2016年5月18日水曜日

「試練から逃れる道」(ルカ4:1-13)

ルカ福音書第41-13節、2016214日、四旬節第1主日礼拝(典礼色―紫―)、申命記第265-11節、ローマの信徒への手紙第108節b-13節、讃美唱6(詩編第65-11節)

ルカによる福音書第41-13

  さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を”霊“によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。
 「『あなたの神である主を拝み、
 ただ主に仕えよ』
と書いてある。」そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。
「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。
 『神はあなたのために天使たちに命じて、
 あなたをしっかり守らせる。』
 また、
 『あなたの足が石に打ち当たることのないように、
 天使たちは手であなたを支える。』」
 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。

説教「試練から逃れる道」(ルカ41-13

私たちは、先週210日の水曜日の灰の礼拝から、日曜日をのぞく40日間を、レントとして、過ごします。その最初の主の日である今日は、四旬節の第1主日毎年同じ悪魔による主イエスへの誘惑の記事が読まれますが、今年はルカ福音書第4章の1節から3節までが、与えられています。

これは、出エジプトの、モーセに率いられたイスラエルの民の荒れ野の40年間をも想起させられますし、40日間、シナイ山で飲み食いしなかった、十戒を与えられますときのモーセや、40日間、立ち上がって、ホレブの山まで歩きとおしたエリヤを彷彿させられます。

それは、しかし、すぐ前の記事の主イエスが、民衆にまじって洗礼を受けた出来事とも、密接につながっています。主の洗礼のあと、聖霊が鳩のような形をして、主イエスの上に下り、天が開けて「あなたは、私の愛する子、私の心に適うもの」とのみ声が成ったのであります。

ルカ福音書では、それに続き、主イエスが宣教をお始めになったのは、およそ30歳のころであったことが記され、その父と思われていたヨセフから遡って、アダムに及び、アダムは、神に至るとまで記された系図が載っています。そして、皆さんの中にはあるいは、最初の人アダムは罪に陥ったことを、想い起された方もおられるかもしれません。

さて、その主イエスは、聖霊に満ちて、ヨルダン川から、引き返され、霊に導かれて、荒れ野を40日間、悪魔から誘惑をお受けになられます。新共同訳聖書は、「霊によって引き回され」と、激しい言葉で訳しています。その訳は父なる神が、聖霊を用いて、あるいは、聖霊の中を、み子を引きずり回しになると言いたいのだと思います。そして、主がその期間が終わったとき、飢えた状態になられます。そして、悪魔が、あなたは、神の子だから、この石に、パンとなるように言いなさいというのです。主は、「こう書かれている」と申命記の言葉を引用して、彼に向かって答えられます。「人はパンだけで生きるものではない」と。

今日の記事では、3つの誘惑が記されていますが、これは、私たち、すべての人間が、経験する誘惑をいわば例示しているのであります。私たちは、身体を守るために、食事をし、衣食住を整え、また、将来に備えるために働き、備えをしていきます。しかし、イスラエルの民が、荒れ野の40年で味わったように、彼らが飢えたときには、マナが与えられましたが、神への従順、そこから来る神の言葉による命を与えられなければ、すこやかな生活はできないのであります。先日は、バンコクへ説教研で二度目の旅行をしましたが、テレビをつけますと、仏教のチャンネルが一つあって、それが、タイという国には欠かせない霊的な支えとなっているのだと思いました。どの国の人も、神の言葉あるいは、仏陀の教えなど、人間を超えたものなしには、まともな生き方はできないことを示しています。

次に、悪魔は、高いところへ主を導いて、全領土の国々と、それらのその権力と栄光を見せ、あなたが私を伏し拝むなら、それは、私に任されているのだからで、私の欲する者に与えることができるが、どうか、と言いますと、主は、やはり、申命記のみ言葉にこう書かれている。すなわち、主にひれ伏し、神のみに仕えよ、礼拝せよとあるといわれます。

主イエスは、政治的なメシアとして来られたのではなく、悪霊、汚れた霊を追い払う権威を持ち、それに取り付かれた者を解放するお方としてお出でになられたのであり、神のみ言葉によって、この世の霊、あるいは、時代精神とも言えます、サタンの申し出を退けられるのであります。

で、最後に、エルサレムに、主を導いて、その神殿の頂き、それは、どこかよく分からないのですが、いずれにしても、「あなたは、神の子なのだから、ここから下へとその身を投じてみなさい」と、誘い、今度は、こう書かれていると、主と同じように、詩編の言葉を引用して誘います。神はあなたを守るように天使たちに命じ、その手であなたの足が石に打ち付けることがないように持ち上げさせると。

主は、またも、み言葉から、こうお答えになります。あなたの神を試してはならないと、言われてきたと。神を試すとは、神を疑うこと、不信のイスラエルの民のやったことであります。

主イエスは、しかし、いずれの誘惑をも、神のみ言葉を盾として打ち退けられるのであります。仕方なく、悪魔はあらゆる誘惑をおえたのち、時が来るまで、これは、カイロスという、その時期に見合った時まで、主イエスから離れたのであります。そして、その時、決定的な時とは、主がこの世の君に渡される受難のときであります。

十字架と復活というまことの栄光のときまで、主からは、その悪魔の猛烈な働きは制止されるのであります。そして、主が神殿の頂から飛び降りよというこの最後の悪魔の申し出をも、旧約聖書のみ言葉に頼って、打ち退けられたのであります。それは、十字架という逆説的な救いを、私たちに与える父なる神のみ心に従うためでありました。

罪を犯すことはなかったが、あらゆる人間の出会う誘惑を、主は経験なさり、すべての人を救う道を開かれたのであります。


私たち、信者も求道者の方々も同じく、多くの誘惑や試練に遭いますが、パウロが言う通り、み言葉に従い、信じていく者には、同時に必ず逃れる道をも備えてくださっているのであります。そのみ言葉に信頼しつつ、このレントの時期、主の十字架への道行きを思い起こしながら、又その死に打ち勝ち、死から三日目に復活なさいます主イエスを待ち願いながら、私どももこの時期、日々罪に打ち克ち、霊肉共にすこやかな生活を送っていきたいものであります。 アーメン。

「主イエスと共に歩むために」(ルカ19:28-48)

ルカ福音書第1928-48節、2016320日、枝の主日聖餐礼拝(典礼色―紫―)、ゼカリヤ書第99-10節、フィリピの信徒への手紙第26-11節、讃美唱24/1(詩編第241-6節)

ルカによる福音書第1928-48
 イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。二人は、「主がお入り用なのです」と言った。そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。
 イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。
 「主の名によって来られる方、王に、
 祝福があるように。
 天には平和、
 いと高きところには栄光。」
 すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」
 エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら・・・。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」
  それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、彼らに言われた。「こう書いてある。
 『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』
 ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」
 毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話しに聞き入っていたからである。

 説教「主イエスと共に歩むために」(ルカ1928-48

 池上彰さんという方は、毎日新聞の論説委員をも担っているジャーナリストであります。かつてNHK教員テレビで子供向けの小学生新聞といった番組で長らく、子供たちとも世界や、日本社会を少しでもよく知るために、その番組の中心を担って取り組まれていたのを思い出します。
 その人が、分かりやすく、毎日新聞で、世界の動向について、キリスト教がようやく西方教会の代表であるフランスシコ法王と東方教会の正教会のトップが、キューバで分裂以来始めて、会談をし仲直りをするという紹介記事を書いていました。
 その中で、そもそも、キリスト教というのは、ナザレのイエスが十字架刑にかけられて、なくなった後になって、弟子たちが、イエスこそ、救世主であったことに気づき、弟子たちが広めたのが、キリスト教であると、紹介していました。
 この言い方は、ある面では、客観的で、分かりやすく、間違いとは必ずしも言えませんが、そのように単純なものではないのであります。
 それは、旧約聖書に約束され、預言者たちによって預言されていた救い主メシアが、主イエスのであり、主が神の独り子であったにもかかわらず、人となられて、飼い葉おけでマリアとヨセフのもとにお生まれになり、神の国を宣教し、その1年から3年ののちに、エルサレムに十字架におかかりになるために、旅をされ、ユダヤ教の指導者や、時の権力者、ポンティオ・ピラトのもとで十字架につけられ、死んで葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇られ、今も父の右に座しておられるお方であるとの信仰に根ざしているのであります。
 さて、今日は、いよいよ受難週に入った日曜日、枝の主日となりました。長かったレントの最後の主日に与えられている福音は、ルカ福音書1918以下であります。しかし、その個所が19章の終わりまで、長く読まれる点が、アドベント第1主日とは、少し異なっています。
 これは、主イエスのご受難、十字架に、更にその後の主イエスの御復活と昇天へと、このあと、すぐつながっていく記事として与えられているからであります。
 今日の第1朗読も、第2朗読も、主イエスのエルサレム入城と主のご受難と死に関わる、それに相応しい個所が与えられています。すなわち、まことの王であるお方が、子ろばに乗ってお出でになる、そして、その方は心低き、謙られた王としてエルサレムにお入りになるのであります。
 また、レントの間、福音の朗読前に歌われてきましたように、第2の朗読では、キリスト賛歌の部分が選ばれており、私たちの主は、己を低くして死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで、み旨に従われたとの個所が読まれたのであります。
 いずれも、今日の福音、ルカ1928-48の記事につながっている。すなわち、私の、そして、あなたのために、主イエスは今日のふるまい、又お言葉を語っておられるのであります。
 ルカ951からは、エルサレムで待ち受けている十字架を目指して、「旅空を歩むイエス」として記されています。
 また、ルカ福音書は、神殿から始まり神殿で終わっております。私たちの礼拝が正されなければならないのであります。
 そして、今日の記事は、「主イエスはこのように語られてから」と始まっています。このような話とは、すぐ前の、「ムナの譬え」のことです。10人の僕に1ムナ、100ドラクメ、100日分の当時の賃金に当たる額を預けて、ある高貴な人が遠いところへ旅に出られる。それは、終わりの日に再びお出でになられる主イエスのことを指しているのであります。
一人ひとりが、主イエスの弟子として、1ムナずつ預けられている。それは、主から受けているみ言葉であると言えましょう。私たちはそれをどう生かすのか。しかし、その人が王位に就くのを望まなかった市民たちがいた。それは、エルサレムで待ち受けているファリサイ派の者たちや、主イエスを拒む者たちを指しています。
  その者たちをどうするのかと、主イエスはここに示されています。
 主イエスは、こうして、オリーブ山に向かって近づかれると、二人を使いに出し、まだ誰も乗ったことのない、つながれている子ろばをといて、引いて来させるために行かせます。
 彼が指示したとおりに事は運んでいく。「主がお入用になる」とつながれた子ろばを引いてくる。ぶどうの木につながれた子ろばと創世記に出てくる記事の実現であり、また、ゼカリヤ書98の柔和でへりくだった、子ろばに乗ってお出でになる方であり、その足もとに服が敷かれて王位に就くとの旧約記事に出てくることによって、示されている、王としてのキリストの預言の成就であります。
 さらには、このお方がエルサレムの都が見えたときに、涙を流され、あなたへの訪れの日を知らなかったエルサレムのために、エレミヤのように泣かれるのであります。
 イエスの宣教によって、神の救いが来たことを、あなたたちが知っていたならと嘆かれるのであります。
 エルサレムの弟子たちからなる大勢が皆、歓呼の叫び声を上げ始めます。「主のみなによってこられる方、王に祝福があるように。天には平和、いと高きところに神の栄光があるように」と。彼らは知らずして、この時起ころうとしていた出来事をほめたたえ、主がなさった力あるみ業を賛美していたのであります。
 主イエスはまもなく、十字架に上げられ、苦しまれ、殺され、死んで陰府にくだり、三日目に死人のうちからよみがえられ、天ののぼり父なる神の右の座に疲れるのであります。その救いの成就を、期せずして弟子たちは歌っていたのであります。
 クリスマスに、ベツレヘムのまぶねの中でお生まれになった喜び、地における平和ではもはやなく、天での平和の喜びを、弟子たちが歌っていたのであります。
 それをやめさせようとしたファリサイ派に向かって、今度は主イエスは、彼らが黙れば石が叫び出すであろうと、それを拒まれないのであります。
 そして、エルサレム神殿の崩壊を預言し、また、最後に、エルサレム神殿の宮清めをなさり、エルサレム神殿こそは、すべての人の祈りの家と呼ばれようとのイザヤ書の預言をあげられ、神殿をあるべきものへとただそうとされる。
 私たちは、この日の主イエスの出来事を思い返しながら、今日から今日から受難週に入っていくのであります。

 祈りましょう。

 天の父なる神様。
 あなたの御用のために仕える僕とならせてください。主イエスの十字架の死を見上げつつ、そのあとに来る主のご復活の秘儀を悟る心の目を開いてください。わたしのために、あなたのために、主が嘆かれ、苦しまれ、お進みになる十字架の道を、今年もまた深く知ることができますように。そして、あなたから預かっているみ言葉を地に空しく埋めておくことがありませんように。そして、次週の復活祭の礼拝を喜びと感謝を持って迎えることができ、一日一日の戦い、苦しみ、また罪との戦いに打ち勝っていくことができまうように助けて下さい。キリストのみ名によって。

           アーメン。

「五千人を満たした糧」(マルコ6:30-44)

マルコ福音書630-44節、2015816日、聖霊降臨後第12主日礼拝(典礼色―緑―)、エレミヤ書231-6節、エフェソの信徒への手紙211-22節、讃美唱23(詩編231-6節)

マルコによる福音書630-44
 
 さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。
イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか」と言った。イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。パンを食べた人は男が五千人であった。




説教「五千人を満たした糧」(マルコ630-44

 この夏の休暇を用いて、結婚して赴任した水俣教会を訪ねて、松山へ戻って来ました。水俣教会には、早蕨幼稚園という小さな学校法人の幼稚園があり、この度、熊本の神水幼稚園付属幼稚園と、惠幼稚園と法人合併して、「子ども園」も採用して1億五千万円の総工費で古かった園舎を急遽、立て替えているところで、12月には二階建ての園舎が完成します。
 今年4月から迎えた、神学校を卒業し、結婚したばかりの牧師夫妻を交えて、信徒5人ほどが、久しぶりに降りしきる雨の中、古いままの教会・牧師館と続いている、昔のままの礼拝堂に集まってくれました。
20年前に、私ども夫婦は、赴任しましたのですが、その頃よりも信徒は、天に召されたり、他へ引っ越ししたりで、かなり減っています。
けれども、懐かしい、その守っておられる方々は、20年前と同じ、堅い信仰生活を守っておられることに、深い感銘を受けました。
実は、もう一人、県境を越えた鹿児島県の阿久根教会で、獣医をしている兄弟を是非、尋ねたいと思ったのですが、ちょうど彼はチンタオに出張して、木曜日まで帰らないとのことで、会うことはできませんでした。
この兄弟は、5152歳で、早蕨幼稚園の卒業生でもありますが、ご一家で阿久根教会を守っているような家族でありました。ところが昨年の暮れ、1230日の主日のことでしたが、奥さんが蜘蛛膜下出血で急に召されたのであります。ご主人は出張中で、当日、ある姉妹のお父さんが、めでたく洗礼を受けるとのことで、愛餐会の食事の準備をしていて、倒れ、発見も遅れたという悲しい出来事でした。男の子3人を残して、急に召され、御主人の彼は、今も悲しみから立ち直れていないとのことでした。
牧師をしていますと、このような不条理とも思われる兄弟姉妹の死に接することが少なくありません。
水曜日の夕方に、松山に着きました。介護の仕事をしています妹に久しぶりに会いましたが、今度は、その妹から、宇和島の高校時代の私の同級生で、尊敬していた友人が、ガンで不幸な死に見舞われた戸の情報を知らされ、もう私も還暦を迎えていますので、こういうこともあってもおかしくはないと思わされています。彼は、最後は宇和島市消防署長まで勤め、高校、大学時代は野球をやり、男女を問わず、皆の信望を集める友人で、私が牧師になっていた頃には、週報等も送っていた時期があったと記憶しています。
もっと、親しく付き合っていればと残念にも思います。
さて、今日のみ言葉は、「五千人への供食」と呼ばれる記事であります。そして、今日の第1の朗読は、エレミヤ書で、やがて、あなた方にまことの牧者、ダビデのための若枝、メシアが与えられるであろうとの預言であります。
第二の朗読は、平和主日の朗読とも重なりますが、エフェソ書からの記事で、異邦人も、ユダヤ人も、また、すべての人の間の隔ての中垣が、十字架にかかって下さったキリストによってなくなり、まことの平和が与えられているというものでした。
因みに、今日の讃美唱は、詩編23編全体で、口語訳では、「主はわが牧者」と始まっておりました。主なる神こそ、私の羊飼いであり、緑の草の上に伏させ、水のほとりに導かれる。だから、私は、たとえ死の陰の谷を歩む時にも、恐れない。主は食卓の杯を、ぶどう酒で満たし、生涯、主の恵みが私の後を追うという記事でありまして、今日の福音の記事には、最も相応しい、旧約聖書からのペリコペーであると思います。
 さて、今日の福音、マルコ630-44であります。使徒たちは、杖一本しか与えられない、初めての宣教から戻って、主のもとに集められます。
主と同じように、悔い改めの説教をし、悪霊を追い出し、病人を癒す宣教ができたのであります。彼らは、自分たちが教えたこと、なしたこと、すべてを報告します。
そして、主のもと、彼らのもとに、大勢の人が出入りしていて、食事をする暇もありませんでした。そこで、イエスは、あなた方はしばらく休みを取るがよいと言って、舟に乗り、「寂しい場所」へ、一行だけで向かいます。
これは、「荒れ野」という言葉でもあります。さて、ところが、これに気付いた群衆は、陸路で、徒歩で、あらゆる町から駆け付け、一行よりも先に着いたのであります。
主イエスは、舟から下りると、彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを見て、はらわたがちぎれる思いになります。それは「共に苦しむ」(コンパッション)とも訳されます。そのイエスの熱いまなざしによって、今日の奇跡は、起こされるのであります。
イエスは、その群衆に向かって、多くのことを教え始められます。そして、多くの時間が過ぎた時、イエスの弟子たちが来て言います。「もう時が遅くなりました。群衆を解散して、近くの集落や、村々に行かせて下さい。そうすれば、彼らは、自分対が食べるものを仕入れることができましょう。」
すると、イエスは、「あなた方が、彼らに食べることを与えなさい。」弟子たちは、驚いて言います。「200デナリオンものパンを、私たちが買って与えよとでも言うのですか」と。
マルコに出てくる弟子たちは、主イエスのなさることが分からない弟子、ある意味では不信仰な弟子たちであります。主イエスがなさろうとしていることが分からないし、自分たちの常識、人間の理性でしか考えられない、信仰の小さい者たちであります。
主は、あなた方はどれだけの食べ物があるか、行って見て来なさいと言われます。弟子たちは確かめて来て、五つのパンと二匹の魚を、と答えます。
主は、弟子たちに、人々を組にして座らせるように、横にならせるようにと命じます。人々は、青草の上に、50人ずつ、あるいは100人ずつ列になり、グループになって座ります。
主は、パンを取り、天を見上げて、讃美の祈りを唱え、それを裂き、弟子たちに与え、弟子たちはそれを、彼らの前に差し出します。イエスは、同じように、魚をも皆に分配しました。
これらの表現は、最後の晩餐の聖餐式の設定を思い起こさせます。そして、彼らは食べ、すべての者が満腹させられた。それは、男の者が五千人であったとマルコは記しています。しかも、彼らは、パン屑と魚の残りで満たされた12の籠を持ち上げたというのです。
羊飼いのいない羊のような、迷い、人生の荒れ野で満たされず、飢え求める無数の群衆を、五つのパンと二匹の魚というわずかな食物を祝福し、聖別して、人々の真の心の飢えを満たし、又、体の飢えをも満たすことができました。
旧約聖書では、出エジプトの民に、主なる神がモーセを通して、荒れ野でマナを降らせ、うずらを降らせて、イスラエルの民を養いました。あるいは、預言者エリシャも20の大麦のパンで100人の弟子たちの職を満たし、余りが残されたとあり、エリヤも、サレプタのやもめを、尽きない麦の粉で、主なる神に執り成して、養うことができました。
そして、詩編23編では、詩人ダビデは、主こそまことの牧者として、自分を恵みで導く神をほめたたえました。
しかし、寂しい場所、人生の荒れ野に集まる無数の人々を、今日も、十字架と復活の主は、そのすべての渇きと飢えを満たし、養うことがおできになります。水俣教会の小さな信徒の群れ、又、阿久根のもっと小さな群れの、そのうちの一人をも、主は見放すことはありません。
これから、主の聖餐にご一緒に参与します。主が飼い主のいない羊のような私どもにまなざしを向け、私たちの生きていくまことの糧を、その分からないでいた弟子たちを通して与えて下さいました。
私たちも、この荒れ野を生きていく、まことの糧を人々に与えていく、そのような人生を歩んで行きましょう。

祈ります。
天の父なる神さま。
この世に、まことの大牧者、私どもの羊飼いとしてお出でになられた主イエスに、また、み子を遣わされたあなたに感謝いたします。そして、このお方が、私どもの罪のために命を与えて下さり、他でもない、弱く惨めなこの私たちに、恵みと平和が与えられていることをお礼申し上げます。
今日の主イエスのまなざしを受けて、生涯を、信仰のうちに歩ませて下さい。

主イエス・キリストのみ名を通してお祈りいたします。アーメン。

ようこそ!教会へ。

みなさま、こんにちは。ルーテル飯田教会です。
今年の私たちの教会のスローガン・テーマの言葉は、
「主キリストと共に生き、歩む教会 
ー 愛、喜び、笑顔、展望 ー」
となっています。
愛にあふれ、喜びに満ち、いつも笑顔で、将来の見通しがある、
そんな毎日を私たちは望みますね。
でも、現実はどうですか?
なかなかそうならない毎日があるかもしれません。
でも、そこで絶望したり、立ち止まったりする必要はありません。
このスローガンには、「キリストと共に歩む」ならとあります。
その時に、それは実現すると、私たちは信じているからです。
不思議に思うかもしれません。ごもっともです。
一緒に聖書を読んでみませんか?
このホームページででも、教会の説教・メッセージを掲載していこうと思います。
ときどきお付き合いください。
そして、教会にもいつでもどうぞ、おいでください。
おまちしています。