い皮膚病の人の記事が出てきます。ですから、ある人々は、今日の福音の記事は、ルカが創作したに過ぎないものではないかとさえ、疑ったのであります。
 しかし、これが、歴史上の事実に反するものであるという立証もできないのでありまして、私どもはこれを、この通りに信じてよいのであります。
 主イエスの一行は、エルサレムを目指し、サマリアとガリラヤの真ん中を、あるいは間を通過しつつあったとあります。あいまいな表現であり、なぜ、サマリアが先に書かれているのか、よく分かりません。厳密に言えば、サマリアとガリラヤの間の領域というものはないのであります。
 けれども、その国境のへりの辺りを、主イエスは進んでおられ、とある村に入ろうとなさったときに、10人の重い皮膚病の者たちが、遠くから大声で「先生、イエス様、私どもを憐れんでください」と呼ばわるのであります。
 主イエスは、これを見て、「あなた方は、祭司たちのところへ行って、自分の体を見せなさい」と指示を出すのであります。これを「見て」というのは、事の真相を洞察なさったという深い意味で用いられています。そして、この後の、自分の体が治癒されたのを「見た」一人の者も、同じ字が使われていまして、主イエスによってなされたことの真意を悟ったという意味で用いられています。
 旧約聖書の規定どおりに、主イエスは、治ったことを、祭司たちに証明してもらいに行きなさいとの命令に、10名はいずれも聴き従い、出て行くのであります。そして、出て行くことにおいて、進んでいる最中に、皆、癒されるのであります。
 そして、その一人は、よりによってサマリア人でありましたが、主イエスが自分を癒し、主イエスこそ、神の恵みの通路である、罪の赦し手であることを悟ったのであります。それで、彼は、祭司たちのところに行くこともしないで、大声で神に栄光を帰しつつ、引き返すのであります。神に栄光を帰する、神を賛美することが、自分が癒されたことを表明する、ルカの表現する仕方であります。私たちの人生も、この人のように神に栄光を帰するものでありたいと願います。
 そして、彼は主イエスの足もとにひれ伏して、感謝を表すのであります。神が遣わされた独り子イエスに、礼拝をするのであります。私どもの毎週の礼拝も、そのようにありたいものであります。聖餐式も、まさにそのような感謝であります。
 主イエスは、言われます。癒されたのは、10人ではなかったのか、他の9人はどこに。神に栄光を与えるために、戻って来た者は、この外国人意外には見出されなかたったのかと。
 そして、最後に、あなたの信仰があなたを救ったのだ。起き上がって進んで行きなさいと。
 信仰には、それにふさわしい応答、ふるまいが伴っています。主イエスは、罪深い女の人が、嘆きと絶望の思いで、主イエスの足に香油を塗った時、また、長年の長血で苦しんでいた女の人が、主イエスの服に触れようと近寄った時に、また、百人隊長がそのしもべのために使いを送って癒してくださるように懇願した時に、さらには、エマオ近くで盲人が、自分の目を見えるようにしてくださいと大声をあげて近づいてきたときに、その信仰をほめておられます。
 主イエスが癒されたのに、自分があなたを救ったとは言わないで、あなたの信仰があなたを救ったと宣言なさるのです。
 そして、このサマリア人は、喜びながら、新しい人生へと送り出されていったのであります。私どもも願わくば、そのように新しい人生を与えられ、神と人とに仕えていく人生を歩みたい者であります。アーメン。


2016年10月6日木曜日

「人に与えられた命のスパンを精一杯生きる」(コヘレト8:1~17)

コヘレトの言葉第81節~17節、2016106、英語で聖書を読む会

コヘレトの言葉第81-17

  「人の知恵は顔に光を添え、固い顔も和らげる。」
賢者のように、この言葉の解釈ができるのは誰か。
それは、わたしだ。すなわち、王の言葉を守れ、神に対する誓いと同様に。気短に王の前を立ち去ろうとするな。不快なことに固執するな。王は望むままにふるまうのだから。王の言った言葉が支配する。だれも彼に指図することはできない。命令に従っていれば、不快な目に遭うことはない。賢者はふさわしい時ということを心得ている。何事にもふさわしい時があるものだ。人間には災難のふりかかることが多いが、何事が起こるかを知ることはできない。どのように起こるかも、誰が教えてくれようか。
人は霊を支配できない。
霊を押しとどめることはできない。
死の日を支配することもできない。
戦争を免れる者もない。
悪は悪を行う者を逃れさせはしない。

わたしはこのようなことを見極め、太陽の下に起こるすべてのことを、熱心に考えた。今は、人間が人間を支配して苦しみをもたらすような時だ。
だから、わたしは悪人が葬儀をしてもらうのも、聖なる場所に出入りするのも、また、正しいことをした人が町で忘れ去られているのも見る。これまた、空しい。

悪事に対する条例が速やかに実施されないので
人は大胆に悪事をはたらく。
罪を犯し百度も悪事をはたらいている者が
なお、長生きしている。
にもかかわらず、わたしには分かっている。
神を畏れる人は、畏れるからこそ幸福になり
悪人は神を畏れないから、長生きできず
影のようなもので、決して幸福にはなれない。
この地上には空しいことが起こる。
善人でありながら
 悪人の業の報いを受ける者があり
悪人でありながら
 善人の業の報いを受ける者がある。
 これまた空しいと、わたしは言う。

 それゆえ、わたしは快楽をたたえる。
 太陽の下、人間にとって
  飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない。
 それは、太陽の下、神が彼に与える人生の
 日々の労苦に添えられたものなのだ。
 わたしは知恵を深めてこの地上に起こることを見極めようと心を尽くし、昼も夜も眠らずに努め、神のすべての業を観察した。まことに、太陽の下に起こるすべてのことを悟ることは、人間にはできない。人間がどんなに労苦し追求しても、悟ることはできず、賢者がそれを知ったと言おうとも、彼も悟ってはいない。



メッセージ「人に与えられた命のスパンを精一杯生きる」(コヘレト8117

 コヘレトの言葉は、「空の空なるかな」といった言葉で、ともするとニヒリズム(虚無主義)として受け取られやすい。しかし、彼は、その時代の中で、できうる限りの極限の生き方をしたし、それを私どもに奨めている人ではないか。
 賢者はどのように生きているのか、知恵はどこまで、私どもを導いてくれるのかと問い、彼は、王の命令に従えと言い、その主権にそむくことは愚かであると言って、その時代の中で伝えられている、生き抜く知恵にならうように教えもしている。
 しかし、正しい人が、悪人にふさわしい報いを受けることがあり、逆の場合もあることを見て、それはまた、空しく、空虚であり、無駄な、つまらないことだと言う。
 そして、結局、どんな賢者も、知恵者も、続いて、何が自分に訪れるかは、だれも知ることはできず、すべてを知っておられ、決定しておられるのは、神お一人であると言う。コヘレトは、ここでも、だれにも平等に訪れる死を凝視しているのである。    
そして、再び、私どもに最も良いことは、自分の労苦に従って、飲み食いし、楽しむことであり、この短い人生のスパンを、そういった意味で精一杯生きることであると語り、今も、そのことを私どもに、2000、数百年の歴史を超えて、奨め、慰め、励ましているように思われる。

アーメン。

2016年10月4日火曜日

「ふつつかなしもべとして生きる」(ルカ17:1-10)

ルカによる福音書第171-10節、2016102日(日)、聖霊降臨後第20主日(典礼色―緑―)、ハバクク書第21-4節、テモテへの手紙二第13-14節、讃美唱95(詩編第951-9節)

 ルカによる福音書第171節~10
 
 イエスは弟子たちに言われた。「つまづきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまづかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ。』と言っても、言うことを聞くであろう。
 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足らない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」


説教「ふつつかなしもべとして生きる」(ルカ171-10

 今日の第1朗読、旧約聖書では、ハバクク書から、待っておれ、私が言ったことは必ず実現する、遅れることはない。そして、正しい人は、信仰によって生きるとの預言が与えられています。また、第2朗読では、第2テモテ書から、使徒パウロが、獄中から、テモテに、その祖母以来、受け継がれた信仰を持ち続け、それから、逸れることのないように、絶えず正しい信仰を見つめ、私から聞いた福音を人々に説き続けるように励ましています。
 まだ、今の礼拝では読まれていませんが、来年の改革500年から用いられようとしている新式文で読まれることになる讃美唱としては、今日は詩編95編からの賛美の詩編が与えられています。すべては、主なる神がお造りになられたもの、私たちもそうであって、主は私どもを養う羊飼いであられると主をほめたたえる賛歌が、選ばれています。
 そして、今日の福音、ルカによる福音書第171節から10節が、今朝与えられております。エルサレムでの十字架の死を目指しての旅の一つの大きな詰めを迎える段落の終わりの記事となっております。
 さて、ヨーロッパでは、墓石には、しばしば聖句が刻まれています。日本の教会の墓石には、「われは、復活であり、命である」といった聖句が多いですが、ヨーロッパでは、某「主にあって、ここに眠る」といった墓碑銘が多いそうです。ところが、ある有名なスウェーデンの牧師で、学者としても大きな働きをした人は、墓碑銘に「ふつつかなしもべ、ここに眠る」と自分の生涯を振り返って、今日の主のなさった譬えから、記しているとのことです。
 この呼び方は、口語訳聖書で使われているものですが、このもとの言葉は、訳すのが非常に難しい言葉です。価値のないしもべですというのも、どうもその真意を十分に表せませんし、別の記事で訳されているところでは、役に立たないしもべとなっていますが、今日の個所でのしもべは、朝から晩まで、十分に働きを終えて帰ってきているのですから、なすべきことはみな果たしている、忠実なしもべなのです。
 しかし、そのスウェーデンの牧師は、自分の働きは、今日の福音の記事に出て来るしもべとして、「私はふつつかな僕にすぎません。私は、命じられたこと、恩義があることをやったにすぎません」と自分の生涯をその一言で要約して記しているのです。私どもも、自分の墓碑銘に、このように書ける生涯を、送れたら、どんなに幸いなことでしょうか。
 今日の福音は、主イエスが色々な場所で語った語録のようなものを、ルカがここに羅列して書いているとも思われるような、一読すると、一つのテーマのもとに記されたとは思えないみ言葉が記されています。しかし、あえてここに、ルカが構成しているのですから、つながりのあるみ言葉として読むことは許されるし、むしろ有用、必要なことではないでしょうか。
 まず、主イエスは、弟子たちに向けて、躓きは、やって来ないようにすることは、不可能であるが、それを来たらせるその者は災いである、その者は、首に石臼をつながれて、海に投げつけられた方が益であるとまで言われます。主イエスとその約束を信じている小さな信者を、それから離れさせる誘惑は、避けられないが、それをもたらすことが、ないようにあなた方は、くれぐれも注意しなさいと言われるのであります。
 続いて、罪に対して、どのように、教会の私どもは対応すればよいのか。主は、あなたに対して、兄弟が罪を犯したら、まずはそれを叱責し、ただしなさいと言われます。これは、難しいことです。感情的に叱り飛ばすということではなくて、やさしく兄弟を正しい道に引き戻すようにというのです。
 レビ記第1917節にも、「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば、彼の罪を負うことはない」とあるとおりであります。
 次に、あなたの兄弟があなたに罪を犯し、一日に7度そうしても、7度、心から翻ってあなたのところに、改めますといって来るなら、あなたは、彼を赦しなさいと言われます。どこまでも、自分に罪を犯す者を、はたしてどこまで、私どもは赦し続けることができるでしょうか。どこまで、私どもは、日ごとに、十分の十字架を負って主イエスについていくことが可能なのでしょうか。
 これらの厳しい主の言葉を聞いた弟子たちは、自分たちはもう限界に来ていると落胆していたのではないでしょうか。
 そこで、使徒たちは、私たちに信仰を増させてくださいと、訴えるしかなかったのではないでしょうか。そのとき、主は言われます。あなた方に、からしの木のあの種粒ほどの信仰があれが、桑の木に、あるいは、もっと大きないちじく桑の木に、根を引き抜かれて、海に植えつけられよといえば、その木はあなた方に聞き従うだろうと。
 信仰とは、私たちの力で得るものではなく、ルターによれば、私たちのうちにおける神の働きであります。また、カール・バルトという神学者が、ローマ書第117節を、神の義は、神の真実から、人間のそれへの信頼を通して、実現されると訳したとおりであります。そして、その信仰があれば、それにふさわしい忠実な業をもたらし、信仰がなければ、疑いと恐れをもたらすのです。
 そして、主人と僕のたとえをお語りになりました。聞いている者たちに十分分かる事柄で、信仰をもって生きる者はどのような者なのかを説いて聞かせられるのであります。
 しもべは、主人に買い取られた者でありました。ですから、その家で、さまざまな働きをするしもべは、家に戻って、まずはその主人の食事の準備をし、給仕も済ませてから、自分の飲み食いにようやく落ち着くことができるのです。その主人から命じられたことをすべて果たしても、主人に報償を求めることはできません。

 私どもも、主イエスによって、罪から買い取られ、贖われた主イエスのしもべ、あるいは、主の奴隷と言ってもいいのです。ですから、私どもは、今日の、主の命ぜられた厳しいみ言葉に生き、そして、果たすべきことを、果たし終えたとしても、自分の名誉を求めることはできず、「私はふつつかなしもべです。主イエスに恩義のあることを果たしただけです」と言うことしかできないのであります。この主のみ言葉、約束をいただき、また、主の聖餐に与って、この1週間の生活の荒波の中へと雄々しく出て行きましょう。アーメン。

2016年10月1日土曜日

「まことの希望」(ローマ5:1-5)

ローマの信徒への手紙第51-5節、20160930、聖研・祈祷会

 ローマ51-5

 このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。
 

メッセージ「まことの希望」(ローマ51-5

 これまで、信仰によって、人は義とされることを、使徒パウロは、いろいろな角度から証言してきたのであるが、今日のローマ書台章からは、その神によって義とされた人間がどのように確かな希望を与えられているか、そして、その義とされた人間の新しい生について説き始める。
 それゆえに、信仰によって義とされた私たちは、主イエス・キリストを通して、恵みによって、神に向かって平和を持っているとパウロは、新たな展開の文章を書き始める。
 神と平和な関係を持ちましょうと、新たな生き方を求めるというのではなく、既に神との和解ができあがっているというのである。
 私たちの功績によって、自分たちの側から神との平和が与えられるというのではなく、神の側から、一人子を、罪なきお方であるにもかかわらず、十字架の死に渡し、さらに死人の中から起き上がらせることによって、義をもたらし、私たちの罪を怒り、争うというのではなくて、一方的なご好意によって、私どもとの関係を修復なさったのである。
 そして、私どもは、神の栄光の希望の上に誇るのであるという。神の栄光を輝かすことができたならば、私どもの人生はどんなにか有意義なものになることだろうか。それが、私どもの罪のためにできなくなっていたし、神の怒りを招くものとなっていた。それが、み子の十字架とご復活の出来事を通して、神の栄光の希望を誇り、喜ぶものになっていると、パウロは宣言する。
 そして、私たちは、苦難をも誇るというのである。神を信じる私たちも、苦しみに出会う時、神に問い、信じていない者であれば、むしろ神を呪いさえもするのが通常である。あるいは、艱難が続く時には、神を思う余裕もないのが私どもの偽らざる現実である。
 ところが、パウロは、聖書を通して、神の救いを知らされた私どもは、苦しみをも誇ることができる。苦しみは、神が私どもを訓練するためのもので、やがて、忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出すという。練達という言葉は、試練とか、テスト、あるいは証拠といった意味である。マルティン・ルターが悪魔や試練との熾烈な戦いの中で、揺るがない信仰による義を見出し、あの500年前の改革の事業を、聖書との格闘を通して、成就していったことを、人は想起することができよう。
 さらに、パウロは、そのような練達は、希望を生み出し、その希望は、決して失望させない、恥をかかせない、欺くことのないものであるという。2000年前に成就した神の救いの出来事は、人が思い描く妄想でもなければ、絵空事でもない、確実な出来事であると、主イエスの十字架の死からわずか50年ほどしか経っていないパウロが保障して言い切っているのは驚くべきことである。
 そして、最後に、なぜなら、神の愛が、私たちの心の中に、聖霊を通して今も降り注いでいるからであると言う。
 私どもは、日常の労苦と煩悶、不安や疑い、一日一日を生きていくことで精一杯で、神の愛が、私どもの心に今もなお豊かに降り注がれていることをついつい忘れがちである。というよりも、パウロのこの言葉を聞かなければ、そんなことがあるのだろうかと訝しがるほどの者ではなかろうか。
 しかし、パウロは、聖霊の力を通して、今もなお、確実に、神の、私たちへの愛が、私たちの神への愛ではなく、一方的に、私どもの心の中に降り注がれていることを宣言しているのである。

 そのことを、絶えず自覚するためにも、私どもはあたう限り礼拝につながり、み言葉の説き明かしをに耳を傾け、洗礼と聖餐を絶えず凝視し、週日もみ言葉の学びと祈りに集い、聖書日課やたとえば、C・ブルームハルトの「ゆうべの祈り」(加藤常昭訳、日本キリスト教団出版局、2200円+税)を夫婦で用いたりして、神の愛を日ごとに確認する生活が求められるであろう。アーメン。