2016年8月30日火曜日

「神にお返しされる生き方」(ルカによる福音書14:7~14)

ルカによる福音書第147-14節、2016828日(日)、聖霊降臨後第15主日(典礼色―緑―)、エレミヤ書第922-23節、ヘブライ人への手紙第131-8節、讃美唱112(詩編第1121-10節)

 ルカによる福音書第147節~14

 イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」


説教「神にお返しされる生き方」(ルカによる福音書14714

今日のルカによる福音書の出来事、そして、そこでなさった主イエスのお言葉、それは、「譬え」として言われたとなっていますが、それらも、ルカは、第951節以下に位置づけていますので、エルサレムへの十字架に向かっての旅の途上で起こったことだとしているのであります。
今日の個所の少し前、第14章の1節以下を見ますと、主イエスは安息日にファリサイ派のある議員の家に食事に招かれて、水腫の人を癒したことが記されています。 
どこかのシナゴーグでの礼拝のあとに、一般には敵対関係にもあった、そして、主イエスを十字架へと追い込んでいった勢力の有力な一部であったファリサイ派の家に呼ばれての出来事であります。
十字架に向かっての主イエスの旅である途上のことでありますが、それでも、我々は日常生活を送らなければならない。日々の現実の中でどのように生きていけばいいのかを、主イエスは、御自分の死に向かって歩まれる中でも、弟子たちに、そして、従って行く群衆に対して、あるいは、その時々に出会った人々すべてに向けて、救いを説かれる。
そして、その語られる福音は今もなお、福音書を紐解く、あるいは、礼拝に集うすべての人に向かって、差し出されているのであります。
さて、そのようにして、主イエスと、おそらく12弟子たちは、ファリサイ派の人の食事会に招かれていた。大勢の人が、自分の名誉の席を求めて争っているのを、主イエスはすぐに察知されます。そして、言われるのです。「あなた方が婚宴に招かれたなら、末座に場所を取って就いておくようにと。」私どもも、友人や身内の披露宴に列席することがあります。最近では、そのような華やかな結婚式というものがあまりはやらなくなっているようでありますが、それでも似たような経験は他にも色々と、大なり小なり経験しますし、特に日本人は、そのようなときのふるまいについて敏感だと思います。
そのような時に、もし、あなたが上席にあえて横になり、場所を取っていて、自分を招いてくれた人が、自分よりももっと高貴な人が招かれていたら、あなたのところに来て言うだろう。「友よ、場所を、この人に与えてください、譲ってください」と。すると、あなたは、恥と共に、末席に移ることになる。むしろ、あなたは、そのような場合には、末席に就いていなさい。そうすれば、招いてくれた人が来て、逆に、「友よ、もっと上の席にどうぞ」と言われるだろう。そして、主イエスは、よく繰り返して言われたように、自分をより価値があるとする人は、低くされ、自分を低くする人は、高くされると、同席している人々に、特に弟子たちに諭されたのであります。
また、今度は、自分を呼んでくれたファリサイ派の人に向けても、言われました。あなたが、宴会、レセプションをしようとする場合には、あなたの友人や兄弟、身内、近くの金持ちを呼ばないようにしなさい。彼らは、またお返しに、同じように、あなたに対してお返しとして、支払うことであろうから。
むしろ、そのような席に招くべきなのは、貧しい人、体の不自由な人、足の悪い人、目の不自由な人を選びなさい、そうすれは、彼らは、経済的に、あるいは身体的のお礼の支払いをすることができないから、あなたは、終わりの日に、正しい人たちの起き上がりの日、復活の日に、お返しとして、神によって支払われるから、幸いであると。
主イエスは、私たちが公平無私の姿勢で慈悲を行うことを求めておられます。この方は、このあと、エルサレムで十字架に付けられ、罪なき神の子でありながら、死刑にされて、マルコによる福音書によれば、朝の9時に十字架に付けられ、昼の12時になるとぜんちが暗くなってそれが、午後3時まで続いたとあります。そして、ただ一言、その終わりの時に、「エロイ、エロイ、レマ・サバクタニ」、わが神よ、わが神よ、どうして私をお見捨てになったのですか」と大声をあげて、最後の息を吐き出されたと記されています。
このお方を見届けた、十字架の下にいて、この刑を執行した百人隊長は、この成り行きを見て、「まことにこの人は、神の子だった」とこの主イエスにおいて、神を見出すのであります。この人には罪はなかった、自分のこれまでの罪責ある生き方を180度変えさせ、神がおられると、この死を、否、命をまっとうされた主イエスを見届けた隊長はさとったのであります。私たちもその主イエスを知っております。そして、今日、主イエスが語られたように、神がお返しとして支払われる生き方をするようにと招かれているのであります。アーメン。



「神にお返しされる生き方」(ルカによる福音書14:7~14)

ルカによる福音書第147-14節、2016828日(日)、聖霊降臨後第15主日(典礼色―緑―)、エレミヤ書第922-23節、ヘブライ人への手紙第131-8節、讃美唱112(詩編第1121-10節)

 ルカによる福音書第147節~14

 イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」


説教「神にお返しされる生き方」(ルカによる福音書14714

今日のルカによる福音書の出来事、そして、そこでなさった主イエスのお言葉、それは、「譬え」として言われたとなっていますが、それらも、ルカは、第951節以下に位置づけていますので、エルサレムへの十字架に向かっての旅の途上で起こったことだとしているのであります。
今日の個所の少し前、第14章の1節以下を見ますと、主イエスは安息日にファリサイ派のある議員の家に食事に招かれて、水腫の人を癒したことが記されています。 
どこかのシナゴーグでの礼拝のあとに、一般には敵対関係にもあった、そして、主イエスを十字架へと追い込んでいった勢力の有力な一部であったファリサイ派の家に呼ばれての出来事であります。
十字架に向かっての主イエスの旅である途上のことでありますが、それでも、我々は日常生活を送らなければならない。日々の現実の中でどのように生きていけばいいのかを、主イエスは、御自分の死に向かって歩まれる中でも、弟子たちに、そして、従って行く群衆に対して、あるいは、その時々に出会った人々すべてに向けて、救いを説かれる。
そして、その語られる福音は今もなお、福音書を紐解く、あるいは、礼拝に集うすべての人に向かって、差し出されているのであります。
さて、そのようにして、主イエスと、おそらく12弟子たちは、ファリサイ派の人の食事会に招かれていた。大勢の人が、自分の名誉の席を求めて争っているのを、主イエスはすぐに察知されます。そして、言われるのです。「あなた方が婚宴に招かれたなら、末座に場所を取って就いておくようにと。」私どもも、友人や身内の披露宴に列席することがあります。最近では、そのような華やかな結婚式というものがあまりはやらなくなっているようでありますが、それでも似たような経験は他にも色々と、大なり小なり経験しますし、特に日本人は、そのようなときのふるまいについて敏感だと思います。
そのような時に、もし、あなたが上席にあえて横になり、場所を取っていて、自分を招いてくれた人が、自分よりももっと高貴な人が招かれていたら、あなたのところに来て言うだろう。「友よ、場所を、この人に与えてください、譲ってください」と。すると、あなたは、恥と共に、末席に移ることになる。むしろ、あなたは、そのような場合には、末席に就いていなさい。そうすれば、招いてくれた人が来て、逆に、「友よ、もっと上の席にどうぞ」と言われるだろう。そして、主イエスは、よく繰り返して言われたように、自分をより価値があるとする人は、低くされ、自分を低くする人は、高くされると、同席している人々に、特に弟子たちに諭されたのであります。
また、今度は、自分を呼んでくれたファリサイ派の人に向けても、言われました。あなたが、宴会、レセプションをしようとする場合には、あなたの友人や兄弟、身内、近くの金持ちを呼ばないようにしなさい。彼らは、またお返しに、同じように、あなたに対してお返しとして、支払うことであろうから。
むしろ、そのような席に招くべきなのは、貧しい人、体の不自由な人、足の悪い人、目の不自由な人を選びなさい、そうすれは、彼らは、経済的に、あるいは身体的のお礼の支払いをすることができないから、あなたは、終わりの日に、正しい人たちの起き上がりの日、復活の日に、お返しとして、神によって支払われるから、幸いであると。
主イエスは、私たちが公平無私の姿勢で慈悲を行うことを求めておられます。この方は、このあと、エルサレムで十字架に付けられ、罪なき神の子でありながら、死刑にされて、マルコによる福音書によれば、朝の9時に十字架に付けられ、昼の12時になるとぜんちが暗くなってそれが、午後3時まで続いたとあります。そして、ただ一言、その終わりの時に、「エロイ、エロイ、レマ・サバクタニ」、わが神よ、わが神よ、どうして私をお見捨てになったのですか」と大声をあげて、最後の息を吐き出されたと記されています。
このお方を見届けた、十字架の下にいて、この刑を執行した百人隊長は、この成り行きを見て、「まことにこの人は、神の子だった」とこの主イエスにおいて、神を見出すのであります。この人には罪はなかった、自分のこれまでの罪責ある生き方を180度変えさせ、神がおられると、この死を、否、命をまっとうされた主イエスを見届けた隊長はさとったのであります。私たちもその主イエスを知っております。そして、今日、主イエスが語られたように、神がお返しとして支払われる生き方をするようにと招かれているのであります。アーメン。



2016年8月27日土曜日

「共にいます神」(マルコ15:33-41)

マルコ15342016825日(木)鎌倉説教塾セミナーにて


マルコによる福音書第1533-41

 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。百人隊長が
イエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をした人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムに上って来た婦人たちが大勢いた。

説教「共にいます神」(マルコ1533-41

 私事で恐縮ですけれども、私の母が洗礼を受けまして、地元の教団の礼拝に通うようになり、午後の婦人会の聖書研究会のことであったでしょうか、その牧師さんに、今日の聖書の中に出てきます「わが神、わが神、どうしてあなたは、私をお見捨てになったのですか」という主イエスの十字架上の言葉に接して、疑問に思い質問したそうであります。
 その牧師先生は、この言葉については、これから一緒に考え、深めていきましょうと、受洗したばかりの母を思いやってくださって、そこで続いた10年ほどの礼拝生活を導いてくださったのであります。
 神の子でありながら、主イエスはどうしてこの言葉を御自分の生涯の最後に言われたのでしょうか。この言葉は、直接には詩編22編の最初に出てくるダビデに因む歌の言葉であります。叫び声ではありましたけれども、むしろ、主は祈りつつ、この歌は歌ったのであります。
 そして、最後に大声を上げて、息を引き取ったと、マルコは記しています。それを、見て、その十字架に向かい合っていた百人隊長は、「この人はまことに神の子であった」と言葉を吐いたのであります。この百人隊長が、それまでどのような人生を歩んできたのかは、分かりません。しかし、午前9時に十字架に付けられてから、正午に至ると全地が暗くなり、それが、午後3時に至るまで続き、その最後に主イエスは大声をあげて、最後の息をはいたというのであります。主イエスは、その間どうしておられたのでしょうか。それを、百人隊長はしっかり見届けたのであります。そして、初めて、そこに神を見出したのであります。
 これまでの自分の生き方を根底から変えられる神がおられるという現実を見て、驚き、変えられたのであります。「私は神がいるということは、聞いてはいた。」しかし、この人は、ローマ帝国下の刑を執行する勤めを帯びていましたが、ここに見た、十字架上の人はかつて見たことのないお方であった。私たちの罪のために、神であられた方が人となって、私どもの罪のために、神にすべてをゆだねて、最後まで祈り続けられ、はっきりした意識を持って大声をあげて、父なる神にゆだね、最後の息を吐き出されたのを見たのであります。
 これまでの自分の人生の生き方とは全く違う、罪責のない神の子を見出して、この告白の言葉を、異邦人であったこの役人がしかと目にしたのであります。
 私共の信仰の原点がここにあるといっていいでありましょう。神は、十字架の死という形を取って、その真実を表されたのであります。
 そして、それを遠くから見ていた女性たちがいた。マグダラのマリアやサロメなどであります。12弟子たちは既に逃げてだれもいませんでした。このガリラヤから、主に仕えてきた者たちが、この場面を見ており、そして、そのあと、墓に納められるのも、見届けて、三日後の復活を知らされるのであります。
 私共はもう絶望することはありません。どんなに悲嘆にくれるような出来事にあっても、この十字架上の主の言葉によって、すべての人は、闇ではなく光のうちに歩むことが許されている。そして、世界は変わったのであります。全聖書はこのことを告げているのであります。あなたも、私も、罪から、今日の主の言葉によって解かれて、慰めと共に歩むことができるのです。主イエスの慰めがあなた方と共にありますように。アーメン。














2016年8月17日水曜日

「キリストが日常の中に来られる時」(ルカ12:49-53)

ルカによる福音書第1249-53節、2016814日(日)、聖霊降臨後第13主日(典礼色―緑―)、エレミヤ書第2323-29節、ヘブライ人への手紙第121-13節、讃美唱82(詩編第821-8節)

 ルカによる福音書第1249節~53

 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。
 父は子と、子は父と、
 母は娘と、娘は母と、
 しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、
 対立して分かれる。」


説教「キリストが日常の中に来られる時」(ルカ1249-53

 ある施設に住んでいます女性の信徒の方を月に一度ほど、家内と共に聖餐式の用具を持って訪ねていますが、その人は、デイ・サービスで来られるという、半身不随になっている老人の男性の方が、その不自由な手で、しかしとても達筆に書かれている、その人が書いたという次のような文章を壁に貼ってあるのに私は気づきました。
    
  娘  嫁  姑

うちの娘がよその嫁
よその娘がうちの嫁
三千世界を尋ねても
死水取るのはうちの嫁
たとえ嫁が悪くても
かわいい息子の妻じゃもの
なんで小言が言えようか
おかげでおかげで暮らしましょう
たとえどんなじゃけんな姑でも
主人を育てた親じゃもの
なんで粗末にできようか
あつい情で暮らしましょう

さて、今日の主イエスの語られているみ言葉は、そのような私どもの日常生活の中に、主イエスが来られる時、どのような結果がもたらされるのかを告げておられるお言葉です。
今、私どもはお盆の時を迎えています。家庭の中で、キリストを信じていますときに、どのような変化が起こるのか。
今日のみ言葉は、既に洗礼を受けているキリストの弟子のみならず、主イエスの言葉を聞いている群衆や、今ここに集められていますすべての人に向けても、語りかけられている言葉であります。
主キリストを信じ、受け入れている人が、国民のごく一部である私ども、この日本の国において、そして家族の者が一年に集まりやすいこのお盆の時期に、今日のイエスの言葉は、私どもが今一度耳を傾けるのにふさわしいみ言葉であると思います。
しばらくご一緒に、今日の福音の言葉から聴いていきたいと思います。
ルカ福音書は、エルサレムへ向かう「旅空を歩むイエス」と、あるルカ福音書の概説書には副題が付けられています。
そして今日の個所も、天に上げられる日が近づいて、それを目指し、また、十字架を目指してエルサレムに向けて旅立ちをするルカ福音書第951節以下に入っています。そのしゅイエスに従う弟子たちに向けて、また同じその群衆に向けて、目を覚まして人の子の到来に備えるように、また、メシアが来ているその時の徴を見分けるように、また、その方と知ったならいち早く和解するようにという脈絡の中で、今日の主の言葉は記されています。
主は、こう強く宣言されているのです。
「火を地に向かって投ずるために、私は来た、そして、その火が既に燃え上がっていればと何と私は欲していることか。」
また、「しかし、洗礼を、浸されるべき洗礼を、私は持っている、そして、どんなにか、私はそれが完了される時まで、それに閉じ込められることか」と。
受けるべき、浸けられるべき洗礼とは、苦しみと死を指しています。大水をくぐるとは、旧約聖書でもしばしば出てくる表現です。そのような苦しみに浸させるのは、神のご意志です。それが神によって果たされ、成し遂げられるまで、主イエスはその支配下に置かれると弟子たちに、また、付いて来ている群衆に、告げておられるのであります。
そして、主イエスは、火を投ずるために、私は来たのだと、ご自分の使命を、ここではっきりと宣言しておられます。ここで言われている「火」とは、どういう「火」でしょうか。
火には、いろいろな働きがあります。まず、神の裁きを表すような火です。ロトの住んでいた町、ソドム、ゴモラを襲ったような火です。
また、今日のエレミヤ書にもあったように、精錬し、清める神の言葉、「私の言葉は焼き尽くす火ではないか」といった、あるいは、殻を燃やし、穀物は
倉に入れるという正邪、正しいものと、間違ったものを篩い分ける働きがあります。
あるいはまた、神の霊、聖霊の働きを表す場合があります。ここでは、あとの脈絡からは、裁きの火、ふるい分ける火、あるいはそのためにもたらされる闘争を表す火という意味でしょうか。
主イエスは、それに続けて、「あなた方は、私は、平和を与えるために到来していると思うのか、否、言っておくが、むしろ分裂を、である」と言われます。
なぜ、不和、不統一が、主イエスの現在によって、与えられるのかというと、主イエスを受け入れる人と、拒む人が起こされるからです。たしかに、主イエスの誕生によって、地の上に平和が、と天使たちによって合唱され、主イエスも、罪ある女性にも、あなたの信仰があなたを救った、平安のうちに出て行きなさいと言われます。
しかし、同時に、誕生の時から、「この子は多くの人を倒したり、立ち上がらせたりし、また、反対を受けるしるしとして、定められている」と、シメオンによっても予告されているのです。
そして、主イエスは、ミカ書の預言を引用して語られるのです。
「今から後、ある家に5人いれば、3人は2人に敵対し、2人は3人に敵対する一団として分けられてあるであろう」。
「息子は父に反対し、父も息子に反対する。娘は母に立ち向かい、姑は嫁に立ち向かって、敵対する一団としてわけられてあるだろう」と。男よりも女同士の関係のほうがより難しい関係として、言葉が選ばれています。
最初に取り上げたエピソードにあった一文は、期せずしてそれをよく表していると思います。
親しい家族の絆が、主イエスを受け入れる者と受け入れないものとの間で試されます。しかし、主イエスを受け入れる者たちには、通常の家族関係を超える、新しい主イエスと父なる神を中心として、共同体が生まれる。「私の父母、兄弟とはだれか。父の御心を行う者こそが、私の兄弟姉妹である」と主イエスは言われます。
主イエスによってもたらされる分裂・不和・不統一を通してこそ、真の家族関係、兄弟姉妹ももたらされるのではないでしょうか。
主イエスは、私が来たのは、あなた方が予想するように、平和を与えるためではなく、まず、この地上に、神を神としてあがめるために、衝突が起こり、分裂と不和から生ずる闘争の火が燃やされねばならないと言われます。
そして、そのために、主イエスは神のお定めになった洗礼を受け、苦い杯を飲みほされることになっているのです。そして、その闘いの後に、初めて、真の平和が訪れるのではないでしょうか。お祈りをいたします。

主イエス・キリストの父なる神さま。
このお盆という家族の絆を確かめ、身内の者と親しく交わりを与えられる時に、イエス・キリストが投じます火によって確かな信仰を今一度見極め、私どもの信仰の中心を見定める時としてください。
そして、死から命へと、全く新しい歩みをここから再び踏み出す時としてください。
キリストのみ名によって祈ります。アーメン。


2016年8月16日火曜日

「剣を打ち直して鋤とする日が来る」(ミカ書第4章1節~5節)

ヨハネによる福音書第159-12節、201687日(日)、平和主日(典礼色―赤―)、ミカ書第41-5節、エフェソの信徒への手紙第213-18節、讃美唱201(イザヤ書第22-5節)

 ミカ書第41節~5

終わりの日に
主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち
どの峰よりも高くそびえる。
もろもろの民は大河のようにそこに向かい
多くの国々が来て言う。
「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。
主はわたしたちに道を示される。
わたしたちはその道を歩もう」と。
主の教えはシオンから
御言葉はエルサレムから出る。
主は多くの民の争いを裁き
はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。

人はそれぞれ自分のぶどうの木の下
いちじくの木の下に座り
脅かすものは何もないと
万軍の主の口が語られた。
どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む。
我々は、とこしえに
我らの神、主の御名によって歩む。

説教「剣を打ち直して鋤とする日が来る」(ミカ書第41節~5節)

 毎年、私たち、日本福音ルーテル教会では、8月の第一日曜日の礼拝を平和を覚える主の日として、守っています。そして、毎年、毎年、同じ聖書日課、ペリコペーが読まれます。旧約聖書の日課は、ミカ書から、使徒書の日課は、エフェソ書から、福音書はヨハネ福音書から、それに加えて、まだ礼拝の中では朗読されていませんが、2017年の改革500年記念から作られようとしている新しい式文では、読まれることになる讃美唱としては、普通は詩編から選ばれる聖句が多いのですが、今日は、ミカ書の部分と殆ど重なるイザヤ書22節から5節が与えられています。
これは、毎週の主の日にも言えることですが、3年サイクルで読む聖書日課と同じように、毎年、平和の主日によむそれぞれの日課は、毎朝訪れる太陽のように、いくら読んでも新しく、私たちに命を与えるみ言葉であります。
イザヤ書とミカ書と、今日のほぼ同じ記事はどちらがオリジナルなのか、あるいは、それに近いものなのかなどと、今でも盛んに研究されているようです。
しかし、あえて、ミカ書の記事が、この日に読まれるのは、それだけ、私たちを感化し、行動へと促してくれる、深い内容となっているからであります。
今日のミカ書のすぐ前を読みますと、エルサレムの神殿は腐敗し、ユダの町々は不正と堕落がはびこっていたことが記されています。
しかし、今日の部分に入りますと、まったく新しい幻が、預言者ミカに与えられていることが分かります。
日々の終わりに、主の家の山は、堅くすえられ、どのまわりの峰峰よりも、聳え立ち、多くの国々の人が大河のように押し寄せ、流れ来たる。我々は、ヤコブの神の家へと登ろうと国々の多くの民が言うと言い、なぜなら、主の教え、律法と主の言葉は、シオンから出るからだと、彼らは知るのです。

そして、このヤハウェの神は多くの国々の争いをさばき、また、強く遠い国々をも戒めるとあります。これは、聖書の唯一の主なる神が、全世界の民を裁決し、あるいは調停するという意味です。そして、人々は彼らの剣を打ち直して鋤とし、その槍を撃ち変えて摘み取り釜とする。もはや、国は国に向かって剣をあげず、人々はもはや戦闘することを習わない。人はおのおのそのぶどうの木、いちじくの木の下に座って、彼は何ものをも恐れない。そして、これは万軍の主が語ったことであると言い、最後に、すべての国の民はおのおのその自分の神の名によって歩んでいるが、私どもは、主なる神の名において、とこしえからとこしえまで歩むとの強い決意で、今日のこのペリコペーは終わっているのです。終わりの日にとありますが、ルターは、これは、我らの主イエス・キリストの到来によって、実現したと言っています。しかし、私どもはいまだに世界平和、軍備の撤退を目にしていません。世界はますます混沌とし、混迷の一途を辿っているかに見えます。しかし、聖書を通してまことの唯一の神を知り、そのみ神のみ名によって、又主イエス・キリストのみ名によって、とこしえまで歩みます。身近な家庭から、あるいは地域で、私たちの社会の中で、罪と戦い、愛を全うして、生涯の終わりまで主に従いたいものです。アーメン。

2016年8月4日木曜日

「助けはいずかたより 来たるか」(哀歌第3章21節-33節)

説教「助けはいずかたより 来たるか」(哀歌第321-33節)
                    飯田教会牧師 渡辺賢次
 哀歌第321節から33節までが、今日のみ言葉として与えられています。21節は、「再び心を励まし、なお待ち望む」と新共同訳聖書ではつながりの分かりにくい出だしとなっていますが、直訳すると「このことを私の心に向かって思い起こし、私はなお待ち望む」となります。このこととは、前節を受けて、さらに19節からの「苦汁と欠乏の中で貧しくさすらったときのことを、決して忘れず、覚えているからこそ、わたしの魂は沈み込んでいても、」となりますが、すぐれた旧約学者の左近淑先生は、この「わたしの魂」というのは、神ご自身を指し、神がそのご自分の魂を沈み込ませるほどに、忘れず、覚えていて下さるから、と理解しておられます。
 「哀歌」という旧約聖書の1巻であるこの書物は、何年か前に、カトリックの作家の曽野綾子さんによって同じ題名の小説が毎日新聞に連載されましたが、そこではアフリカのフツ族とツチ族でしたか、ケニアかどこかの内紛に巻き込まれた日本のシスターを主人公とする物語になっていました。
 哀歌第3章は、哀歌のほかの部分以上に時代背景や、ここの嘆きの歌を歌っている詩人がだれなのかなど、多くの問題を抱えているようです。この記事は直接、紀元前587年のバビロン捕囚の時の出来事を歌ったものではないようです。第3章の始めを見ますと、私は神によって打たれた者であるといった言葉が目に付きます。自分の罪のために、神が敵となって、自分を襲い、苦しめているのだと嘆いています。これは、イスラエルの体験であると同時に、神の前に罪を犯した人間の深い苦悩と嘆き、没落であると共に、それをあざ笑う敵どもへも同じような苦しい目に会わせて下さいとのこの詩人の思いをそのまま、神に訴えるものとなっています。しかし、そのような中で、この詩人は、人は若い時にくびきを担うのは良いことである等と歌い、人は塵の中に口をつけよ、そうすれば、あるいは望みがあるかも知れないからと目覚めていきます。そして、神が私たちに悩みを与え、苦しみを与えても、それは、み心からではないからと歌い、神からこそ助けが来ることを、信じ告白するに至っています。

 神の前に、よりすぐれた方の前に、屈辱と服従の姿勢をとるだけでなく、自分が心から崩れ、心折れていくときに、助けが恵みとしてやって来るのであります。この詩人は、自ら味わった悲痛な体験を通して、やがて来たるべき十字架のメシア、イエス・キリストを既に仰いでいたのではないでしょうか。バビロン捕囚という出来事は、歴史的事実として起こった悲惨な出来事でありました。しかし、そのような不条理とも思える歴史・闇・現実を通して、後に来たるべき我らの主に、この詩人は既に出会っていたのであります。アーメン。

2016年8月1日月曜日

「天の父に要求しなさい」(ルカ11:1-13)

ルカ福音書第111-13節、2016731日(日)、聖霊降臨後第11主日(典礼色―緑―)創世記第1816-33節、コロサイの信徒への手紙第26-15節、讃美唱138(詩編第1381-8節)

 ルカによる福音書第111節~13

イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう祈りなさい。
『父よ、
御名が崇められますように。
御国が来ますように。
わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
わたしたちの罪を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を
皆赦しますから。
わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中に
その人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何かを与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探すものは見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりw派耐える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」


説教「天の父に要求しなさい」(ルカ111-13

 先週の必要なものは唯一つ、み言葉に聞き入ることであるとのペリコペーに続いての個所が、今日の福音として与えられています。信仰を与えられた私たちが、では、どのように祈っていけばいいのかが、今日の個所に記されております。
1朗読の創世記も、先週の個所に引き続いての記事で、二人の旅人を、天使とは知らないで心尽くしでもてなしたアブラハムに、今度は主なる神が現れて、実はロトの住んでいる町、ソドム、ゴモラを、その罪の大きさの故に滅ぼそうとしていることが示されます。それに対して、アブラハムが懸命に食い下がり、ソドムの町を救うためにとりなしの祈りをして、神に心を変えて下さるように願う。これも、神に対する祈りというよりも要求する姿を表しています。
私たちは、そのような強い祈りをしているのでしょうか。第2朗読の、これもほぼ通読されているコロサイ書の記事は、救われた我々が、主イエス・キリストにつながり、ふさわしい歩みをするように、その恵みがいかに大きなものかを諭し、キリストの割礼を受け、キリストと共に、十字架の死を死んで、洗礼を受けたものとして、世の偽りの哲学やこの世の空しい霊に迷わされることなく生きるように、私たちに奨めています。
まだ、礼拝の中では朗読されていませんが、今日の讃美唱、詩編138編も、主なる神に向かって、私をその力によって、どんなときにも敵から救い出し、命ある限り、支え導いてくれるようにとの強い祈りの言葉から成っています。

さて、今日の福音は、まさに、み言葉によって救われている私たちが、では、日常の中でどのように祈っていけばよいのかを教えている個所と言えましょう。ある人は、この個所を祈りの学校と呼んでいます。主イエスは、とにかく祈る人であったことを、特にルカは、ことごとに伝えています。今日の個所でも、先週のマルタ、マリアの記事に、そのまま引き続いて、そして、起こったことには、彼は祈っておられ、それをやめられたときに、弟子たちが、私たちにも、ヨハネのように、祈ることを教えてくださいと願い求めたことから、今日の記事は始まっています。
主は、それに対して、このように祈りなさいと教え始めたのです。父よ、み名が、聖とされますように、み国が来ますように、と。ルカによる主の祈りがここに記されています。
マタイに比べて、短く、より直接的で、父なる神に向かって、幼子のように、ただ単に、父よ、アバ、お父ちゃんと呼びかけ、祈り出すのです。言葉をしゃべり始めたばかりの子供が、父に、母に呼びかけるように、いきなり「お父ちゃん」と神と顔を合わせて語るかのように祈り始める。そして、先ず何よりも先に、み名があがめられますように祈れと主は言われます。これは、だれがそうするのかといえば、神ご自身とも考えられますし、我々地上に生きる信仰者たちによってとも考えられます。主のみ名が崇敬されることが、祈りの、そして私たち人間によってなされるべき最大の、そして第1の目的であります。
そして、次に、み国が来ますように、祈れと言われます。神の国が来るように祈る。これは、主イエスが初めて言い出されたことであります。旧約聖書でも、主の日が来るとか、主、ヤハウェが来られるとか、あるいは、主なる神が王となっておいでになるとか約束されていました。しかし、それに対して、主イエスは神の国、み国が一日も早く来ますようにと我々が日々祈るようにお求めになる。
続いて、パンを、私たちに、その日のそれを、日に従って与えてくださいと祈るように言われます。マタイ福音書の主の祈りの個所では、「我らに、日ごとの糧を今日も与えたまえ」とありますが、ここでは、いささか意味が難しくございます。私どもの新共同訳聖書では、私たちに必要なパンを、毎日お与えください」となっています。必要なパンなのか、今日の一日分のパンなのか、それは、文字通り物質的なパンなのか、霊的な意味での聖餐のパンなのか、十分に分からない、他のところでは殆ど使われていないことが含まれている。
しかし、ルカの神学から言えば、やはり生存を支えるその日一日分の生活の糧、パンそのものを、日ごとに、今日も明日も毎日与えてくださいとの強い呼びかけでありあす。
次に、私どもの罪どもをお赦しください、私どももまた、私どもに借りのある人を皆、赦しますからとあります。今、あなたのみ前で赦しますからという強い祈りであります。そして、最後に、私どもを試みに運び入れないで下さいとなっています。新共同訳では、マタイも、ルカも、誘惑に遭わせないでとありますが、父なる神は私たちを誘惑なさることはありません。せっかく、まことの神、主の十字架の死と復活による救いに与っている私どもを、信仰を捨てるような試練に遭わせないでくれるように祈れと言われるのであります。
それに続いて、主は、ある意味での譬え話をなさっておられる。これは、賀川豊彦牧師は、主イエスが実際に体験したことに基づいているのではないかと言っている物語であります。あなた方のうちである人が、友人を持っていたとする。ところがその人に深夜、別の友人が旅から着いたが、出すべきパンが残っていない。それで、その人は友人を訪ねて、パンを3つ貸してくれるように頼む。しかし、その友人は、中から、私を煩わさないでくれ、もう戸は閉めたし、子供たちも同じ床に入って寝入っている。あなたに起きてパンを貸すことはできないと答える。
しかしそこで、主は、私はあなた方に言っておくが、友人だからということでは断られるが、彼の厚かましさの故に、起き上がって、彼が求めるだけの分を出してくれるだろうと語られるのであります。これは、だれの「厚かましさ」の故なのか良く分からない言葉です。しかし、ここではむしろ、その家の中にいる人が、自分の恥への恐れから、起き出して友人の言うとおりにしてくれざるをえないと取ることが良く意味が分かるように思います。この寝ていた友人は、神さまをたとえているのかも知れません。友情というレベルではわざわざそうしないが、自分の面子がつぶれるのではかなわないからそうする、神さまもそうだと言われるのです。
そして、そこにあの有名な、「求めなさい、そうすれば与えられる。なぜなら、すべて求める者は与えられるからだ」などという主イエスの言われた言葉が来るのです。ここでは、求めなさいと訳されていますが、実際には要求しなさいという意味の強い言葉が使われている。今日の主イエスの祈り方は、いづれもあなた方は、天の父にあなた方の願いをそのまま強く「要求しなさい」というものであります。
そして、あなた方のうちで、息子が魚を求めるのに蛇をやる父親がいるだろうか、たまごを欲しがっているのに、さそりを渡す父がいるだろうか、と言われ、それゆえ、あなた方は悪い者でありながら、その子供たちには、見事な贈物を与えることを知っているのなら、ましてなおさら、父は、天からあなた方に聖霊を、その要求する者に与えてくださるとの強い約束、保障の言葉で、主イエスの祈りの学校と呼ばれる今日の部分は終わっています。
私どもも、主イエスのお言葉を信じて、幼子が親に願うように直接に、祈りが聞かれると信じて、要求する祈りを、もう一度、今日から願い求めていきたい。
お祈りをいたします。

天の父なる神さま。
私ども、倦怠期に陥りやすい信仰者の群れを、あなたのみ子主イエスの教えられたとおりに、幼子のようになって、あなたに向かって疑わずまっすぐに祈り求める者になさせてください。そしてそこから、聖霊を与えられるという無上の体験をして、愛の不足を補っていく者となさせてください。そして、この夏休みの時期を、ありのままで、しかし、み言葉に励まされつつ、精一杯、家庭で、職場で、また日常で出会うすべての人々に対して証ししていく者と成らせてください。キリストのみ名によって祈ります。