2016年9月29日木曜日

「度が過ぎないほうがよい」(コヘレト7:15-29)  

コヘレトの言葉第715節~29節、20160929、英語で聖書を読む会

コヘレトの言葉第715-29

 この空しい人生の日々に
 わたしはすべてを見極めた。
 善人がその善のゆえに滅びることもあり
 悪人がその悪のゆえに長らえることもある。
 善人すぎるな、賢すぎるな
 どうして滅びてよかろう。
 悪事をすごすな、愚かすぎるな
 どうして時も来ないのに死んでよかろう。
 一つのことをつかむのはよいが
 ほかのことからも手を放してはいけない。
 神を畏れ敬えば
 どちらをも成し遂げることができる。
 知恵は賢者を力づけて
 町にいる十人の権力者よりも強くする。
 善のみ行って罪を犯さないような人間は
  この地上にはいない。
 人の言うことをいちいち気にするな。
 そうすれば、僕があなたを呪っても
  聞き流していられる。
 あなた自身も何度となく他人を呪ったことを
  あなたの心はよく知っているはずだ。

 わたしはこういうことをすべて
  知恵を尽くして試してみた。
 賢者でありたいと思ったが
 それはわたしから遠いことであった。
 存在したことは、はるかに遠く
 その深い深いところを誰が見いだせようか。
 わたしは熱心に知識を求め
  知恵と結論を追求し
 悪は愚行、愚行は狂気であることを
  悟ろうとした。
 わたしの見いだしたところでは
 死よりも、罠よりも、苦い女がある。
 その心は網、その手は枷。
 神に善人と認められた人は彼女を免れるが
 一歩誤れば、そのとりこになる。
 見よ、これがわたしの見いだしたところ
  ―コヘレトの言葉―
 ひとつひとつ調べて見いだした結論。
 わたしの魂はなお尋ね求めて見いださなかった。
 千人に一人という男はいたが
 千人に一人として、良い女は見いださなかった。
 ただし見よ、見いだしたことがある。
 神は人間をまっすぐに造られたが
 人間は複雑な考え方をしたがる、ということ。


メッセージ「度が過ぎないほうがよい」(コヘレト715-29
 
コヘレトは、あまり正しすぎるなと言い、また、あまりに愚かになるなと言う。いわゆる律法主義になるのを戒め、あるいは、道徳からも離れてどこまでも堕落するのを戒めてもいるようである。
すべての人生は空しいと、私どもの人生を覚めた目で見ながらも、複雑な私どもの生活を、とことん見つめたあげく、何が正義であり、邪悪であるかはそう容易に断定できないことを、彼は、真理を捜し求めた末に見出しているのである。
完全にその人が正しいとは言えないし、あるいは他の人が完全に間違っているということもないのである。
そして、彼は、一つの例として、男と女のことを挙げている。1000人の男のうちには、至上の者が一人は見出せたという。しかし、1000人の女のうちには、それはいなかったという。男を迷わすような女がいて、その心は網であり、その手は足枷であって、神を喜ばせつつある男は別として、すべての者がその罠に陥るという。危険な男女間の関係を、コヘレトは見ているが、それは、人間は、すべてのことは知恵や物事の理由付けによっては、断定できない、複雑なものであることを、彼は、男女間においても見出しているのである。一方では、人は家において、労働の成果を妻や子と楽しみ、飲み食いして、満足するのが一番であると別の個所では断定しているのであるが。
今日の部分では、あまりにも正しくあることに度が過ぎることもなく、また、愚かさに度が過ぎることもなく、その両方を手放すことなく、神を畏れて歩むようにと、このすべては空しい人生、すなわち、瞬時の人生を精一杯に生きることを、コヘレト、「語る者」は奨めているように思われる。
そして、最後に、こう要約している。神は、人を真っ直ぐな者としてお造りになった。しかし、人は複雑な考え方を好み、終わりなき企みを繰り返すと。
 私どもの毎日の生活の実相を、コヘレトは追及し、人間とは簡単に割り切れない不確定なものであることを見出し、しかし、それゆえに、かえって造り主である神への畏れによって、善にも悪にも度が過ぎることなく、それぞれが慎重に分に応じて賢く判断し、生きていくしかないと訴えているのではなかろうか。確かに、私どもの現実の毎日は多くの悩みと労苦と迷いの連続である。コヘレトは、かかる現実の中で、より確かな歩みをするようにと今も戸惑いの中にいる私どもを招いてくれているのである。

             アーメン。

2016年9月27日火曜日

「死のかなたからの声」(ルカ16:19~31)

ルカによる福音書第1619-31節、2016925日(日)、聖霊降臨後第19主日(典礼色―緑―)、アモス書第61-7節、テモテへの手紙一第62節C-19節、讃美唱146(詩編第1461-19節)

 ルカによる福音書第1619節~31
 
 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷させてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前の間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えてくることもできない。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」
 

説教「死のかなたからの声」(ルカ161931

 今日の第1の朗読、アモス書では、エルサレムで贅沢に暮らす支配者階級が預言者アモスによって批判され、当時のユダヤの社会の腐敗・堕落が糾弾されています。
 また、第2朗読のテモテへの手紙一では、使徒パウロが、救われた以上、健全で、堅実な生活をし、キリストを宣べ伝える者としてふさわしく歩むように、テモテを励まし、また、奨め、勇気づけています。
 さらに、まだ、礼拝では読まれていませんが、讃美唱146の、詩編146編は、やがて塵に帰る人間に対しては、たとえいかなる君侯であっても絶対の信頼を寄せてはならない。彼もまた、土から造られた者だから、いつかは、息が絶え、土に帰る存在だからだと、ただ神に信頼するようにと、この詩人は、戒めつつ、主をほめたたえています。
 さて、先週の不正な管理人の譬えに続く今朝の福音、ルカ福音書第1619節から31節は、先週に引き続いて、どのように富を用いるべきかを教えているものであります。私どもの持っている富を誤用してはならないのであって、では、いかに使えばよいのかを、エルサレムでの主イエスの十字架に向かっての旅の途上でお語りになった譬えであります。
 イスラム教にも天国と地獄はあるそうです。仏教でも浄土・極楽と地獄の教えをよく耳にします。主イエスも、ここで珍しいことですが、死後の世界について、この譬えを通してお語りになっています。
 主は、このようにお語りになりました。ある金持ちがいて、毎日、紫の衣や白い亜麻布の下着を着て、見事に祝い楽しんでいた。ところが、その屋敷の外の門のところに、ラザロという貧しい人がいて、できものだらけで、放り投げられていたというのです。
 彼はせめて金持ちの食卓から落ちるもので、満腹になりたいと願っていましたが、それはできませんでした。そして、代わりに犬がやって来て、その体のできもの、膿みの部分を、食後のスープのようになめまわしていたと言うのでです。やがて、ラザロはなくなり、まともな葬儀もなされなかったことでしょう、しかし、彼は、天使たちによって、アブラハムの懐へと連れて行かれたとあります。ユダヤ人たちにとっての父祖であり、また、信仰の父とも仰がれてきたアブラハムのもとに連れて行かれたのです。新共同訳は、アブラハムの祝宴の席に連れて行かれたと訳しています。
 ところが、やがて、金持ちのほうも死んで、葬られました。そして、彼は気づくと陰府において火の中でもだえ苦しんでおり、しかし、ラザロのほうは、はるかかなたに、アブラハムの宴席で憩っているのを見出すのであります。
 彼は思わず、父アブラハムよ、ラザロを遣わして、その指先を水で浸し、私の舌を冷やさせてくださいと声を上げるのであります。
 しかし、アブラハムは、子よ、こちらとあなたの間には、深い淵があって、こちらからも、あなたの側からも行き来することはできないと語るのです。
 それで、今度は、金持ちは、それなら、せめて、私の父の家の5人の兄弟たちの下にラザロを送って、自分のような身にならないように、生活を悔い改めるように言わせてくださいと願い出るのであります。しかし、アブラハムは、あなた方には、モーセと預言者たちがいる。彼らに、彼らは聞くがよいと答えます。
 しかし、金持ちは言います。いや、死人が、生き返って、彼らを戒めれば、その生活を改めることができるでしょうとなお、引きません。
 すると、最後に、父アブラハムは、こう答えるのです。もし、彼らがモーセと預言者たち、すなわち、旧約聖書を聞き入れないのなら、たとえ、死人どもから、だれかがよみがえっても、彼らは、信じゆだねさせられることはないだろうと。
 旧約聖書で、貧しい者を助けるように、慈善、施しの業をしなさいと十分に示されています。そして、この譬えを語っておられる主イエスも、貧しい者を助け、施しをするように、これまで、教えて来られました。主イエスは、ここで、御自分が、この後、復活されるのですが、たとえ、それを見ても、旧約聖書の教えにすら、耳を傾け、聞き入れなかった彼らが、ますます信じがたい主のご復活を知ったとしても、主イエスに確信させられ、信じゆだねることはないだろうと言われます。
 ところで、このラザロとは、だれであり、金持ちとは、だれを指しているのでしょうか。ラザロとは、神の憐れみを必要とする者という意味の名前であります。主イエスのなさった譬えの中で、唯一出てくる名前のついた人物であります。
 私どもは神の憐れみを必要とする者であります。そして、主イエスは、ラザロは、父アブラハムのもとへと連れて行かれると約束しておられるのであります。また、この譬えではラザロは、金持ちのところへ行くことは、深い淵によって不可能であると言われていますが、私どもは、この後起こる主イエスが十字架にかかることによって、この淵の上に、主イエスの十字架が橋渡しとなって、行き来きできるようになったことを知っております。命と死の間の橋渡しが可能になったのであります。
 今泣いているあなた方は幸いである。あなた方は笑うようになる。今満腹しているあなた方は災いである、あなた方は飢えるようになると主は言われました。 
すべての人が神の憐れみを必要としています。この世の財貨を、永遠の命を得るために、用いるようにと、主イエスは今も呼びかけておられます。
 マルティン・ルターは、その死の床で最後に残した言葉として、我々は、神の言葉に飢えた物乞いであるというのは真実だと言っています。死のかなたから聞こえる声に耳を澄ましながら、この世の財貨をいかに用いるべきかを、今一度考えつつ、まことの生き方を、ここから求めていきたいものであります。アーメン。


2016年9月23日金曜日

「希望に反して、希望の上に信じた信仰」(ローマ4:18-25)

ローマの信徒への手紙第418-25節、20160923、聖研・祈祷会

 ローマ418-25

 彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。だからまた、それが神の義だと認められたわけです。しかし、「それが神の義だと認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのではなく、わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。



メッセージ「希望に反して、希望の上に信じた信仰」(ローマ418-25

 アブラハムのたとえから、使徒パウロは、ローマ書第4章を展開している。今日はその最終回である。老アブラハムは希望が見いだせないところで、なお希望を抱いて、主なる神のみ言葉に信じゆだねている。信仰とは、希望が見いだせないところで、なお信じゆだねることである。
 アブラハムも、完全無欠名人間というわけではなかった。試練の連続であったとも言うことができよう。特にその最たるものとして、100歳にしてようやく与えられた一人子イサクを神にいけにえとして献げよとの命令を受けたことがあげられよう。
 老アブラハムは、ただ神の命じられる通りに、モリアの丘へと進んでいくのみであった。ルターが試練によってこそ、信仰は育てられると言っていることが、重ねられて、想起される。
 私たちの信仰は、老アブラハムの信仰を受け継ぐものである。望みなきにも拘わらず、なお望みを抱き、信じるのが、私どもキリスト者の信仰である。
 そして、この節の終わりにおいて、初めて、主イエスキリストが、不意に表われる。アブラハムの信仰は、私どもの、主イエス・キリストへの信仰と一つである。
 私どもは、イエス・キリストがおよそすべての主であることを告白するものである。主イエスは、私どもの間違った行い、背きにゆえに、引き渡されたのであり、そして、それにとどまらず、私たちが、神との関係が正しくされるために、起き上がらされた、すなわち、復活させられたのである。
 そして、私どもは、そのことを信じて、神に栄光を与えつつ、洗礼を受けて、生涯を歩み切る者とされているのである。これにまさる幸いはないと、使徒パウロはアブラハムのたとえのこの第4章を、凱歌をあげつつ終えているのである。キリスト者の幸いを、ここに私どもは、しかと見ることができるのである。

                          アーメン。

「希望に反して、希望の上に信じた信仰」(ローマ4:18-25)

ローマの信徒への手紙第418-25節、20160923、聖研・祈祷会

 ローマ418-25

 彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。だからまた、それが神の義だと認められたわけです。しかし、「それが神の義だと認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのではなく、わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。



メッセージ「希望に反して、希望の上に信じた信仰」(ローマ418-25

 アブラハムのたとえから、使徒パウロは、ローマ書第4章を展開している。今日はその最終回である。老アブラハムは希望が見いだせないところで、なお希望を抱いて、主なる神のみ言葉に信じゆだねている。信仰とは、希望が見いだせないところで、なお信じゆだねることである。
 アブラハムも、完全無欠名人間というわけではなかった。試練の連続であったとも言うことができよう。特にその最たるものとして、100歳にしてようやく与えられた一人子イサクを神にいけにえとして献げよとの命令を受けたことがあげられよう。
 老アブラハムは、ただ神の命じられる通りに、モリアの丘へと進んでいくのみであった。ルターが試練によってこそ、信仰は育てられると言っていることが、重ねられて、想起される。
 私たちの信仰は、老アブラハムの信仰を受け継ぐものである。望みなきにも拘わらず、なお望みを抱き、信じるのが、私どもキリスト者の信仰である。
 そして、この節の終わりにおいて、初めて、主イエスキリストが、不意に表われる。アブラハムの信仰は、私どもの、主イエス・キリストへの信仰と一つである。
 私どもは、イエス・キリストがおよそすべての主であることを告白するものである。主イエスは、私どもの間違った行い、背きにゆえに、引き渡されたのであり、そして、それにとどまらず、私たちが、神との関係が正しくされるために、起き上がらされた、すなわち、復活させられたのである。
 そして、私どもは、そのことを信じて、神に栄光を与えつつ、洗礼を受けて、生涯を歩み切る者とされているのである。これにまさる幸いはないと、使徒パウロはアブラハムのたとえのこの第4章を、凱歌をあげつつ終えているのである。キリスト者の幸いを、ここに私どもは、しかと見ることができるのである。

                          アーメン。

2016年9月20日火曜日

「お金をどう用いるか」(ルカ16:1~13)

ルカによる福音書第161-13節、2016918日(日)、聖霊降臨後第18主日(典礼色―緑―)、コヘレトの言葉第810-17節、テモテへの手紙一第21-7節、讃美唱113(詩編第1131-9節)

 ルカによる福音書第161節~13
 
 イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにいかない。』管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」


説教「お金をどう用いるか」(ルカ16113

先週の福音ルカ福音書第151節から10節では、主イエスはなぜ罪人たちと食事をし、彼らを歓迎するのかとつぶやくファリサイ派や律法学者たちに対して、主イエスがなさった物語で、滅びつつある者の一人でも取り戻せたならば、天におられる父なる神は何にもまさってお喜びになると、失われた1匹を捜し求める羊の持ち主や、見失った1ドラクメ銀貨を家中探し回る主婦の譬えを語られた記事でありました。
それに続いて、今日与えられた福音は、今度は弟子たちに向かっても語られた譬えであります。それは、一読すれば話の趣旨、筋道はだれにでもすぐ分かるものでありますが、必ずしも承服しがたい内容であって、色々な解釈がなされてきた物語でもあります。
ある金持ちに管理人がいて、その管理人が、不正に主人の財産をばら撒いていると主人に告げられたのであります。主人は、管理人を呼び出して、私があなたについて聞いているうわさは、何なのか、もう管理人の仕事をさせておくわけにはいかない、その管理についての計算書を出すようにと言いつけるのであります。
管理人は、どうしようかと自分に問い、そして、分かった、こうすればよいと考えあぐねた末、自分が職を奪われたとき、人々が自分を迎え入れてくれるようにすればよいのだ、と言って、動き出すのであります。そして、主人に借りのある人を次々に呼び出し、まず一人目から問いただすのであります。あなたは、主人にいくらの借りがあるのかと聞きますと、その借主はオリーブ油100バトスと答えます。管理人は、これがあなたの証文だ、これを受け取って、あなたは座って、すぐに、それを50バトスと書き換えなさいと指示します。次の人にも問いただすと、自分は100コロスの小麦を借りていますと答えましたので、ここにあなたの証文がある、あなたはこれを受け取り、座って80コロスと書き換えなさいと教えるのであります。
ところがこれを見たその主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめたというのであります。しかし、どうも、私どもの目にはそれには合点がいかないようにも思われます。それで、ある人たちは、この主人というのは、主イエスのことなので、主はこの管理人のがむしゃらは生存策をユーモアをこめて、慈しみの眼差しでほめておられるのだと解釈する説もあるのであります。
しかし、いずれにしても、不正そのものをほめているのではなく、色々な当時の事情もあったにせよ、彼の危機に迫った時の精一杯それを打開して生きようとする生き様に対して、ほめているのであります。
そして、主イエスは、この世の子らは、光の子らよりも、この世に対してはより賢く振舞っていると弟子たちに警告されるのであります。私たち、信仰を与えられ、洗礼を受けている主イエスの弟子たち、信仰者たちは、えてして、信仰を持っていない人々よりも、この世の生き方に対して、より思慮深く生きているとはいえない現実があると、主イエスは、自分に従って、すべてを捨てて、十字架に向かって、エルサレムへと旅をしている12弟子たち等に向かって語られるのであります。
そして、弟子たち、私たちに向かって、強調して言われるのです。あなた方は、不正の富を用いて、あなた方自身でもって、友達を作りなさい、そうすれば、金がなくなったとき、あるいは、ことが終わったとき、天に召された時、彼らがあなた方を、永遠の住まいに迎え入れてくれようと。
お金は、自分の力で稼いだものではなく、神から預かったものだというのが、聖書の考え方です。そして、この世の財貨は、自分のためだけに用いるものではなく、友達を作るために、すなわち、貧しい人を助けたり、隣人や弱い人、苦境にある人を手助けするためにも、用いるべきものだと主イエスも説いておられるのであります。
そして、今日の記事の後半部分のその後の格言的な言葉は、この譬えに併せて、あるいは後に、編集的に主イエスがどこかで語られた言葉をここに記したのだと考えられています。
他人のものに忠実でない者、不正である者に、だれが、あるいは神があなた方のもの、あるいは、真実に価値あるものを託すだろうか。ごく小さな事に忠実でない者は、大事なことにも忠実でない。
そして、どんな家の奴隷も、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎み、他方を愛し、一方に献身し、他方を低く評価するものだと主は言われます。神と富、マモンとに、あなた方は兼ね仕えることはできないと、主はここでも警告を発しておられます。
お金は、ある程度の余裕をもって、私たちは必要とするものであります。しかし、それを自分のためだけに用いるものではないのであります。周りの人を生かすためにも、用いるべきものであります。そして、永遠の住まいに迎え入れられるために用いるべきものであります。アーメン。





2016年9月15日木曜日

「終わりの日は、始めの日よりよい」(コヘレト7:1-14)

コヘレトの言葉第71節~14節、20160915、英語で聖書を読む会

コヘレトの言葉第71-14

名声は香油にまさる。
死ぬ日は生まれる日にまさる。
弔いの家に行くのは
酒宴の家に行くのにまさる。
そこには人皆の終わりがある。
命あるものよ、心せよ。
悩みは笑いにまさる。
顔が曇るにつれて心は安らぐ。
賢者の心は弔いの家に
愚者の心は快楽の家に。
賢者の叱責を聞くのは
愚者の賛美を聞くのにまさる。
愚者の笑いは鍋の下にはぜる柴の音。
これまた空しい。

賢者さえも、虐げられれば狂い
賄賂をもらえば理性を失う。
事の終わりは始めにまさる。
気位が高いよりも気が長いのがよい。
気短に怒るな。
怒りは愚者の胸に宿るもの。
昔のほうがよかったのはなぜだろうと言うな。
それは賢い問いではない。
知恵は遺産に劣らず良いもの。
日の光を見る者の役に立つ。
知恵の陰に宿れば銀の陰に宿る、というが
知っておくがよい
知恵はその持ち主に命を与える、と。
神の御業を見よ。
神が曲げたものを、誰が直しえようか。
順境には楽しめ、逆境にはこう考えよ
人が未来について無知であるようにと
神はこの両者を併せ造られた、と。

メッセージ「終わりの日は、始めの日よりよい」(コヘレト71-14

私たちの生の終わりの日、すなわち、死の時のほうが、始まりの日、この世に生を受けて生まれ出た日よりも良いとコヘレトは言う。なぜなら、死によって、その人のありようは確定し、以後移ろうことはなくなるが、誕生した者は、今後どのような経験をするのか予想もつかず、その子の紆余曲折は定まりようもないからだ言う。
愚かな、薄っぺらな笑いよりも、悲しみのほうが、その人をやがて元気付け、あるいは、より深みのある人間とすると言うが、なるほどと思わされる。順調と逆境とを、神は人に与えられるとも言い、それは、その後起こることを、その人が、知りえなくするためであると語る。知恵は、財産に優るともいう。
また、昔のほうが、現在よりよかったのはなぜだろうかと問うなと、戒めている。なぜなら、昔も、今も、将来も、同じことが繰り返されるに過ぎないと、コヘレトは、一見覚めた目で、現実を凝視しているのである。
喪の家に行くのは、歓楽・祝宴の家に赴くよりも、良いという。確かに葬儀場へと赴いて、帰途に着くときの私どもの心は、何か確実なものに包まれているようである。それに比べて、宴会の華やかさは、はかなく、浮かれていて、一種の空しさに襲われることが少なくないのではないか。
コヘレトの、これもまた空しい、つまらないという人間の営みに対する凝視は、しかし、私どもを、本当の生き方へと地味ではあるが、目を覚まさせ、招いてくれているのではないか。



「我らの滅びるのを喜ばない神」(ルカ15:1-10)

ルカによる福音書第151-10節、2016911日(日)、聖霊降臨後第17主日(典礼色―緑―)、出エジプト記第327-14節、テモテへの手紙一第112-17節、讃美唱51/2(詩編第5115-21節)

 ルカによる福音書第151節~10

 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで探し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」


説教「我らの滅びるのを喜ばない神」(ルカ151-10

  今日の福音は、ルカ福音書951節以下に収められていますので、時や場所は特に記されてはいませんが、エルサレムへの十字架の死を目指しての旅の途上で語られた主イエスの譬え話とされています。御自分の死をかけて語られたみ言葉と言えます。主が御自分の死を目指しながら、語られた最も記憶に残る物語の一つであります。
 私たちが、洗礼に至ったことを思い起こさせてくれる、よく分かる印象的な譬え話ではないでしょうか。あるいは、求道中の方にとっても、この二つの譬えは、この後の放蕩息子の譬えと言われるものと共に、十分訴えかけるものではないかと思います。
 あなた方のうちに100匹の羊を持っている人がいたとして、その1匹がいなくなれば、99匹を野に残して、それを見出すまで出て行くのではないか。そして、見つかったら、喜びながら肩に抱いて、家に戻り、友人たちや近所の者たちを呼び寄せて、「一緒に喜んでください。いなくなっていた羊を見つけましたので」と祝わないだろうかと、主は言われます。自分の無知や愚かさで、滅びつつあったものを、主イエスの父なる神は、どこまでも捜し求めて見出してくださるのです。御自分のものだからです。私共は、神の目に価高いと主は約束されているのです。
 また、主イエスは、もう一つの譬えを、続けて話されました。ある女の人が10ドラクメの銀貨をもっていて、1ドラクメを見失ったとする。その人は、火をともして、家中を明るくし、掃き続けて、見出すまでやめないのではないか。そして、もし見つかったら、女友達や近所の女たちを集めて、「一緒に喜んでください。私が見失っていた1ドラクメ銀貨を探し当てましたから」と言って喜ばないだろうかと。
 そして、主は言われます。よく言っておくが、神の天使たちの前には、このように、喜びが成ると。
 この譬えは、実は、徴税人や罪人たちをもてなし、食事を共にする主イエスに不平を鳴らしたファリサイ派や律法学者たちに向けて、語られたものでした。彼らは、主イエスが、律法を守れないけしからぬ者たちと食事まで共にするのが我慢がならなかったのです。
 主イエスは、しかし、この譬えを述べて、罪人たちも、自分を義とする者たちも、同様に、自分と一緒に喜ぶように、招いておられます。それが父なる神のご意志だからです。主は、「すべて労する者、重荷を負って苦しんでいる者は、私のところに来なさい、そうすれば休ませてあげよう」と私たち一人一人を招いてくださっています。罪人も、自分を義とする者も、へりくだって主のもとにやって来て、神の喜びを、自分たちも喜び合うようにと、今も招いておられます。私たちのだれひとりをも、滅びることを、天の父なる神は決して喜ばれない、愛と赦しの神様なのであります。自分と他人とを区別せず、共に主のもとに集められて喜び合い、祝い合う者とされていきたいものであります。アーメン。



2016年9月13日火曜日

―最近読んだ本からー「聖書の読み方」(加藤常昭著)


―最近読んだ本からー「聖書の読み方」(加藤常昭著)
    日本キリスト教団出版局(2007625日 新装25版発行1100円+税)


 加藤常昭先生が、初めて、牧師としての歩みの中で書かれた記念すべき書物である。時に、先生は、32歳の若さであるが、87歳の現在の加藤先生の基本姿勢は、変わっておられないことに驚きを感じる。
これは、先生が、5年間、最初の伝道地として、過ごした金沢市の若草教会時代に書かれたものである。
全国の女子高校生の集まりで、語られた、あるいは話し合われた内容が下地となっている。
聖書とはどのように読めばよいのかを、具体的に、山上の説教の「幸いなるかな、心の貧しき者は」などの七福の主イエスのみ言葉等、聖書の言葉を自在に引用されながら、展開していく。
そして、聖書を読み、理解していくうえで大切なことを、高校生たちの七福についての感想文や寄せられる疑問などから、共に考え、それを分析する形で、説いていかれる。聖書は、一人で読んでいても理解できるものではないことを、たとえば、作家太宰治の聖書との取り組みをあげて説いておられる。太宰は日本の優れた文学者であり、その才能を持って、晩年には4年もかけてマタイ福音書を読み込んだという。しかし、結局は、彼の文学者としての歩みは、自死に至ったのであった。
この著書の中で、加藤先生は、難しい注解書を取り出したり、ことさら、神学や教理を用いて、聖書を説き明かそうとしたりはされていない。
ただひたすら、求道者の身になって、一緒に聖書を深く味わい、聖書がよく分かるように、共同の学びや、教会に行って、礼拝の説教や、聖書研究会などに出席することを、勧めておられる。
しかし、初任地での伝道の中で、書かれた先生の初めての書物は、現在87歳を迎えられている先生の牧師としての深みと言おうか、神学と言ってもいいだろうが、それを既に備えられていると感心させられるのである。

この本は、求道中の人にふさわしい本ではないだろうか。それと共に、長らく信仰生活を経た人にも、聖書を理解する上で改めてよき案内役を務め得る本であると思う。加藤先生が、説教学に取り組みつつ、教会の牧師という第一線で、聖書を説いてやまずに来られた秘密を、この書において感じさせられる。

2016年9月10日土曜日

「割礼の意味は何なのか」(ローマ4:9-12)

ローマの信徒への手紙第49-12節、20160909、聖研・祈祷会

 ローマ49-12 

 では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のないものにも及びますか。わたしたちは言います。「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。更にまた、彼は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです。


メッセージ「割礼の意味は何なのか」(ローマ49-12

 アブラハムはその信仰が義と認められたと創世記第15章にある。そして、その後に、創世記第17章にその契約のしるしとして、アブラハムとその一族は割礼を受けたことが記されている。だから、アブラハムの受けた祝福は、無割礼のときのものであり、その幸いに、すべての人が、すなわち、キリスト以降の異邦人からでる改宗者たちも与ることができるのである。
 アブラハムももとは、偶像崇拝者であったとも記されている。しかし、そのアブラハムに、主なる神は、み言葉を与えられた。そして、アブラハムはそのみ言葉を絶対的に信じたのである。その後も、しかし、完全無欠な歩みではなかった。自分の妻サライに対して、エジプトのファラオの前では妹と言わせ、大きな罪を犯したとも言えよう。しかし、その非を認め、悔い改めて、その生涯は、主のみ声に従った歩みを続けたといえよう。
 それでは、割礼は無意味になったのか。割礼は、神の民イスラエルのしるしとなり、また、無割礼の者、キリスト以降のキリスト教への改宗者にとっても、割礼以前の者も、信仰によって義とされるという封印として、アブラハムは、割礼の父となったと、パウロは12節に記している。
 信仰によって、義とされる祝福、幸いは、割礼の者にも、無割礼の者にもあるのである。
 私たちの受ける洗礼は、キリストによる割礼とも言えようか。私たちはもはや、肉に受けるユダヤ人の割礼を要しなくなったが、恵みによる救いのしるしとして、聖霊により受ける、霊的な割礼とも言えるのではないか。その意味でユダヤ人が、アブラハム、イサク、ヤコブの神を神とし、その民として受け続けてきた割礼は、洗礼というキリストの割礼として、引き継がれたのではなかろうか。そしてまた、割礼は、律法を守ってこそ、意味があるとも聖書は記している。従って、信仰によって義とされるということも、律法をそれによって達成するということになるのであろう。アーメン。

 

2016年9月8日木曜日

「人の命は束の間である」(コヘレトの言葉第6章1節~12節)

コヘレトの言葉第61節~12節、20160908、英語で聖書を読む会

コヘレトの言葉第61-12

太陽の下に、次のような不幸があって、人間を大きく支配しているのをわたしは見た。ある人に神は富、財宝、名誉を与え、この人の望むところは何ひとつ欠けていなかった。しかし神は、彼がそれを自ら享受することを許されなかったので、他人がそれを得ることになった。これまた空しく、大いに不幸なことだ。
 人が百人の子を持ち、長寿を全うしたとする。
 しかし、長生きしながら、財産に満足もせず
 死んで葬儀もしてもらえなかったなら
 流産の子の方が幸運だとわたしは言おう。
 その子は空しく生まれ、闇の中に去り
 その名は闇に隠される。
 太陽の光を見ることも知ることもない。
 しかし、その子の方が安らかだ。
 たとえ、千年の長寿を二度繰り返したとしても、幸福ではなかったなら、何になろう。すべてのものは同じひとつの所に行くのだから。

人の労苦はすべて口のためだが
それでも食欲は満たされない。
賢者は愚者にまさる益を得ようか。
人生の歩き方を知っていることが
 貧しい人に何かの益になろうか。
 欲望が行きすぎるよりも
  目の前に見えているものが良い。
 これまた空しく、風を追うようなことだ。

これまでに存在したものは
 すべて、名前を与えられている。
 人間とは何ものなのかも知られている。
 自分より強いものを訴えることはできない。
 言葉が多ければ空しさも増すものだ。
 人間にとって、それは何になろう。
 短く空しい人生の日々を、影のように過ごす人間にとって、幸福とは何かを誰が知ろう。人間、その一生の後はどうなるのかを教えてくれるものは、太陽の下にはいない。

メッセージ「人の命は束の間である」(コヘレトの言葉第61節~12節)

コヘレトは、主イエス・キリストを知っているわけではないし、復活についても、まだ、彼の時代には聞かされていなかったようである。
先週に続いて、財貨や富やお金を求めるままに手に入れたが、それを別の人に受け取られ、自分は、それによって楽しむことを、神が与えなかった人の例を上げ、それは不幸なことであると、その人の生涯の理不尽を、コヘレトは嘆き、むしろ覚めた目で、見通している。
そして、たとえ、二千年生きても、不幸な生涯を送るよりは、死産のまま、名前も付けられず、闇の葬られた子の方が苦しみを知らず、安らかであり、まだましであると断ずるのである。
私たちは、多くのことを夢見、追い求めているが、人生はつかの間であり、それは、風を追うようなものだと語る。
そして、現在手に入れているもので満足するほうが、欲望に支配されるよりも良いと言う。人のあらゆる労苦は、口のためだと言い切り、自分の得たもので満足するのが幸いな生き方であると、人の人生を割り切っているのである。

確かに、欲望はきりがないし、私たちにできることは、限られている。それを見据えて、与えられた職業、労働に汗を流し、その得た給料で、喜んで、飲み食いし、生活するのが、神を知る者にとっても幸いな道なのであろう。