2016年7月30日土曜日

「律法は廃棄されない」(ローマ3:27-31)

ローマの信徒への手紙第327-31節、20160729、聖研・祈祷会

 ローマ327-31 

では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。


メッセージ「律法は廃棄されない」(ローマ327-31

パウロは、今日の説き明かしにおいて、信仰による義という主張をより明瞭にしていく。キリストの死によって、無代価で、一方的に、神からの贈物として私たち全人類の罪は赦されている。私たちはそのことを信じることだけで、救われる、神はそれだけで、私たちのありのままの状態で、弁明してくださるというのである。
 では、かの誇り、自慢するということは、どの場所にありうるのだろうか。もはや、それは閉じ込められ、締め出されているというのである。
 私たちは、自分の行いを自慢するものである。それができなくなると、絶望してしまうのである。その浅はかな繰り返しの中に、信仰生活がなかなか進展しない現実に悩まされている。
 ところが、パウロは、「かの誇り、自慢すること」は、もはや締め出されていると言い切るのである。
 そして、私たちは、律法の行いによるのではなく、信仰の法則によって、私たちが義とされる。そのままで、キリストの十字架の死という贈り物によって、私たちは弁明されているというのである。
 信仰による義ということ、信仰のみによって、唯一の造り主である神の側から、既に弁明されているというのである。
 それなのになぜ、そこからはみ出て、罪を犯すことを繰り返してしまうのだろうか。それはまだ、信仰という法則、信仰という律法に生きているからだと、パウロは言おうとしているのだろうか。日ごとに、罪に死んで、信仰、既に救いを成し遂げ、弁明してくださった神にゆだねきって生きていくしかないのであるが。
  パウロは、割礼の民、ユダヤ人にも、無割礼のわれわれ異邦人たちにも、同じ唯一の神がおられ、信じるすべての者に、信仰の法則、これらはいずれも、信仰の律法という同じ言葉が当てられているのだが、神の選ばれた民として自慢することはできないし、異邦人であった私たちも、自慢することは、一切、追い出されているという。
 しかし、キリストを誇り、主を誇ることは否定していないし、自分の弱さを誇るとは、なお言っているのである。
 そして、最後に、それなら、律法は無用となったのかと、再び問い、そんなことは決して成ってはならないと断言する。むしろ、信仰という法則(律法と同じ言葉)によって、律法を擁護し、支持することになるのだと言うのである。この辺に、信仰生活の奥義と言おうか、秘密が隠されているのであろうか。信仰のみによって、既に救われているのであるが、その私が日々どのように生きていけばよいのか、パウロはその鍵となる事情を、この辺りに、示してくれているように思われるのである。アーメン。










2016年7月28日木曜日

「まことのおもてなし」(ルカ10:38-42)

ルカ福音書1038-4220130724、聖霊降臨後第10主日(典礼色―緑―)、創世記18114、コロサイの信徒への手紙121-29、讃美唱15151-5

ルカによる福音書1038-42
 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」


説教「まことのおもてなし」(ルカ1038-42

 今日の第1朗読は、アブラムが多くの民の父となるとの約束を受けた、アブラハムと名乗るようにと示された後に、期せずして見知らぬ旅人をもてなし、それが3人の天使たちであって、この心からのもてなしを通して、来年の今頃、サラは男の子を与えられているだろうとの祝福を受けることになったというエピソードが記されています。
 第2朗読のコロサイ書は、使徒パウロが、福音の宣教、み言葉の奉仕者として、異邦人世界に遣わされて行くていく次第が述べられています。
 さらに、讃美唱の詩編15編は、主をまことに畏れる人こそ、神の住まいに住むことができると歌い、彼は、人を中傷したりすることのない人であるとみ言葉に生きる人の幸いを歌っています。
 さて、今日のルカ1038-42は、先週の憐れみ深いサマリア人の譬えに続いて記されているエピソードであり、主の出来事、み言葉から成っています。主イエスのエルサレムへの旅の途上での出来事でありますが、これは、ヨハネ福音書の第11章のベタニアでのラザロの復活に関わるマルタとマリアと同一人物であると考えられます。
 ヨハネ福音書では、より複雑な展開となっていますが、今日のマルタとマリアは、その両人物の輪郭がよりはっきりと、簡潔に記されています。
 先週の律法の専門家が永遠の命を受け継ぐには、何をすればいいのでしょうかとの問いかけに対して、主なる神を全身全霊で愛し、また、隣人をも自分自身の如くに愛するようにとの律法の根源に対して、主は「あるサマリア人」の譬えをなさって、隣人に仕えることを教えられましたが、今日の個所では、ある村へと、主はお入りになり、ある女の人でマルタ、女主人と言う意味の名前の姉と、妹のマリアによって迎え入れられます。これは、もてなすと言う意味の言葉であります。
 マルタは、女主人の名にふさわしく、主と一行の弟子たちの食事の世話や、多くのことに心を逸らされ、中心から、周辺へと気が散らされてしまいます。
 ところが、マリアは、主の足元に座って、主のお言葉に聞き入っています。それに、耐えられなくなったマルタは、急にそばに立って、主に苦言を呈します。主よ、私にだけ奉仕をさせて、何ともお思いになりませんか、私のところに来て助けるように言ってやってくださいと。
 しかし、ここで、主イエスがむしろ、み言葉の奉仕を通して、私たちに仕えて下さっています。マリアはそのみ言葉に聞き入ることを通して、癒され、夢中となって、離れられないでいたでしょう。主イエスのみ言葉の奉仕を受けることこそ、「まことのおもてなし」であったのです。
 マルタは多くのごちそうの皿を用意していたことでしょう。しかし、主イエスは言われます。マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことで心を悩まし、気を散らしている。マリアは、沢山のお皿のごちそうではないが、よい皿を選んでいる。必要なただ一つのものがある。彼女からその分、分け前、良い皿は取り去られないであろうと。
 私たちが、主なる神を全身全霊で愛するとは、み言葉に聞き入ることであることを、今日の物語は教えてくれています。そこで、初めて私どもの魂は癒され、そこから初めて、憐れみ深いサマリア人のように、隣人にも仕えて行く者に、私どもは変えられて行くのであります。主のみ言葉に聞き入ることが中心でなくなれば、私たちの心は乱れ、健やかな信仰生活を歩むことはできないのであります。当時の男中心のユダヤ教の時代の中で、主イエスの福音がどんなに新しく、造り変え、女性であったマリアが、その後の教会のお手本の弟子として受け継がれていったかが、見て取れるのであります。今日のマリアと共に、私たちの信仰の旅路へと励まされて、新しい1週間へと押し出されていきましょう。
                             アーメン。





2016年7月18日月曜日

「み言葉に生きるとは?」(ルカ10:25-37)

ルカによる福音書第1025-37節、2016717日(日)、聖霊降臨後第9主日(典礼色―緑―)申命記第301-14節、コロサイの信徒への手紙第11-14節、讃美唱25(詩編第251-9節)

 ルカによる福音書第1025節~37

 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしているあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯して、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」


 説教「み言葉に生きるとは?」(ルカ1025-37

 今日の個所には、私たちの新共同訳聖書を見ると、「良いサマリア人」と小見出しがつけられています。しかし、内容を一読しますと、最初には、ある律法の専門家が、主イエスに向かって立ち上がり、「先生、永遠の命を受け継ぐには、私は何をすればいいのでしょうか」と質問し、しかもそれは、イエスを試みようとしてなされたものであったことが記されています。
それに対して、主は、律法に何と書かれているか、あなたはそれをどう読んでいるかと逆に問い返しています。律法とは、私たちの今読んでいます旧約聖書全体のことといっていいでしょう。それについては、当時色々と議論がなされていましたが、この律法の専門家は、要約して見せ、「主なる神を全身全霊で愛しなさい、また、あなたの隣人をあなた自身の如くに愛しなさい」と唱えていると答えます。主は、それを認め、あなたもそれを行ないなさい、そうすれば、永遠の命に生きることができようと答えを与えておられます。
ところが、この律法の専門家は、それで引き下がらず、「では、あなたの隣人とはだれのことですか」と主に問い返すのです。それは、自分を正当化しようとしてなされたものであったとルカは記しています。それは、自分を義なる者としようとしてという意味です。
私たちも、自分を正当化しようとして、私どもが愛さなければならない隣人を限定しようとする者であります。誰も彼をも自分の如くに愛し、尽くしていくことはできない。自分も疲れており、電車に乗っても、苦しい時には席を譲る気にはなれない。だから、自分よりももっと年取った人とか、障害者の人とか、お産前のお母さんが小さな子供連れであるとか、自分よりももっと苦しそうな人がいれば仕方がないが、自分が疲れているときには、元気な若者たちには席を譲ってもらいたくなる。
そのように、この律法学者も、愛すべき相手を一定の範囲に限りたかったのでしょう。それに対して、主がなさったのが、いわゆる「良いサマリア人」として有名な今日の部分の後半の譬え話であります。今日の部分に続く来週読まれるエピソードでは、ある村に一行は入り、そこでマルタとマリアに出会う。主と弟子たちの給仕に追われるマルタが、主イエスのみ言葉に聞き入る姉妹のマリアに我慢ができなくなって、何か言ってやって私を手伝うように注意してくださいと、小言を言うと主が必要なものは一つである、マリアはそれを選んだ、それを彼女から取り去ってはならないと主が言われるという実に短いが美しいエピソードが、来週の福音として読まれます。それは今日の永遠の命を受け継ぐためには、主なる神を全身全霊であなたは愛しなければならないという、聖書のもう一つの教えを指し示すものとして置かれている。
さて、主は、隣人とは誰かとの問い返しに対して、「良いサマリア人の譬え」として有名な譬えをここでなさっていますが、これはむしろ、良いサマリア人、もっと正確に言えば、憐れみ深いサマリア人によって助かったある人の譬え話というべきでしょう。そのある人は、エルサレムからエリコに下る危険な場所で、追いはぎ、強盗に出会い、半死半生となる。そのあとに、そこへ時をほぼ同じくしてたまたま、ある祭司が同じ道を通りかかる。しかし、彼は自分も同じ危害に遭うことを避けるかのように、その人を目にしたが、反対側を通って、自分の住んでいた町であったのかエリコへと道を急ぐのであります。
同じようにまた、レビ人も、やって来たが、目にすると反対側を通過してしまうのであります。
ところが、そこにあるサマリア人が、旅の途中で通りかかる。先週の個所で、主イエスの一行を歓迎しなかったサマリア人の村の人々のことが出てきた、その当時犬猿の仲であったサマリア人の一人がここに登場するのであります。
ところが彼は、その瀕死の人を認めると、憐れに思い、近づいて来て、手持ちのぶどう酒とオリーブ油を用いて、手当てをし、腰に巻いていた手拭か何かで包帯をし、自分のろばに乗せ、ある宿屋まで連れて行って介抱するのであります。この、憐れに思って、近づき、介抱するという表現は、主イエスか、父なる神に対してしか使われていない言葉であります。はらわたがちぎれそうになるという表現は、私どもについてではなく、私どもに対する神の思いを表現するためにしか使われない言葉なのです。
ですから、今日の主イエスのなさった譬えの主人公は、この憐れみに満ちたサマリア人というよりもむしろ、その憐れみを受ける犠牲者となった、瀕死の状態で見出されたある人と言えましょう。それはむしろ、神に、主イエスに見出された私どもの物語、譬え話であるとも言えましょう。
主はこの譬えを語られた後、律法学者に再度尋ねます。この三人のうちでだれが、この瀕死の犠牲となった人の隣人となったと思うかと。彼は、その人に憐れみを行った人ですと答えています。それに対して、主は、あなたはここから出て行きなさい、そして同じように行いなさいと告げられるのです。
隣人とは誰かと枠を決めて、愛すべき相手を限定していくのではなく、助けを必要としている人に、できる限りの憐れみのふるまいを行っていく。ちょうど、このサマリア人が旅を続けて、2デナリオン、当時の2週間分くらいの宿賃と介抱してもらう代金を宿屋の管理人に渡して旅を続け、もし余分にかかったら帰りがけにその分は私が支払いましょう
と軽やかに出て行ったように、私どももみ言葉に生きることができるのであります。
 それぞれの生活の中で、私どももまた、主イエスによって憐れみを受け、洗礼に与った者として、分に応じたさわやかな生き方へと再びここから押し出されていきましょう。
 アーメン。










2016年7月15日金曜日

「礼拝への正しい姿勢とこの世における搾取の現実」(コヘレト4:17-5:8)

コヘレトの言葉第417-58節(9節)、20160714、英語で聖書を読む会

 コヘレトの言葉41758

神殿に通う足を慎むがよい。
悪いことをしても自覚しないような愚か者は
供え物をするよりも、聞き従う方がよい。

焦って口を開き、心せいて
神の前に言葉を出そうとするな。
神は天にいまし、あなたは地上にいる。
言葉数を少なくせよ。
夢を見るのは悩みごとが多いから。
愚者の声と知れるのは口数が多いから。
神に願をかけたら
誓いを果たすのを遅らせてはならない。
愚か者は神に喜ばれない。
願をかけたら、誓いを果たせ。
願をかけておきながら誓いを果たさないなら
願をかけないほうがよい。
口が身を滅ぼすことにならないように。
使者に「あれは間違いでした」などと言うな。
神はその声を聞いて怒り
あなたの手の業を滅ぼされるであろう。
夢や空想が多いと饒舌になる。
神を畏れ敬え。

貧しい人が虐げられていることや、不正な裁き、
正義の欠如などがこの国にあるのを見ても、驚くな。
なぜなら
 身分の高い者が、身分の高い者をかばい
 更に身分の高い者が両者をかばうのだから。
何にもまして国にとって益となるのは
王が耕地を大切にすること。


メッセージ「礼拝への正しい姿勢とこの世における搾取の現実」(コヘレト417-58

コヘレトは、当時の神殿での犠牲や、さらに広げて言えば、私たちの現在の礼拝におけるあるべき姿勢について、ここで凝視していると言えよう。さらに、それに続く、最終部では、世の中に不正があり、高い地位にある者たちが、低い地位にある者たちを搾取し、貧しい者たちが、それによって苦しんでいる、変わることのない世の現実をさめた目で見ているのである。
 旧約聖書の中でも、イザヤなどの預言者は、多くの犠牲を、神のみ心も知らないで、献げる者どもを批判し、必要なのは、神の慈しみを知り、神のみ声、み言葉に聞くことであることを、繰り返し主張している。
神の家に行くことには、十分に慎重であるようにと、コヘレトも警告を発している。私たち、現代の教会に礼拝に通うことについても、ただいたずらに足を向けるだけに陥っていないか、吟味する必要があるのではないか。畏れをもって、主のみ言葉に耳を傾け、聖餐や洗礼という恵みの手段についても、心新たに、主イエスの肉と血にあずかることが求められているのではないか。
続く誓願を立てることについても軽々しく、神に誓いを立てることを戒めている。誓いを立てたら、ぐずぐずしないで、それを果たすように、コヘレトは警鐘を鳴らしている。
新約の時代になると、主イエスは一切誓いを立てることを禁じるまでに至っている。ただ、実際には、使徒パウロも、その伝道の途上で、誓いを立て、剃髪などをしたことが、使徒言行録には記されており、後には、マルティン・ルターも修道士になろうと決心し、修道誓願を、当時のローマ・カトリック教会の制度・慣習の中であったとはいえ、立てている。
私たちも、自分の生活の中で、誓いを立てて、それをすみやかに果たしていくという姿勢が必要な場面もあるのではないか。
コヘレトは、当時のユダヤ人たちの願を、神殿で、祭司の前で立てる場面で、神に向かって、それを精一杯果たすように、当時の形骸化していた祭儀を内面化し、確かな実をもたらすものに、回復しようとして批判しているのではないか。
最後に、コヘレトは、国の中で、あるいは、属州としてのユダヤの国においても悪政がはびこり、貧しい者たちが虐げられている現実に目を向ける。高い者たちが、民衆を虐げているが、その高い身分の者たちを、更に高い無分の者たちがかばっているという。むしろ、かばっているとうよりは、監視しているとも訳せる言葉である。人類の歴史も、その時代から2000年以上も続いているが、今の世界も、日本も、民主主義の社会とは言うものの、実際に力ある者が、力の劣った者たちを酷使するという社会の構造は、基本的には人類の歩みと共に繰り返されている現実だといえよう。

そこで、コヘレトは、最後に、その国の王が、その土地が耕されている、そのような姿が、一番幸いであるとも訳される理解も難しい、不思議な文章を残している。地から実りを生み出す農民たちを持っている王の国こそ、幸いなのだと、この世の幸いを、与えられている地の実りによって、つつましく生きることが、私たちの求めるべき幸福だと、コヘレトは、身近に神を求め、分を知って生きることを奨めているようである。アーメン。 

2016年7月10日日曜日

「日ごとに担う十字架」(ルカ9:18-26)渡辺賢次牧師

ルカによる福音書第918-26節、201673日(日)、聖霊降臨後第7主日(典礼色―緑―)ゼカリア書第127-10節、ガラテヤの信徒への手紙第323-29節、讃美唱119/5(詩編第11933-40節)

 ルカによる福音書第918節~26

イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」

イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」それから、イエスは皆に言われた。「わたしについてきたい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人はたとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。」

説教「日ごとに担う十字架」(ルカ918-26)渡辺賢次牧師

私たちは、主イエスと共に、多くのみ業や、主のみ言葉に与ってきましたが、今日のルカによる福音書の第918節以下は、ルカ福音書の分水嶺に当たると言われる部分であります。実にここから、主イエスはどんなお方であるのかが、示されていくのであります。
これまでも、しばしば、このお方は何というお方なのだろうかという疑問は起こされてきたのでありますが、今日のところで、いよいよそれが明らかにされるのであります。
今日の記事は、5千人への供食の奇跡のあとに記されています。どこで、今日の出来事が起こったのかは書かれていません。ただ、主イエスが独りで祈っておられるということが起こったと始まっています。一人で祈っておられるのに、弟子たちだけは一緒だったとあります。それは、弟子たちは一緒にいたけれども、主イエスの祈りに与ることはできなかったことを示しています。そして、主イエスは弟子たちに、ここで質問されるのです。「人々は、私について何だと言っているか」と。彼らは答えます。ある者は、洗礼者ヨハネが生き返ったのだと。ある者は、エリヤだと、また、別の者は、昔の預言者のある者が生き返ったのだと。それに対して、主は、「では、あなた方は、私をだれだと語るのか」と。ペトロが答えて言います。「あなたこそ、神から遣わされたメシアです」と。これは、もとの文では「神のメシア」となっています。他でもない、神が送られたメシアですと、ペトロは、主イエスの祈りに導かれ、聖霊の助けによって、こう答えたのです。この告白のためにこそ、主イエスは弟子たちと共に、これまで歩んできたのであります。

私たちは、頻繁に、祈り等も「主イエス・キリストのみ名によって祈ります」などと、ごく当たり前のように使っていますが、これは、「イエスこそ、メシア」救い主ですという信仰告白の言葉なのであります。今まで、このことのために、主イエスは、弟子たちを導き、旅を続けてきたのであります。しかし、弟子たちは、なお、それがどのような救い主であるのか、まだ分かってはいなかったのであります。それに続いて、今日の後半の部分がつながっているのであります。主は、不思議にも、このことを誰にも言わないように、警告しお命じになってから、言われます。「人の子は、多くの苦しみを受け、長老、律法学者、祭司長たちによって無用と宣告され、殺され、三日目に起き上がらされることになっていると」とここで初めて、受難予告と復活予告をなさったのであります。すべてが、受身形で書かれています。ご自分のことを、「人の子」と呼ばれ、救い主である御自分が、苦しまれ、拒まれ、殺され、最後に起き上がらされねばならないと予告なさったのであります。本当に主は、この言葉を生前に言われたのでしょうか。それは、ご復活の後になって、弟子たちが、ここで主に言わせた言葉なのでしょうか。後の教会が、主イエスがここで語ったことにしているのでしょうか。旧約聖書で約束され、預言されていたメシアが、苦しみを受け、その民によって拒まれるメシアであることは、イザヤ書53章などによって暗示されていました。主イエスは、御自分がそれであることを、知っておられ、しかも、捨てられたままではなく、神によって復活させられ、擁護されることを察知されていたことは、十分ありうることであります。主イエスは、それに続けて、皆の者に向かって言われます。「もし誰でも、私の後にやって来たい者は、自分を否定し、日ごとに自分の十字架を担い、私に従って来なさい」と。自己否定と、自己犠牲と、従順が主の弟子であるためには、そのすべての者に必要なのです。そして、そのあとの文は、いづれも、「なぜならば」こうだからだと、理由付けの主のお言葉となっています。なぜなら、自分の命を救おうとする者はそれを失い、私のためにそれを失う者はかえってそれを救うからだ。なぜならば、人がたとえ全世界を手に入れても、自分自身を滅ぼしたなら、そして、損害を受け、自分を難破させるのなら、何の益が受けられようか、と言われます。人は財産によっては命を安全に確保することはできないのであります。そして、最後に、なぜなら、私と私の言葉とを恥じる者を、人の子も、彼と、その父と、その天使たちの栄光において来るときに、その者を恥じるであろうからだと主は言われ、ご自分が苦しみを受け、拒まれ、殺され、復活させられる道は、また、私に従うすべての弟子の道であるとここで示されているのであります。この日毎に私どもの十字架を担う生活とは、日常のささやかな生活において示されるものであります。それは、家庭で夫が妻に仕え、妻も夫に仕え、親は子に仕え、子も親に仕えるような、主イエスが教えてくださった道であります。アーメン。

2016年7月9日土曜日

「神によって義とされて」(ローマ3:21-26)

ローマの信徒への手紙第321-26節、20160708、聖研・祈祷会

 ローマの信徒への手紙第321節~26節 
ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。

メッセージ「神によって義とされて」(ローマ321-26

 ローマ118から、320までずっと神の怒りや律法を守れない人間の罪の重さが厳しく記されていました。義人は一人もいない。すべての人が罪を犯して、神の義から逸れてしまっているという暗い、重苦しい使徒パウロの言葉が私たちに迫っていました。
 しかし、今日の個所で、一気に明るい朝の夜明けがやって来たようです。しかし、今や、律法とは関係なしに、しかも律法と預言者たちによって、立証されながら、イエスを、十字架につけることによって、神は罪を罪としてみ子に負わせ、み子を贖いの供え物とされたというのです。贖いというのは、主人が奴隷を買い戻すという意味があり、私たちは罪の捕らわれの囚人となっていましたが、そこから、解放してくださったというのです。
 全人類が、アダムとエヴァ以来、罪を犯し、間違った行いを犯して来ましたが、それを、神はそのご自分の独り子を罪の償いの供え物となさって、十字架の上に罰せられることをなさり、それを通して、神の怒りをなだめることをなさったのです。
 このように、私たち人間の理性や常識では思いもしなかった方法を取って、ご自分のみこの死を通して、私たちを闇から光へと移してくださった。このことを通して、神は御自分を義とされ、その恵みを信じる者をも、義となさったというローマ書の一つの頂点、ローマ書全体の要約、福音の要約のみ言葉がここに与えられているのであります。このような形で、神の栄光を受けるに足りない者となっていた私たちが、それを回復する道を神は備えてくださったのであります。アーメン。



2016年7月7日木曜日

「人は一人で生きるのはよくない」(コヘレト4:7-17)

コヘレトの言葉第47-16節(17節)、20160707、英語で聖書を読む会

 コヘレトの言葉4716(~17

わたしは改めて
太陽の下に空しいことがあるのを見た。
ひとりの男があった。友も息子も兄弟もない。
際限もなく労苦し、彼の目は富に飽くことがない。
「自分の魂に快いものを欠いてまで
誰のために労苦するのか」と思いもしない。
これまた空しく、不幸なことだ。

ひとりよりもふたりが良い。
共に労苦すれば、その報いは良い。
倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。
倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。
更に、ふたりで寝れば暖かいが
ひとりでどうして暖まれようか。
ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。
三つよりの糸は切れにくい。
貧しくても利口な少年の方が
老いて愚かになり
忠告を入れなくなった王よりも良い。
捕らわれの身分に生まれても王となる者があり
王家に生まれながら、卑しくなる者がある。
太陽の下、命ある者が皆
代わって立ったこの少年に味方するのを
  わたしは見た。
民は限りなく続く。
先立つ世にも、また後に来る代にも
この少年について喜び祝う者はない。
これまた空しく、風を追うようなことだ。

神殿に通う足を慎むがよい。
悪いことをしても自覚しないような愚か者は
供え物をするよりも、聞き従う方がよい。

メッッセージ「人は一人で生きるのはよくない」(コヘレト47-17

コヘレトは、人は一人で生きるのはよくないと、創世記の始めに主なる神が人を造られ、男と女とを造られたとのみ言葉を思い起こさせる言葉を記しています。私たちは物心がついたころから、孤独を感じ、自分は一人ではないかと悩まされる体験をだれしも持つのではないでしょうか。
今日のコヘレトの言葉には、友もなく、兄弟も子供もなく、ただあくせくと働き、自分を楽しませることもなかった男の例話を挙げています。新共同訳では、そんな自分に気づくこともなかったかのように、書かれていますが、英文では、そのような自分に何の意義があるのかと問いを投げ返す言葉となっています。
 世の大部分の人は結婚し、あるいは、家族と共に生きているのは、コヘレトの言葉の正しさを示しています。
 一人よりは、二人が、さらに三人が、心強く、倒れても、もう一人に起こされ、あるいは、旅で攻撃にあっても、二人なら抵抗できることを挙げています。これは、中近東での、遠いところに商売をしようと旅に出る二人を、念頭に書かれています。二人なら、夜の激しい寒さも、共に寝て暖めあうことができます。そして、三つよりの綱は容易にはちぎれないことを、おそらく当時の格言から、コヘレトは引用しています。

 後半では、人の世の移ろいやすさを、コヘレトは洞察しています。若くても賢ければ、年老いて、助言に耳を貸さなくなった王よりも、ましである。また、獄に入れられている少年でも、王にまでなることがあり、しかし、その者も、次の者によって、取って代わられ、益を受けた無数の民衆も、先の王に感謝しようとはしなくなると洞察しています。エジプトでファラオのもとで、最初にまでなったヨセフの物語や、サウル王から、ダビデ王へ、また、その子ソロモンへと受け継がれた王位のことが、コヘレトの頭にあったのでしょうか。いずれにしても、コヘレトは、これらのことを無益であると言い、いずれも、風を追うようなことであると見抜いています。そして、私たちにとって、幸福なのは、日々を楽しみ、働いて、家族とささやかな楽しみを持ち、飲み食いし、分をわきまえて、生きてゆくことだと言います。主イエスを知らされている私たちも、この分を知って、自分に与えられている生涯を精一杯歩む以外にはないのではないでしょうか。アーメン。



2016年7月2日土曜日

「罪と律法」(ローマの信徒への手紙3:9-20)

ローマ39-2020160701、聖研・祈祷会

 では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシャ人も皆、罪の下にあるのです。
次のように書いてあるとおりです。
「正しい者はいない。一人もいない。
悟る者もなく、
神を探し求める者もいない。
皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。
義を行う者はいない。
ただの一人もいない。
彼らののどは開いた墓のようであり、
彼らは舌で人を欺き、
その唇には蝮の毒がある。
口は、呪いと苦味で満ち、
足は血を流すのに速く、
その道には破壊と悲惨がある。
彼らは平和の道を知らない。
彼らの目には神への畏れがない。」
さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。

説教「罪と律法」(ローマの信徒への手紙39-20

私たちの周りには、別に聖書のことを知らない人であっても、信仰を与えられている私たち以上に、立派に見える人々が確かにいるように思われます。しかし、使徒パウロは、この世界のうちに、罪から自由な者は誰一人としていないというのであります。
今日の箇所の前の文章では、ユダヤ人の優れた点は何なのかと問いを出し、それは、一つには、彼らに神の言葉がゆだねられたことであると言っています。
今日の部分では、それでは、私たち、ユダヤ人には、利点があるのだろうかと問い、
それは、全くないと言い切るのであります。
 そして、旧約聖書の詩編や、イザヤ書から、み言葉を取り出して、だれもかれもが、道からそれて、共々に、すべての者が、律法から、離れて生きていると言い切るのです。
 最初のほうの引用では、私たちの口が犯す罪の事を言っています。それから、それを達成する、私どもの足のことを、詩編などから取り出して言っています。私たちは、口で罪を犯し、そのための道具として足を用いて、人を殺したりする始末であると、パウロは、私たちの罪を喝破しているのであります。
 そして、律法は、そのもとにある人々に語りかけているが、それを守ろうとしても、守ることができず、律法の行いによっては、結局、罪の認識しかもたらさないと、断言しています。だからといって、律法が無意味なもの、不必要なものになっているというのではないのです。この律法の下にあり、嘆かざるを得ない、私たちすべての人類の下に、ガラテヤの信徒への手紙による表現によれば、また、ルターの解釈によれば、キリストが、私たちの皆のために、罪となり、木にかけられて呪いとなり、死そのものとなってくださったという福音が訪れるのであります。

 そこへ移るためにも、まずは、律法の下にある私たち人類皆が、罪の嘆きの中に閉じ込められている現実を知らなければならないのであります。その認識から初めて、平和への道の曙が訪れるのであります。アーメン。