2016年12月28日水曜日

「世の光キリストを迎えよう」(ヨハネ1:1-14)

ヨハネによる福音書第11-14節、20161225日(日)、降誕祭礼拝、(典礼色―白―)、イザヤ書第527-10節、ヘブライ人への手紙第11-9節、讃美唱98(詩編第981-9節)

  ヨハネによる福音書第11節~14節 

 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
  
ヨハネによる福音書第11-14節、20161225日(日)、降誕祭礼拝、(典礼色―白―)、イザヤ書第527-10節、ヘブライ人への手紙第11-9節、讃美唱98(詩編第981-9節)

  ヨハネによる福音書第11節~14節 

 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
  
「世の光キリストを迎えよう」(ヨハネ11-14

 クリスマス、おめでとうございます。今年は、祝福されて、今日が1225日であり、日曜日と重なり、降誕祭の礼拝の日課そのものに従って、この日の礼拝を祝うことができているのであります。
 その各聖書個所、ペリコペーも、ふさわしいものが読まれました。イザヤ書の言葉は、よき知らせを知らせる者の足は何と麗しいものかと、シオンへの救いの知らせを預言しています。
  第2朗読のヘブライ書も、昔は神のみ旨は、預言者や黙示などを通して、部分的に示されていたが、世の終わりのときとなって、キリストを通して明らかに示されたと証言しています。
 讃美唱の詩編第98編も、すべてのものをもって、主を讃美せよと、詩人は歌い、主は来られると、救いの到来を預言しています。
 さて、クリスマスの日課として、ヨハネ福音書第11節から14節が与えられています。1節から18節までが読まれることもあります。ここがなぜ、クリスマスに読まれるのでしょうか。
 ここには、飼い葉桶も、嬰児主イエスに巻かれた布切れも記されず、東方のマギたちも登場しません。しかし、ここには、神の独り子が、私たちと同じ、弱く罪に満ちた人間となって、この世界にお出でくださったこと、そして、そのなさったみ業が記されているのです。
 日本のプロテスタントによる初めてのヨハネ福音書の和訳を試みたギュツラフは、「始まりに賢い者ござる」と、この福音書の書き出しを訳しています。私たちの新共同訳聖書は、「初めに、言があった」となっています。言とは、言葉に意味もあり、ギリシャ語ではロゴスという言葉です。
 初めに「み言葉」があったと訳してもいいでしょう。すなわち、天地創造の初めにおいて、既に、主イエスが、父なる神と共におられたということであります。「賢き者」という人格的なお方が、私どもの存在の初めからおられ、かかわっておられるとヨハネ福音書記者は言いたいのであります。
 そして、そのお方は、この世界へと肉となられた。そして、私たちの住む世界、現実のなかに天幕を張って住んでくださったというのであります。
 ところが、自分の民のところに、このお方、み言葉なる主イエスはお出でになられたのに、民は受け入れず、認めなかったのであります。このお方によらずに成ったものは何一つなく、成ったものはこのお方における命において生かされ、このお方こそ、人間どもの光であったのに、この世界を覆っていた闇はその光を理解しなかったというのであります。
 あるいは、しかし、闇は、光に勝つことはできなかったとも訳されます。当時のヨハネ記者の教会は、迫害の中にあり、ユダヤ教からは会堂追放のおそれの中で、キリスト教信仰の棄教の危険にさらされている中で、この福音書が、信者たちに信仰を捨てないようにと、書かれたことを、私どもは思い起こさねばなりません。
 しかし、そのような闇と拒絶が深まる中にあっても、光であり、命であるこのお方にとどまり、信じゆだねる者たちには、神の子となる資格、力、権威が与えられると、ヨハネ記者は、この言であり、「賢い者」から離れない者たちを励まし、勇気づけ、また、彼らと一緒になって、み子を讃美しているのであります。
 そして、私たちは、このお方の、神の独り子としての栄光を、はっきりと見たと証しし、それは恵みと真理とに満ちていたと、このヨハネの教会、共同体の人々は高らかに信仰を宣言しているのであります。
 そして、それは、今なお、信じている私どもの告白でもあります。この、私どもの生活、苦しみ、悩みの中に、その只中に住んでくださった、そして、十字架の死によって、私どもの罪を贖ってくださった「賢いお方」「み言葉」なる主イエスのご降誕を、今日のこの福音書に記されている一連の讃美の告白と共に、私どもも、声を合わせて、迎え祝いたいものであります。アーメン。




 クリスマス、おめでとうございます。今年は、祝福されて、今日が1225日であり、日曜日と重なり、降誕祭の礼拝の日課そのものに従って、この日の礼拝を祝うことができているのであります。
 その各聖書個所、ペリコペーも、ふさわしいものが読まれました。イザヤ書の言葉は、よき知らせを知らせる者の足は何と麗しいものかと、シオンへの救いの知らせを預言しています。
  第2朗読のヘブライ書も、昔は神のみ旨は、預言者や黙示などを通して、部分的に示されていたが、世の終わりのときとなって、キリストを通して明らかに示されたと証言しています。
 讃美唱の詩編第98編も、すべてのものをもって、主を讃美せよと、詩人は歌い、主は来られると、救いの到来を預言しています。
 さて、クリスマスの日課として、ヨハネ福音書第11節から14節が与えられています。1節から18節までが読まれることもあります。ここがなぜ、クリスマスに読まれるのでしょうか。
 ここには、飼い葉桶も、嬰児主イエスに巻かれた布切れも記されず、東方のマギたちも登場しません。しかし、ここには、神の独り子が、私たちと同じ、弱く罪に満ちた人間となって、この世界にお出でくださったこと、そして、そのなさったみ業が記されているのです。
 日本のプロテスタントによる初めてのヨハネ福音書の和訳を試みたギュツラフは、「始まりに賢い者ござる」と、この福音書の書き出しを訳しています。私たちの新共同訳聖書は、「初めに、言があった」となっています。言とは、言葉に意味もあり、ギリシャ語ではロゴスという言葉です。
 初めに「み言葉」があったと訳してもいいでしょう。すなわち、天地創造の初めにおいて、既に、主イエスが、父なる神と共におられたということであります。「賢き者」という人格的なお方が、私どもの存在の初めからおられ、かかわっておられるとヨハネ福音書記者は言いたいのであります。
 そして、そのお方は、この世界へと肉となられた。そして、私たちの住む世界、現実のなかに天幕を張って住んでくださったというのであります。
 ところが、自分の民のところに、このお方、み言葉なる主イエスはお出でになられたのに、民は受け入れず、認めなかったのであります。このお方によらずに成ったものは何一つなく、成ったものはこのお方における命において生かされ、このお方こそ、人間どもの光であったのに、この世界を覆っていた闇はその光を理解しなかったというのであります。
 あるいは、しかし、闇は、光に勝つことはできなかったとも訳されます。当時のヨハネ記者の教会は、迫害の中にあり、ユダヤ教からは会堂追放のおそれの中で、キリスト教信仰の棄教の危険にさらされている中で、この福音書が、信者たちに信仰を捨てないようにと、書かれたことを、私どもは思い起こさねばなりません。
 しかし、そのような闇と拒絶が深まる中にあっても、光であり、命であるこのお方にとどまり、信じゆだねる者たちには、神の子となる資格、力、権威が与えられると、ヨハネ記者は、この言であり、「賢い者」から離れない者たちを励まし、勇気づけ、また、彼らと一緒になって、み子を讃美しているのであります。
 そして、私たちは、このお方の、神の独り子としての栄光を、はっきりと見たと証しし、それは恵みと真理とに満ちていたと、このヨハネの教会、共同体の人々は高らかに信仰を宣言しているのであります。
 そして、それは、今なお、信じている私どもの告白でもあります。この、私どもの生活、苦しみ、悩みの中に、その只中に住んでくださった、そして、十字架の死によって、私どもの罪を贖ってくださった「賢いお方」「み言葉」なる主イエスのご降誕を、今日のこの福音書に記されている一連の讃美の告白と共に、私どもも、声を合わせて、迎え祝いたいものであります。アーメン。




2016年12月7日水曜日

「道備えをする洗礼者ヨハネ」(マタイによる福音書第3章1節~12節)

マタイによる福音書第31-12節、2016124日(日)、待降節第2主日礼拝、(典礼色―紫―)、イザヤ書第111-10節、ローマの信徒への手紙第154-13節、讃美唱72(詩編第721-15節)

 説教「道備えをする洗礼者ヨハネ」(マタイによる福音書第31節~12節)
 
  先週から、アドベントに入り、今年は、3年サイクルのペリコペ、聖書日課のA年に戻り、マタイ福音書が主たる福音として与えられており、今日の福音は、マタイ福音書第31節から、12節までであります。
週報にも、予告の欄に、次の主の日の、各聖書個所を前もって、お読みくださり、十分に黙想した上で、礼拝にお臨みくださいと記していますが、今朝は、主たる福音のマタイ福音書の記事から、この教会歴の新年に当たるアドベントの時期をどのように過ごすべきなのかを、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 それにしましても、今は、クリスマスを前にして、町の中の商店などでは、クリスマスソングが繰り返し流されて、主イエスのご降誕を前に、にぎやかで、それを待つ喜びで一色になっているようでもあります。
 しかし、み子のご降誕の意味を考えるということは、必ずしも、2000年前のその出来事を喜び、それを心待ちにするということだけではないのであります。
すなわち、アドベントというのは、到来、あるいはそれを待ち望むという意味でありますが、2000年前のあの馬舟の中でのみ子の到来という意味のみならず、その主イエスの終わりの日の到来をも待ち望む。それが、アドベント、待望節、この教会の新しい年の始めに、私どもが心すべきことなのであります。  
そのようなことも、思い起こしつつ、伝統的な教会で、アドベントの第2主日に必ず読まれてきたと言います洗礼者ヨハネの主イエスの道備えの記事をマタイ福音書に従って、聞いていきましょう。
 今日の記事は、「そのころ」と始まっていますが、これは、「その日々に」と元の文にはあり、大事な出来事が起こるときに使われる聖書の言い方であります。救いの時が到来したのです。
マタイ福音書では、この第3章から、洗礼者ヨハネの宣教と、主イエスの宣教へと大きく、幕が変わっていきます。2章までのみ子の誕生の時代から、一気に一世代の間隔があき、この世界での主イエスの宣教のときがいよいよ近づいたのであります。
そして、それに先駆けて、洗礼者ヨハネが、現われ、主イエスの道備えをするために、悔い改めの洗礼を授けたことが、4つの福音書いづれにも記されているのであります。
 そして、それは、旧約聖書にも預言されていたことだと福音書記者たちは語っています。そして、不思議なことに、神はご自身で人間、ことにその民を、救われるのではなく、人間でもあるメシアを通して、救われるのであります。そして、その前にその道備えをする使者をお立てになる、それが再来のエリヤであり、今日登場する洗礼者ヨハネであるというのです。
 このヨハネは、荒れ野において、到来します。それは、預言者イザヤによって、言われていた者であり、主の道を、あなた方は備えよ、その小路を真っ直ぐにせよと呼ばわる声であると紹介されています。
その出で立ちは、預言者エリヤと同じであり、彼は、いなごと野蜜を食し、らくだの毛衣と、腰に革の帯をしていました。そして、悔い改めへの洗礼を施し、エルサレムと全ユダヤ、全ヨルダン近域は、彼に向かってやって来つつあったと言い、彼らはヨルダン川で彼によって、罪を告白しながら、洗礼を受けつつあったと記されています。
 その当時でも、クムラン教団やエッセネ派の共同体では、入会式のためや清めのための水浴、洗礼があり、ユダヤ教への改宗のための洗礼はあったといい、ヨハネの洗礼との関係が論じられていますが、ヨハネの悔い改めの洗礼は、そのいずれにもまさって、全ユダヤに大きな反響を引き起こすものでありました。
 ところが、その中には、ファリサイ派やサドカイ派の大勢もいるのを見たヨハネは、「蝮の子らよ、迫っている神の怒りから逃れられるとだれが教えたのか。自分たちはアブラハムの子らであると言おうと考えたりするな。神は、これらの石からでもアブラハムの子らをもうけることがおできになる」と激しく非難するのであります。
自分たちは律法を守り、悔い改めていると自負していた者たちが、ヨハネの洗礼に与ろうとするのに対して断固として異議を申し立てます。そして、悔い改めにふさわしい実を結べと警告しています。
 そして、自分より後に来られる方は、自分より強い方で、私はそのお方の靴を脱がせるにも価しないというのです。
そして、私は水で洗礼を授けているが、その方は聖霊と火において、あなた方に洗礼を授けようと告知しています。聖霊と火において洗礼を授けるとは、どういう意味でしょうか。聖霊という火で終わりの日に私たちを厳しく裁くということでしょうか。
ヨハネは、今は、天の国、主の主権の到来に備えて、神に全存在を持って立ち帰るようにと、水での、メシア到来に備えての洗礼を授けました。
 しかし、その方が来るときには、結ばない木は皆、切り倒され、火の中へと投げ込まれるとも言いました。そして、重ねるように、その方は、聖霊と火で洗礼を授け、農夫が箕を手に持って、麦と殻を吹き分けるようにして、麦を御自分の倉におさめ、殻は、おさまることのない火で焼き払われると、ここで宣言しているのです。
 洗礼者ヨハネは、主イエスが再び来られる時、そのような厳しい裁きをなさり、全存在をもって、神へと立ち返った者は、火で純化された者としてお救いになり、そうでない実を結ばない者は、焼き滅ぼされると、私どもに強い警告を発しているのであります。
 しかし、その後、お出でになられた主イエスは、そのような厳しい裁き手としてお出でになられたのではありませんでした。そのようなお厳しい神の裁きを、御自分が十字架におかかりになることによって、引き受けられたのであります。
 私どもは、このようにして、神の恵みを受けて、悔い改め、全存在が神に立ち帰る生き方へと招かれているのであります。クリスマスの祝いを前にしながらも、私どもは、このような主イエスが再び終わりの日にお出でになられることを待ち望みつつ、日々悔い改めながら、選ばれた者として、終わりの日に備えてつつ歩んでいきたいものです。

アーメン。

2016年12月1日木曜日

「聖書と終末論」[作家の方法](小川国夫著)

―最近読んだ本からー
「聖書と終末論」[作家の方法](小川国夫著)
    岩波書店1987730日 第1刷発行1100円)
 一人の文学者が聖書を自分の眼で読み、説き明かししている。私は、牧師として、どうしても注解書に頼りながら、聖書を、特に新約聖書は原文に立ち返りながら読むことで、木を見て森を見ずになりがちである。しかし、小川国夫は聖書の生き方、終末論という大きな羅針盤をもとに、聖書の深いところに洞察を深めていく。この世界の終わりに、神が裁判をしてくださり、すべてが明らかにされる。たとえば、あのゴッホの絵を見て、そこに聖書の終末観が明らかに見て取れるという。あるいは、同じ文学者の中、たとえば、ドストエフスキーの作品に聖書の終末論が貫かれていると見ている。終末というテーマが、旧約聖書、そして、新約聖書を読む鍵であると洞察している。そして、たとえば、預言者エレミヤの中に、そして、イエス・キリストの中に、また、使徒パウロの信仰の大逆転を経ての宣教の中に、あるいは、ヨハネの黙示録において、終末、神が終わりのときに裁判をして、この世界の白黒をつけてくれるとの堅い約束・預言への信頼を見て取っている。小川国夫のような聖書の骨髄を見抜く眼を養いたいものである。

「風浪・蛙昇天」(木下順二戯曲選Ⅰ 木下順二作)
        (岩波文庫200575日第4刷発行)
「風浪」 木下順二といえば、高校2年のとき、現代国語で習った「夕鶴」を思い出す。「風浪」は、木下順二の処女作といってよい。故郷熊本弁でこの戯曲は描かれている。私も、熊本市に1年住み、水俣市に4年住んだので、明治初年のころの題材になっているとはいうものの、懐かしく、一気に読ませられた。木下順二については、よく知らないが、熊本バンドを背景にした時代物である。キリスト教に対しては、晩年であろうか、ある距離を置いていたとも聞いているが、明治の時代にあって、青年たちが日本の国を新たに背負って立とうとするなかでの苦悶が記されている。現代の若者たちは、この戯曲をどのような思いで読むことだろうか。それにしても、良く熊本弁が息遣いまでぴったりと表現されている。言葉を紡ぎ出すとよく言われるが、この作品のようなものを、指して言うのだろう。

「蛙昇天」蛙たちを、主人公にして、1950年代頃の冷戦体制を背景として、ユーモラスに描かれた、今度は、現代の歯切れにいい東京弁で描かれた痛烈な、時代批評というべき戯曲である。こんなに戯曲が読みやすく、面白いものだとは知らなかった。木下順二は、今、2016年の日本に対してなら、どのような戯曲を書くことだろうか。一回の牧師にとっても、考えさせられる作家である。今の時代に何をこの作品は訴えかけているのだろう。

2016年11月20日日曜日

「子供たちを祝福なさる主イエス」(ルカ18:15~17)

ルカによる福音書第1815-17節、20161120日(日)、幼児・児童祝福式礼拝(典礼色―緑―)

 ルカによる福音書第1815節~17
 
 イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」



  説教「子供たちを祝福なさる主イエス」(ルカ181517

 今日は、幼稚園の園児や、卒園生、教会学校のお友達等をお招きし、また、その保護者の皆さまにも、少なからず来ていただいて、幼児・児童の祝福式の礼拝を持っております。
 先ほど、ご一緒に朗読したルカ福音書の記事には、人々が、主イエスに、その乳飲み子たちにも、触れていただこうとしてやって来ていたとありました。おそらくお母さんたちが連れて来ていたのでありましょう。
 今朝のこの礼拝にも赤ちゃんが何人か連れられてきています。1歳にもなりますと、はいはいから初めて歩き始めます。それは、世界が変わるような出来事だと言います。途中で、こけたりして失敗しますと、もうそうなるまいと伝え歩きをして、幼稚園の玄関を、後ろ足から降りていく。そんなけなげな赤ちゃんの姿も見られました。
 ところが、今日のエピソードでは、これを見た弟子たちは、叱り始めたとあるのです。
 エルサレムへの旅の途中です。俄かに弟子たちもムードが違ってきていることを、察知していたころであります。乳飲み子に祝福を祈ってほしいと言っている場合ではないと思ったのでしょう。
 しかし、主は乳飲み子たちを呼び寄せて、言われたのです。私の所に来ることをそのままにしておきなさい。彼らを妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものだからだと。
 神の国とは、難しく思われることでしょう。それは、神が臨在しているところ、あるいは、神がすべてを統治なさっている、神の御心にかなっているということであります。主が来られて、福音が訪れ、恵みの救いが成就しているところであります。
 乳飲み子を始め、子供は、偏見がなく、自分が無力であることを知っています。そして、母親に、あるいは父親に、そして、神に対して、寄りかかって生きるしかありません。助けられなければ、生きていけないことを、幼子たちは示しています。
 その幼子たちを、主イエスのもとへと、触れていただき、祝福を祈って欲しいと母親たちが考えたのも、無理のないことであります。今日では、乳飲み子や、1、2歳の赤ちゃんは、しっかりと母親が触れることが大事だと言われています。3歳から上になると、言葉が良く分かってきますから、その子のいうことに耳を傾け、親や大人たちからも、十分な言葉かけが必要だと言います。
 そのようにして、幼少期を愛情をいっぱい受けて育った子供は、大人になったら、その愛情を、周りの人たちに返すようになると言います。どんないつらいことがあっても、失敗するようなことがあっても、幼時のときに基本的信頼を培われていた子供は、試練を乗り越えていくと、考えられるのです。
 主は、今日の出来事の最後に、よく、あなた方に言っておくが、子供のように神の国を受け入れるものでなければ、決して、だれも、神の国に入ることはできないと言われるのです。今日のルカの聖書個所のすぐ前には、神殿から返って行った徴税人と、誇らしげに祈ったファリサイ派の人の祈りが出ています。
 主はその譬えの結論として、言っておくが、義とされて帰って言ったのは、実に徴税人のほうであったと教えられ、だれでも自らを高くする者は、低くされ、自らを低くする者は、神によって高くあげられると宣言されているのです。
 自分を低くする子供のように、私たちも、あるべき姿に立ち帰って、新しい生き方を、今日のこの子どもたちの祝福式の礼拝から、改めて始めたいものであります。
                      アーメン。


2016年11月10日木曜日

「み言葉を行う人になりなさい」(ヤコブ1:19-27)

ヤコブ12220161107、園合同礼拝

ヤコブの手紙第119-27

 わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。
 御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。しあkし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。
 自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。


説教「み言葉を行う人になりなさい」(ヤコブ119-27

 ヤコブの手紙という聖書には、「み言葉を行う人になりなさい」と書かれています。み言葉は、人を真実に生まれ変えさせる力がありますが、それを聞くだけで、行わない人もいます。
 しかし、今日のみ言葉を書いたヤコブという人は、み言葉を聞くだけの人に終わらず、それを行う人になりなさいというのです。そして、み言葉を行うとは、聞くのに速く、話すのに遅く、怒るのに遅いことであるというのです。
 私どもはしばしば、その逆になりがちであります。しかし、それでは、神の義は進まないと、ヤコブは言います。
 そして、み言葉を聞くだけで、行いにまで行かない人は、自分の顔を、鏡の中におぼろに眺めて、そこから出て行くとすぐに、自分の顔がどうであったのかを、忘れてしまう人のようだと言います。言わば、み言葉は、練習をして、それを覚えるよう実行していくことが、不可欠であると、ヤコブは言っているようです。
 そして、完全な、自由を与える律法を、見つめて、それにとどまる人は、ただ聞いて、すぐに忘れてしまう人ではなくて、ふるまいにおいて行う人であり、その人は、その行いにおいて、祝福されるであろうと、言っています。キリストの教えという、まことの律法にとどまる人、そして、聞いてすぐ忘れる人にならないで、その教えを行う人はだれでも、どのような人でも、必ず幸せになれると、この手紙の著者、ヤコブは、私ども一人一人を残らず、絶望することもないように、励まし招いているのであります。
 確かに信仰は、私どもが耳にたこができるほど、聞かされているように、み言葉を、聞き、信じゆだねることがなければなりません。しかし、み言葉は、それを行うことをも生み出す力があるものであります。み言葉を聞いて、それを行わないということは、鏡で自分の顔を見て、そのあとすぐ、それを忘れてしまう人のように、自分を欺いているのだと、ヤコブは言うのです。
 そして、最後に、礼拝とは、自分の口にくつわをかけることができ、そして、自分の心をそのおもむくままにはさせないものであるとまで、ヤコブは、み言葉を行うという意味を具体化して言っています。
 そして、それを、さらに推し進めて、清い、汚れのない真の礼拝とは、悩みの中にある孤児と寡婦を助け、訪問し、この世界から、自分を一点のしみもなく守ることであると、私どもに奨めているのです。
 「み言葉を行う人になりなさい」と、ヤコブは奨めています。聞くだけの人に終わるのではなく、私たちの心に植え付けられた、私たちの魂を救う力のあるみ言葉を、へりくだった心で受け入れ、そして、あらゆる下品と過度の悪を、脱ぎ捨て去って、キリストを着る者とさせていただきましょう。アーメン。


2016年11月1日火曜日

「神の宮を主にささげよう」(ヨハネ2:13-22)

ヨハネによる福音書第213-22節、20161030日(日)、宗教改革主日(典礼色―赤―)、列王記下第228-20節、ガラテヤの信徒への手紙第51-6節、讃美唱46(詩編第461-12節)

 ヨハネによる福音書第213節~22
 
 ユダヤ人の過越際が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか]と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。



説教「神の宮を主にささげよう」(ヨハネ213-22

 今日は、宗教改革を記念する主の日の礼拝であります。来年20171031日で宗教改革500年祭となります。ご承知の通り、15171031日に、ローマ・カトリック教会の一修道僧であったマルティン・ルターが、当時の贖宥券、いわゆる免罪符に反対して95か条の提題を、ヴィッテンベルクの城教会に貼り付けたことに端を発して、宗教改革が期せずして、ヨーロッパに広がっていったのであります。
 その95か条に書かれていた一つのことは、キリスト者の全生涯は、悔い改めの毎日の連続であるということであります。すなわち、私どもは、行いにより、功績を積むことによって、神の前に義とされることはなく、ただ恵みによってのみ、義とされるというのであります。
 今日の福音、ヨハネ福音書第2章13節から22節が、この日に与えられている意味について、しばらくご一緒に考えてみましょう。
 それは、過越祭が近づいている頃のことでありました。そのとき、主イエスは、エルサレムへと上っていかれます。いわゆる神殿から商人を追い払うという出来事が起こったのであります。他の福音書記者たちとは違って、ヨハネ福音書記者は、このことが公生涯の始めに起こったとしています。この出来事によって、新しい救いの時代が来たと、記者ヨハネは言いたかったのであります。
 他の記者たちは記していない、縄で、主イエスは鞭を作られて、神殿の境内から売られていた犠牲の羊や牛を追い出し、両替人の台をひっくり返し、鳩を売っている者たちに、そのようなものを、ここから運び出せ、私の父の家を、商売の家にしてはならないと現実行動に出られたのであります。
 なぜ、主は、その最初の舞台と言ってもいい、このときに、そのようなとっぴとも思われる行動に出られたのでしょうか。
 宗教改革500年祭を、世界の教会が、今祝おうと準備しています。宗教改革といいますけれども、実は、それは当時の社会の改革でもありました。
 当時はびこっていた迷信を打破し、不条理な高利貸しを禁じ、貧しい人たちの共同基金を設けたり、学校制度を創ったりしていったのです。
 今日の福音の記事における主イエスのなさったみ業、語られた数少ないみ言葉も、神の御心が、当時の神殿礼拝の中で改められていったことを示しているのではないでしょうか。
 弟子たちは、主イエスのふるまいを見ながら、「あなたへの熱心が、私を食い尽くすだろう」との詩編の言葉を思い出したとあります。しかし、その主がなさったことの意味は、実際には、主イエスの十字架の死と復活の後に、聖霊が降って初めて、初めてその真意が弟子たちには分かったのではないか。
 この主のふるまいに対しては、ユダヤ人たちは、それなら、しるしを見せていただきたいと言いました。主は、この神殿を壊してみよ、私は三日でそれを立て直してみせると答えられました。
 記者ヨハネは、それは、御自分の体のことだったのであると記しています。この神殿とは、ナオスという言葉で、聖所、神のいますところという意味の字が使ってあります。主イエスご自身が、家造りらには捨てられたが、隅の親石となってくださるのであります。
 主イエスが神の小羊として、ただ一回のいけにえとして、やがて十字架の上でささげられるのであります。
 そして、エルサレムの神殿ではなく、主イエスにおいて、真実と霊とにおいて礼拝がされるようになることを、今日の記事は示しています。今や神の宮として、教会が、主にささげられる、新たしい救いの時代に、このときから入ったのであります。
 そして、主イエスが、神殿から、商人を追い出し、すべてを聖別されたように、私どもも、礼拝・信仰生活のみならず、日常生活も、職場も、家庭も、社会に向かっても、神の御心に適ったようにふるまうべきことが、求められているのであります。キリスト者の全生涯が悔い改めであると、マルティン・ルターが宣言したことの意味は、そのようなものであります。そして、今日の主イエスのふるまいと、み言葉は、そのような恵みと、そして、裁きの両面に私どもを導くものであります。来年、改革500年を迎える、神の宮である教会を、主にささげる喜びを、この日共に祝いたいと思います。
                  アーメン。



2016年10月21日金曜日

「私どもは、神を誇り喜ぶ」(ローマ5:6-11)

ローマの信徒への手紙第56-11節、20161021、聖研・祈祷会

 ローマ56-11

 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。



メッセージ「私どもは、神を誇り喜ぶ」(ローマ56-11

 私どもは、先回、ローマ書第5章に入り、信仰のみによって義とされた私どもは、キリストを通して神に向かって既に平和を得ているとの使徒パウロの言葉、ぶっつけるような信仰の宣言のみ言葉を聞きました。
 そこで、パウロは、私どもは、それ故に、苦難をも誇ると言い、なぜなら、苦難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を、そして、練達は、絶望することのない希望をもたらすからであると言いました。それは、なぜなら、イエス・キリストを通して、また、聖霊の力で、今もなお、神の愛が私どもの心に注がれているからであると宣言していました。
 今日は、それに続いて、それをさらに深く説き明かします。で、なぜなら、私どもが、私どもがまだ弱かったときに、定められた時に及んで、キリストはその私どものために死んでくださったからであるというのです。
 正しい人のために死んでもいいという人は先ずいません。善い人、これは見事な人といった意味ですが、私どもに大きな益を与えてくれた人といった場合でしょうか。あるいは親友のことを考えてもいいでしょうか。そういう大事な人のためなら、あるいは死ぬ人もいるかもしれません。
 けれども、神は、私どもが神の敵であるとき、罪人であるときに、神の子であるキリストを死なせることをなさったのです。それは、私どもの思いも及ばぬ出来事であります。
 そして、パウロは言います。私ども闇に属していた、神に敵対していた者が、キリストの死によって、義とされたのなら、ましてや、信じて、新しい生活に入った私どもが、キリストの命において、神と和解させられた私どもがなおさら、救われるのは間違いないのだと。
 そして、そればかりか、私たちの主イエス・キリストを通して、彼を通して和解を受けた私どもは神において誇る者であるというのであります。
 神を誇るとは、神を喜ぶとも訳すこともできる深い意味が込められています。
私どもの功績や力によって神の前に義とされたのではなく、私どもが、不信心な者をも義とする方を信じる者は、たとえ働きがなくても、その信仰が義と認められる(ローマ書第45節)とは、自分のありのままを受け入れ、それが神によって受け入れられている。自分の弱さ、あるいは落ち度や挫折をそのまま認めて、自分の罪のために、キリストが死んでくださったことを、喜び、誇るに至るのであります。
パウロも、ファリサイ派の中のファリサイ派、ユダヤ人の中のユダヤ人と誇ることのできた人物ですが、今ではそれを糞土のように思っており、また、神によって、サタンの使いによって与えられた体の棘を取り除いてくださいと三度も祈ったが、キリストの力はあなたの弱さにおいて現れるとの天よりのみ声を聞き、ついに弱さを誇り、主を誇る者へと変えられていったのであります。神と和解させられた私どもは、その和解を世に告げ知らせる務めをも与えられているのであります。喜んで、主が私どもの上になさったみ業を誇る者にならせていただきたいものであります。
        アーメン。   







2016年10月20日木曜日

「私どもはいかに生きるべきか」(コヘレト10:1-20)

コヘレトの言葉第101節~20節、20161020、英語で聖書を読む会

コヘレトの言葉第101-20

 死んだ蝿は香料作りの香油を腐らせ、臭くする。
 僅かな愚行は知恵や名誉より高くつく。
 賢者の心は右へ、愚者の心は左へ。
 愚者は道行くときすら愚かで
 だれにでも自分は愚者だと言いふらす。
 主人の気持ちがあなたに対してたかぶっても
 その場を離れるな。
 落ち着けば、大きな過ちも見逃してもらえる。
 太陽の下に、災難なことがあるのを見た。
 君主の誤りで
 愚者が甚だしく高められるかと思えば
 金持ちが身を低くして座す。
 奴隷が馬に乗って行くかと思えば
 君候が奴隷のように徒歩で行く。

 落とし穴を掘る者は自らそこに落ち
 石垣を破る者は蛇にかまれる。
 石を切り出す者は石に傷つき
 木を割る者は木の難に遭う。
 なまった斧を研いでおけば力が要らない。
 知恵を備えておけば利益がある。

 呪術師には何の利益もない。
 賢者の口の言葉は恵み。
 愚者の唇は彼自身を呑み込む。
 愚者はたわ言をもって口を開き
 うわ言をもって口を閉ざす。
 愚者は口数が多い。
 未来のことはだれにも分からない。
 死後どうなるのか、誰が教えてくれよう。
 愚者は労苦してみたところで疲れるだけだ。
 都に行く道さえ知らないのだから。

 いかに不幸なことか
 王が召し使いのようで
 役人らが朝から食い散らしている国よ。
 いかに幸いなことか
 王が高貴な生まれで
 役人らがしかるべきときに食事をし
   決して酔わず、力に満ちている国よ。

 両手が垂れていれば家は漏り
 両腕が怠惰なら梁は落ちる。
 食事をするのは笑うため。
 酒は人生を楽しむため。
 銀はすべてにこたえてくれる。
 親友に向かってすら王を呪うな。
 寝室ですら金持ちを呪うな。
 空の鳥がその声を伝え
 翼あるものがその言葉を告げる。



メッセージ「私どもはいかに生きるべきか」(コヘレト101-20

今日の個所、コヘレトの言葉第10章は、複雑というか、知恵の言葉を、コヘレトは、ここにまとめて記録しているように思われる。賢者と愚か者、王と奴隷、不幸な国と、幸せな国といった類で、思いつくままに、ここにコヘレトは、ていねいに収録しているのであろうか。
しかし、今日の記事も、やはり、コヘレトらしい気風が感じられるのである。箴言の著者や、ヨブ記のヨブの思想、信仰とは一味違う、コヘレトらしさを、ここでも私どもは味わうことができる。
今から、2000、数100年も前のコヘレトがここに記してる言葉は、今もなお、力を失ってはいないのである。
蛇の呪術師が、先に蛇にかまれては、呪術師としての報酬をえることはできない。木こりが、斧の頭が間違ってはずれて、死や大きな傷害をもたらす危険がある。
あるいは、私は、奴隷が馬の背にまたがって行くのを見、王が徒歩で歩いていくのを見たという。知恵は、愚かさに、もちろんまさるのであるが、必ずしも知恵が思い通りに勝ち取っていくわけでもないと言う。
今日の記事でも、コヘレトは、人は死後どうなるのかだれも分からないと語り、与えられた仕事を精一杯こつこつとこなしていくのが幸いだと言っているのである。怠け者の屋根は漏り、うなだれた手で無気力に過ごす愚かさに警鐘を鳴らしている。
そして、食べ物は力を与え、ぶどう酒は、その人の顔を輝かせると言い、宴会も日中の決められた時に、セルフ・コントロールを働かせながら楽しむが良いと、労働と楽しみのバランスをとることを奨めているのである。私どもはともすると偏りすぎる傾向があるのであるが、コヘレトは長い経験から得た知恵、あるいはおそらく、箴言など旧約聖書の知恵から独自の生き方を、黙想しながら体得していったのではないか。
私どももまた、み言葉、聖書の言葉に深く思いを凝らしながら、調和のとれた信仰生活を歩んでいきたいものである。

           アーメン   

「信仰を探し求める神」(ルカ18:1~8)

ルカによる福音書第181-8節、20161016日(日)、聖霊降臨後第22主日(典礼色―緑―)、創世記第3223-31節、テモテへの手紙二第314-45節、讃美唱121(詩編第1211-8節)

 ルカによる福音書第181節~8
 
 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、「相手を裁いて、わたしを守ってください」と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見出すだろうか。」


説教「信仰を探し求める神」(ルカ1818

 ルカ福音書と共に歩んできた、昨年のアドベント以来の出来事もいよいよ終わりに近づいてきています。今日の主イエスの語られたみ言葉も、人の子は速やかに、あるいは不意に、予期しない時にやって来る。しかし、そのとき、地上にかの信仰を、人の子は見出すであろうかとの疑問文で終わっています。
 終末のときが、必ず来る。予期しない時に来る。だから、この主イエスの警告の言葉をむしろ招きの言葉として受け入れ、一見答えがないかに見える祈りを落胆することなく続けるようにとの譬えが、今日の不正な裁判官とやもめの譬えと言われる主イエスが語ってくださった物語であります。
 これは、神の国はどこにあり、あるいは、いつ来るのかとのファリサイ派の人々に対して、神の国は、むしろあなた方の間にあると主イエスがお答えになられた。そして、それに対して、弟子たちが、人の子が来る時にはどんなしるしがありますかと、主に質問しました。
 それに対して、主イエスは、死体のあるところには、はげ鷹も集まるものだと、最後にお答えになった。それに続いて、主イエスが弟子たちに向かって、今日の譬えを語っておられるのであります。それは、絶えず祈り続けなければならないこと、しかも気落ちすることなく、私どもは祈らねばならないことを教えるためでありました。
 ある町に不正な裁判官がいたが、神を神とも畏れず、人を人とも思わない悪徳裁判官であったというのです。そこに、同じくやもめがいて、ひっきりなしにやって来ては、私のために正義を、相手方に対して行ってくださいと願い続けるのです。
 この裁判官は、当初、一向に気にも留めないでいました。しかし、あまりにもしつこく、このやもめは裁判をして欲しいと通い続けてくるので、彼はこう考えたのです。このままほおっておくと、終わりには、目の下に隈をつけられ、さんざん苦しめられることになるので、彼女のために正義を行う裁判をしてやろうと。
 これに対して、主イエスは、この裁判官の言いぐさを聞きなさいと弟子たちに注意を促します。そして、それならまして、夜昼呼び求める彼の選んだ民どもに対して、神は正義を行わないことがあろうかと一転して神が私どもの祈りを聞いてくださることを約束なさるのであります。ルカ福音書第187節の文は難解ですが、これは、たとえ、彼がその選民たちに対して忍耐するとしても、その呼ばわる自分の選んだ者たちに必ず正義を行ってくださるのではないかと主イエスの、私どもに対する祈りへの招きのみ言葉であります。
 そして、主は、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、はたして、この地上に、かの信仰を見出すであろうかと、お問いになるのであります。
 人の子が来る終わりの時は、すぐにも来る、思いがけない時に、終末のときが来ると主は警告し、また、これは招きと慰めの言葉でもあります。決してそのときには、私が期待したような信仰は見られないだろうとの否定的な見方ではない。不正な裁判官さえ、変わるとすれば、どうして、私たちを選ばれた神が、私たちの祈りに答えられないはずがあろうか。必ず、私たちのうめきや訴えをお聞きになってくださるとの主イエスとそのメッセージを受け入れている私ども主イエスの弟子への慰めと励ましへの招きの言葉と言っていいのです。そして、今日の出てきた、ひっきりなしに不正な裁判官のもとへとやって来るやもめとは、私ども、小さな、そして弱い弟子たちを示していると考えてもいいのです。なりふり構わず、そうせざるを得ないで、勝算もないのに、通いつめたやもめは、私どものありようでもあります。
 この世界の怒涛の中で、私どもは、神に向かってひっきりなしに嘆願し続ける今日のやもめの姿であっていいのです。神はその願いに、たとえ忍耐強く、急には答えてくださらないとしても、終わりの時には、予期しない時に速やかに、私どもを擁護し、正義を行ってくださる。神はそのような私どもの信仰と祈りを探し求めておられるのであります。それに信頼して、雄々しく今週もこの1週間の旅路へと遣わされていきましょう。
アーメン。