2018年4月18日水曜日

「食事に招く復活の主」(ヨハネ福音書第21章1節~14節)


2018415日、復活後第2主日礼拝(―典礼色―白―)、使徒言行録第45-12節、ヨハネの手紙一第11-22節、ヨハネによる福音書第211-14節、讃美唱139(詩編第1391-10節)

説教「食事に招く復活の主」(ヨハネ福音書第211節~14節)

私どもは、4月1日にイースターを祝い、今年は、マルコによる福音書を主たる福音として、読み進めていますので、あの空の墓の出来事、マグダラのマリアたち、3人の女性が、墓の中で白衣の青年から、主はよみがえられて、ここにはおられない。かつて言われていた通り、弟子たちより先にガリラヤに行かれるとの使信を伝えよと言伝を受けたが、彼女たちは、墓から逃げ出し、恐ろしくて、その当時何も、だれにも言わなかったで、その福音書は終わっていたことを聞きました。

そして、先週は、しかし、その後の弟子たちがどうなったのかを、だいぶ後になって書かれた、マルコ福音書第16章9節以下について聞かされました。

そして、今日からはしばらく、マルコ福音書を離れて、ヨハネ福音書から、この復活節から、ペンテコステ、聖霊降臨のころまで、主のご復活の出来事について思いを巡らす時節を歩んでいきます。

今日は、主のご復活を祝う第3の主の日でありますが、先ほど、皆さんとご一緒にお読みした通り、ヨハネ福音書第21章の1節から14節が与えられています。そして、通常は、聖書日課は、第1朗読は、旧約聖書から与えられるのですが、この時期は、第1朗読も新約聖書から、それも使徒言行録から、選ばれています。今日のその個所では、あの怯え惑っていたペトロやヨハネら弟子たちは、公然と、ユダヤの指導者たちに向かって、この世で私たちに与えられる救いは、あなたたちが十字架に付けて殺した主イエス・キリストの名以外には存在しないのですと証しする使徒の姿に変えられているのを知らされるのであります。

また、第2の朗読でも、今日の福音と同じヨハネの名を冠するヨハネの手紙一の出だしからの記事が与えられ、そこで、その記者は、自分たちが手で触り、その目で見た方について、自分は証言している。そして、そのお方、主イエスは、たとえ私どもが罪を犯しても、弁護者として執り成し、赦してくださるので、そのお方のところに助けを求めればよいのだと記しています。
 また、讃美唱として、与えられている今日の詩編第139編の個所も、私どもは、今は礼拝の中では朗読されてはいませんが、主なるお方は、たとえ私どもがどこに行っても、仮に陰府に赴こうとも共にいてくださると主を、心の底からほめたたえる歌が選ばれています。

そして、今日の福音は、ヨハネ福音書第21章は、エルサレムでの主のご復活で終わっていますが、ティベリアスの湖畔での主のご復活の記事となっています。この記事、第21章も、やはり、いったん書き終えられていたヨハネ福音書に、改めて付加されたものだと考えられます。その著者は、だれなのだろうか、また、なぜ、ここに書き加えられたのだろうか。いろいろと考えられ、今でも、それについて決着がついているとは言えないようです。マルコ福音書の第169節以下と同じように、ここでもヨハネ福音書の第21章がどうしても追加して書き残さざるを得ないと、この著者はこれらを記したのであります。

今日の記事は、もとの文を見ますと、「それらのことの後」主イエスはティベリアスの湖の傍で、御自身を、弟子たちにお示しになったと始まっています。ガリラヤ湖畔において弟子たちはご復活の主に再びまみえるのであります。

それは、7人の弟子たちであったと記されています。シモン・ペトロ、双子のトマス、ガリラヤのカナの出のナタナエル、ゼベダイの子ら、それに他の二人であります。

そのときに、ペトロは、自分は漁に行くと言い出しました。そして他の者たちも、では、自分たちも一緒に行こうと言って小舟に乗り込んだ。ところがその夜、一匹も取れなかったのであります。

ところで、弟子たちは、どういう思いで漁に出て行ったのだろうか。絶望して、生業に再びつこうとしてのことだったのだろうか。エルサレムで主のご復活に与り、聖霊も受けて派遣されたけれども、やはり希望を失って落ち込んでいたのだろうかとも、考えられます。しかし、どうもそういうことではないのではないか。

夜通し、漁をしたが一匹も取れないでいました。ところが、岸辺から、まだ朝非常に早いときに、一人の人が立っていて、子らよ、何か食べ物があるかと声をあげるのであります。「何も」と彼らは言うしかありません。すると、その方は、「舟の右のほうに網を降ろしなさい、そうすれば取れるはずだ」と語りかけられるのであります。すると、その通り、大量の魚がかかり、彼らは引き上げることもできなくなります。

そのときに、主が愛された弟子が、あれは主であると叫びます。そして、裸に近かったペトロは、上着を巻き付けて、海に飛び込んだとあります。復活の主に、それまでもお会いしていたのに、ここでの弟子たちは、その声を聞いても、見ても、分からなかったとあるのであります。

残された弟子たちは、やっとのことで多くの魚のかかった網を引きずりながら、舟を岸まで漕いできました。そして、陸に上がってみると、炭火が起こしてあり、その上に魚と、そしてパンもあるのを見出します。復活の主は、あなた方が取って来た魚からも、幾匹か持って来なさいと言われます。

そして、ペトロが舟に上がり、網を引きずって来ると、それは153匹もの大きな魚で一杯でした。漁師たちのよくやることとして、全部数え上げたとみることもできましょう。しかし、それは不思議な数であります。いろいろと昔から考えられてきました。三角数で足していくと17で、153になるといいます。その17107である。7は完全数であり、また、荒れ野で主が5000人を養ったときには5つのパンと2匹の魚であった。そして、残ったパン屑を集めると12の籠に一杯になったなどということとの関連などがこと細かく調べられたりもします。

また、「魚」は、その時代の人々にとって豊かさを示す代表的な存在であり、ここで取れた大きな沢山の魚は、宣教に伴う神の恵みの豊かさを象徴するものであったことは否定できないようであります。また、旧約聖書のエゼキエル書に記されている死海に、さまざまな種類の魚で満ちあふれるようになるとの預言の成就をここに見出そうとする人もいます。

宣教の歩みを、むしろ既に始めていた7人を中心とする宣教が、その多難な実情にもかかわらず、その網は裂けることはなく、復活の主の言葉を通して、不思議な実が与えられていく。その秘儀がここに、既に表現されているとみることができるのであります。

ご復活の主は、奇跡を起こすことのできる、み言葉をもって、弟子たちに働きかけることができるお方であります。そして、彼らを、岸辺で食卓の用意をして待っていてくださる主イエスであります。主は、あなた方が取って来た魚からも、数匹持って来なさいと言われました。少し、7人分としては足りなかったのでしょうか。伝道の合間に、常に親しく食卓を共になさった主であります。そして、最後の晩餐の時には、同じように、パンとぶどう酒を分け与え、十字架におつきになる前に、そのみからだと血とを指し示したのでありますが、ここでは、主のご復活を祝うために、弟子たちにもてなし、用意していて迎えてくださるのであります。

もはや、弟子たちはあなたはどなたですかと、あえて問う者はいなかったとあります。復活の主であることが、このときには、みんな分かっていたからであります。復活の主は、ご自分の弟子たちのところに、そのみ姿を現されます。
 そして、食事を共にし、ここでは、パンと魚ではありますが、聖餐に近い食卓において、主はご自分をはっきりとお示しになるのであります。

 主は、やって来られて、パンを取り、弟子たちにお与えになる、そして、魚も同じようになさる。そこでの会話については、ここでは何も記されていません。

 弟子たちは、ここで再び大きな力を与えられ、慰められることができたと思います。これからも、弟子たち、また、その教会につながっていった弟子たちには、迫害があり、多大な困難に出会い、打ちひしがれそうになった時も少なくなかったと思いますが、この日の大量の漁の出来事、そしてそれを可能にした復活の主との再会、そして共にしてくださった朝食の出来事を通して、彼らは、復活の主の宣教に明け暮れることができたのではないかと思います。

 どうしても、ここガリラヤ河畔での復活の主とのこの奇跡的な出来事と出会いとを、この福音書に書き加えないわけにはいかなかったのであります。今日は、飯田ルーテル幼稚園の、2018年度のこの認定こども園としての4年目に入る教職員16名の就任式の礼拝でもあります。このご復活の主イエス・キリストが、この一年の園の運営と働きのために、先だって励まし、導いて下さることを信じゆだねつつ、説教を終えたいと思います。一言祈ります。

 天の父なる神さま。
 
世界では、シリアに、欧米国が反撃を加えるなどといまだに戦争や紛争が絶えませんが、その指導者たちの上にも、み言葉に立って解決するよりよき道と知恵とをお与えください。また、飯田ルーテル幼稚園とそれを支える飯田教会のためにも、復活の主が共にいてくださって、特にここで過ごす幼子たちに、あなたとその独り子イエスのお守りと助けが常にあることに信じゆだねて生きてゆく者となりますように、特にここで働きます先生方を強め励ましてください。この感謝と願いを、主イエス・キリストのみ名によって、おささげします。
アーメン。


                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                       

2018年4月10日火曜日

「新しい言葉を語る」(マルコ福音書第16章9節~18節)


201848日、復活後第1主日礼拝(―典礼色―白―)、使徒言行録第311-26節、ヨハネの手紙一第51-5節、マルコによる福音書第169-18節、讃美唱148(詩編第1481-14節)

説教「新しい言葉を語る」(マルコ福音書第169節~18節)

復活節を迎えて、二回目の主の日である今朝は、第1朗読ではめずらしく旧約聖書の日課ではなくて、使徒言行録から、み言葉、ペリコペーが与えられています。

それによると、使徒たちは既に、主のご復活に出会い、聖霊降臨の出来事も経て、あの怯えきって、逃げまどっていた弟子たちとはその様相を、一変し様変わりしている姿がうかがえます。ペトロは、足なえをいやし、それまでとは別人のように、それをみて驚いている群衆に向かって、「これは、私の徳や生まれながらに持ち合わせている力や才能によってなしたのではない。そして、この足なえの人が立って歩んでいるのは、復活の主イエス・キリストの名によって、可能になったことなのだ」と勇ましく復活の主を説き明かしする使徒に変えられているのを、私どもはここに見出すのであります。

第二の朗読も、ヨハネの手紙一から取られており、復活の主を知る兄弟姉妹として、私ども、教会の体の枝である一人ひとりは神から生まれた子として愛し合おう、それは決して難しい掟ではないと記者ヨハネは、復活節を祝っている私どもに励まし促す奨めをなしているように思われます。

また、私どもの今の礼拝では、まだ朗読されていませんが、参照として週報にも載せています今日の讃美唱148すなわち、詩編第148編は、すべてのものは主を賛美せよと、主のご復活の喜びを、自然の被造物も、また、老いも若きもすべての者は主をほめたたえよと、喜びの叫び声であふれています。新しい式文では、讃美唱も、毎週の礼拝で取り入れられる可能性があり、ちなみに、毎週の礼拝が、聖餐礼拝になる可能性が、この5月の連休に二年一度で開かれる全国総会で、話し合われることになっています。

さて、今日の福音は、先週に引き続くマルコ福音書第169節から18節が与えられています。先週のイースターの礼拝では、マルコ福音書がそこで完結していたと考えられている、第161節から8節までが与えられていました。そこでは、直接の、復活の主イエスとの弟子たちの出会いは記されていなかったのであります。ただ、安息日の始まる前の日没前に慌ただしく、アリマタヤのヨセフが十字架の主のなきがらを、ポンティオ・ピラトから申し受けて、墓に納めたのを見とどけていたマグダラのマリアたちが、安息日の終わった翌朝早く、墓に香料を塗りにやって来た。

ところが、あの墓の戸口をふさいでいた大きな石は、既に転がしてあり、中に白衣の若者がいて、ここにはいない、あの方は起き上がらされた、ここをみなさいと告げられ、かねてあの方が言っておられたように、弟子たちよりも先にガリラヤに行かれることを伝えるように、告げられた。

しかし、彼女らは、ただ恐れと自失に捕らわれるのみで、驚きつつ、墓の戸口とから逃げ去った、そして、当時誰にも、なにも告げなかった。なぜなら、彼女たちは恐れさせられていたからである、で完結していたのであります。

マルコ福音書のオリジナルは、そこで終わっていたと考えられるのであります。そして、今日の福音の日課である第169節以下は、新共同訳聖書でも、結び一、さらに、別の結び二となっており、これらは、かなり後になって、マルコ福音書の教会につながる者が書き加えたとされるものであります。

そのような後代の付加を、この復活節の大事なその第2主日のペリコペーとしてどうして、あえて今日読むようにと、先週の個所に引き続いて与えられているのでしょうか。

それは、先週の個所で、復活をあのような形で知らされた私ども、主イエスの弟子たちは、では、そのあとどのように信仰生活を送っていけばいいのか、その一つの答えがここに記されたと考えていいのではないでしょうか。聖書は旧約聖書の39巻と新約聖書27巻の合計66巻が、そのみ言葉には少しでも付加されたり、削除されたりしてはならないとされる正典として、公会議での決定やそれを導いた聖霊によって示されたものであるとされます。

しかし、今日の個所は、本来、168節までで完結していたものを、かなり後の時代になって、やはり、主のご復活の出来事と主から託されたみ言葉をこうであると示された、マルコとは別のずっと後の弟子によって書き記され、ついには、マルコ福音書の一部と認められ、正典の一角に位置付けられたものと言えます。

さて、今日の福音は、このように記されています。まず、やはり、マグダラのマリアに、安息日からの第1日目、すなわち今の日曜日、週の初めの日朝早く、ご復活の主は、その体をもって見えるようにご自身を示された。
次に2人に別の形でそうなさった。そして、最後に、ユダをのぞく11弟子たちにも、その食事中の席にご自身をあらわされたと簡潔に記されていくのであります。復活の主に出会った弟子たちの数は、しだいしだいに増えていきます。

しかし、それを聞いた弟子たちは、常に一貫して、それを信じられなかったと、今日の福音は繰り返し強調しています。なかなか復活の主を信じることができないでいる。それは、人間に共通することであり、2000年前の弟子たちも、今の私たちも同じではないでしょうか。

そして、マルコ福音書第168節までの弟子たちと同じ姿、主イエスに対して無理解である弟子たちの同じ姿が、ご復活の主に出会った後のここでも続いているのです。

まず最初に、マグダラのマリアは、主とのその出会いを、彼と一緒に成っていた者たち、そして、嘆いており、泣いている者たちに伝えました。しかし、彼らは、信じゆだねなかったとあります。主イエスの弟子たちのことを、彼と一緒に成っていた者たちと書かれています。主イエスにすべてをゆだねて、漁師などの生業も捨てて、一切をかけて、とにもかくにも、エルサレムのここまで従ってきた。しかし、弟子たちの夢は、主イエスの十字架上の死によって無残にも破れていたのであります。そして、主を失った彼らは、羊飼いのいなくなった羊のように、嘆き悲しむ者となっていた。そのような時には、容易にはたとえ、それがまことの朗報であっても、私どもは聴く耳を持たないものであります。

さて、二番目には、畑、農場を進んでいた二人の弟子たちに、別の形で、主は自らをお顕しになられました。いうまでもなく、エマオに向かう弟子たちへの顕現であります。そして、彼らは引き返して、残りの者たちにそれを伝えたが、彼等も信じゆだねはしなかったと記されているのであります。

そして今度は、最後の、食事の席についている11人に、主イエスは見えるように、御自身を示されるのであります。そして、ここでは、起き上がられた主を見た者たちに、彼らが信じゆだねなかった、その不信仰と心の硬さを𠮟責なさったのであります。どうしても復活の主を信じゆだねきれないでいる弟子たちを、面と向かって、最後にはお叱りになられる。復活の主の側から、直接ただされないと、受け入れることができなかった弟子たちが記されているのであります。

しかし、そのところから、今度は一気に、主は、彼らを世界宣教へと押し出されるのであります。驚かされる急転回です。あなた方は全世界へと出て行って、すべての被造物に、福音を告げ知らせなさいと命じておられる。私たちの聖書では「すべての造られたものに」と訳されています。告げる相手は通常は人間でしょうが、すべての神が造られたものに告げよともとることができます。
アダムとエヴァの堕罪によって、全被造物が罪に陥った、その全世界に、復活の主のよき訪れを、あなた方が告げよと言われるのであります。


そして、こう宣言されます。信じた者、そして洗礼を受けた者は救われよう。しかし、信じなかった者、不信仰なままだった者は、罪に定められようと。祝福からはずされ、宣告されるとまで、はっきりと言われています。私どもの願いは、ご復活の主イエスのこのみ言葉を証して、一人でも多くの、私どもの出会います人たちが、信仰を告白し、洗礼に与るに至ることであります。そしてまた、いったん信仰を受け入れ、洗礼を受けた人が、主の御言葉、福音を聞き続け、礼拝につながり続けることであります。

復活の主のこの約束を、常に胸に置きながら、私どものあらゆる生活、ふるまい、働きは、そこを目指しつつなされるべきものでありましょう。

さて、続いて、主は、信じゆだねた者たちには、次のようなしるしが伴うであろうと、約束なさいます。すなわち、彼らは、私の名において悪霊どもを追い払い、新しい言葉をしゃべるだろうし、その両手で蛇を持ち上げ、彼らは何か致命的な毒を飲んでも、彼らを害することはないだろうし、病人どもの上に、その双方の手を置けば、彼らは健康を取り戻すであろうと記されています。

ガリラヤで、12使徒が宣教へと派遣されたときと同じようでありますが、ここでは特に、彼らは新しい言葉を語るということと、蛇をもちあげ、毒を飲んでも死ぬことはないということが新たに加えられています。
 蛇を振り払い、損なわれることはなかったとは、使徒言行録の終わりの第28章で、マルタ島で、パウロの手に焚火の火からあぶりだされた蛇が絡みついたが、損なわれ死ぬことはなかった記事が思い起こされますが、毒を飲んでも、損なわれることがないといった聖書の記事は見当たりません。復活の主を信じる者は、たとえ死んでも生きると、ヨハネ福音書において、ラザロの復活の時に言われた主イエスのお言葉から、あるいは来ているのでしょうか。

そして、彼らは新しい言葉を語るというのは、原文では新しい舌でもってしゃべるとありまして、異言を語る場合などに用いられるいい方であります。しかし、要するに、復活の主に出会い、それを信じゆだねるようにされた弟子たちは、それまでとは全く違ったあたらしい意味合いの言葉を語れるようになるということではないでしょうか。たとえ、たどたどしくであっても、主イエスのご復活を信じる者として、新しい生き方ができるようになり、それを今までになかった新しい言葉で、人々に証しする者とされていくということではないでしょうか。

復活後の弟子たちも、まったく恐れから、あるいは失敗から、挫折から解き放たれたということではなかったでしょう。迫害の中で死を遂げた者は恐ろしかったことでしょう。しかし、彼らは、弱さや欠点、さらにはパウロの言っている、サタンによって、思いがらないように遣わされた使者としての体のとげのようなものを、負わされていたとしても、喜んで、復活の主に仕えて者に生涯を通して変えられていったのではないでしょうか。そして、それが、今の弟子である私たちにも言えることではないでしょうか。

今日のペリコペーとしてのみ言葉は、18節までとなっていますが、この結び 一の残り2節では、この復活の主が、天にあげられ、弟子たちがそのあと喜んで宣教していったことが記されています。

すなわち、「この主イエスはこれらのことを、彼らにしゃべられた後、天に上げられ、神の右の座に座られた」とあります。そして、彼らは出て行って、いたるところで宣教したが、かの主が共に働かれて、その言葉が、その伴うしるしどもを通して真実であることをお示しになったと書いて、この結び 一は閉じられているのであります。

これは、復活の主を知り、信じゆだねた者たちが付け加えた、自分たちの信仰の記録であります。そして、それは、2000年を隔てて、今主のご復活を信じて歩む私共のためのみ言葉であります。一言、お祈りをいたします。

主イエス・キリストの父なる神さま。

復活の主によって変えられていった弟子たちが、主から聞かされたみ言葉を、今日は与えられました。この復活の主を通して、私どもにも新しい言葉を語らせて下さい。そして、主によって指し示されます新しい生き方を、なしていくことができますように、弱い私どもを助けてください。そして、あなたのみわざを宣べ伝える器として用いさせてくださいますように。主のみ名によって祈ります。
アーメン。

2018年4月6日金曜日

―最近読んだ本からー「『キリスト者の自由』を読む」


―最近読んだ本からー「『キリスト者の自由』を読む」
ルター研究所 編著
 発行者  大石昌孝
 発行日 2016101
 発行所 有限会社 リトン
定 価 1000+
 日本福音ルーテル教会が、宗教改革500記念で、ルター研究所に依頼して、出版された、記念図書4冊のうちの1冊である。いわゆる「キリスト者の自由」の徳善先生による抄訳が最初に記され、主要テーマをめぐって、ルター研究所員6名のまとめた論稿が中心となっている。そのテーマとは、①自由、②律法と福音、③信仰義認、④全信徒祭司性、⑤信仰と好意、⑥愛の奉仕の6つであり、これは、2016年のルターセミナーでの先生方の発題がもとになっている。この1冊に、マルティン・ルターの神学が凝縮して、紹介されていると言っていいのではないか。信徒にもわかりやすく書かれているが、ルターが生涯をかけて伝えようとしたことの神髄が、この本1冊を読めば大体理解できると思われる。
 ある篤信の信徒の方は、もうこの本を4回は精読したと言っておられた。ルターは、カルヴァンのように体系だった組織神学といえるような詳細で綿密な教科書的なもの、たとえば「キリスト教綱要」(全7巻、新教出版社、渡辺信夫訳)のようなものは生涯残していない。あえて言えば、この短いが最も有名な「キリスト者の自由」が、1520年、彼がまだ37歳のころの宗教改革(15171031日、95箇条の提題)直後ではあるが、彼の神学の要約といえよう。「キリスト者の自由」そのものは、徳善先生の幾つかの訳のほか、岩波文庫「新約 キリスト者の自由 聖書への助言」(石原謙訳)が入手できる(518円)。 「キリスト者は、すべてのものの上に主、君主である。」「キリスト者は、すべてのものに仕えるしもべである。」このあまりにも有名な2つのテーゼの上に、ルターは、キリスト教の神髄を伝えようとしている。最初の部分は、神学そのもの、救いがどのように私どもに与えられているか。信仰のみで救われるということが聖書によって説き明かされる。そして、終わりは救われたキリスト者はどのように生きるか、愛の奉仕に生きることが示されていく。信仰のみにより、あくまで恵みによって既に救われているのであるが私たちは肉体をもってこの世の中で生活していかざるを得ない。完全に清くなったわけではなく、毎日の言葉と良き行いにおいて、信仰を表し終わりの日まで周りの人々にそれを証ししていくしかない。私たちは全ての者の主であり、故に全ての者の僕なのだ。

2018年4月3日火曜日

「聖なる恐れ」(マルコ福音書第16章1節~8節)


201841日、復活祭聖餐礼拝(―典礼色―白―)、イザヤ書第256-9節、コリントの信徒への手紙一第1521-29節、マルコによる福音書第161-8節、讃美唱118/1(詩編第11814-24節)

説教「聖なる恐れ」(マルコ福音書第16章1節~8節)

 私たちは、灰の水曜日の礼拝から、昨日まで、日曜日、主の日を除く40日間を、四旬節、受難節と呼び、また、レントと呼び習わしている教会暦の時を過ごしてきました。そして、先週は、いよいよ主イエスが、十字架におつきになる受難週を、木曜日の洗足聖餐礼拝と、受苦日の礼拝を、ごく少数の仲間でありましたが、皆さんの代表として守って、今朝のイースターの礼拝を祝っています。

そして、今日与えられている日課は、いづれもこの日にふさわしいみ言葉であふれています。イザヤ書第25章の個所では、やがてメシアがお出でになり、すべての人の涙をぬぐい、死をも滅ぼしてくださるとの約束の預言が記されています。これは、今日先ほど一緒に読みました、マルコ福音書の出来事において、実現されたと言っていいのであります。人類の初め、創世記の始まったばかりのところでアダムとエヴァが犯した罪、それにより死が私どもの避けることのできない、だれにも訪れる結末となったのでありますが、既にその所で、主なる神は、二人に向かって、あなた方の末から、罪をそそのかしたサタン、蛇の頭を砕く者が与えられ、一方、蛇はその者の踵を砕くと祝福の約束をなさっておられました。

そこから、人類の歴史が始まり、神の民イスラエルの苦しまされる歩みも続いていったのでありますが、それに神が終止符を打たれる時がくると、イザヤはここで預言しているのであります。そして、旧約聖書とは、メシアが苦しまれるお方であることを、預言者たちへの迫害や、義人の苦しみなどを通して、預言し、証言し、また約束している、神の私たちに対する旧い契約なのであります。

それに対して、その旧約が実現したというのが、新約聖書であります。既に旧約聖書で指し示されている約束が、主イエスの十字架の死とそれに続く主のご復活によって、果たされたというのが、新約聖書なのであります。今日の第2朗読のコリントの信徒への手紙一第15章のパウロの書いているみ言葉もそれを示しています。
 一人の人によって、死が人類に入り込んで来たのだから、一人の人の復活によって死が滅ぼされ、すべての人が新しい命に生きることができるようになる。これが主のご復活の意味であります。しかし、そこには順序があり、キリストがまず、死者の中からよみがえった初穂であり、次にキリストを信じて死んだ人たち、次にキリストの再臨の時に信じゆだねている者たちが天にあげられると言っています。

そして、生も死も、そしてすべての権威や主権も、キリストに与えられており、それらすべてを与えているのは、父なる神である。そのすべての中に神は含まれていないことは明らかであるが、最後にはキリストも、ご自分を父なる神におゆだねになる。そして、神が全てのものにとって、すべてとなられるというのです。そして、そうでなければ、あなた方のうちのある者たちは、どうして、死者のために洗礼を受けたりするのですかと、パウロはただしています。復活ということがなければ、人間の営みや、また信仰もすべてむなしくなるとパウロは、説き明かししているのであります。

そして、旧約聖書には膨大な出来事や、預言者たちの言葉などが記されていますし、一見今の私たちとは関係がないと思われるような部分も少なくありませんが、それらはとどのつまりは、主イエスのご受難とその後の復活を預言したものであると言えます。また、私どもはそのように、旧約聖書を読むべきなのであります。そして、ある意味では今日の福音こそ、全聖書が目指していたものであり、この日の出来事こそ、すべてのみ言葉が指し示している事柄であり、御神の目指して来られたゴールとも言えるものであります。

それでは、今日の福音の出来事とは如何なる出来事であったのでしょうか。何を私たちに、指し示してくれるのでありましょうか。マルコ福音書第161節から8節までを通して、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。

この日の出来事、すなわちイースターの前の1週間を、私たちは特に、主の十字架の道行きをおぼえる受難週として歩みました。木曜日の洗足聖餐礼拝、そして、聖壇の布、紫の布もすっかり取り払っての金曜日の受苦日の礼拝を、数名の者で守りました。それは、主イエスがとことん、私ども弟子たちを愛され、その足を洗い、イスカリオテのシモンの子ユダの足も洗い、ペトロが主イエスを見捨てることも、ご存じでそのためにも主は祈られ、あなたの立ち直るために祈ったから、そのときには他の弟子たちを励ますようにと主は既に伝えておられました。そして、最後の晩餐、食事の後、ユダには裏切られ、結局はポンティオ・ピラトによって、十字架の上にあげられたのであります。この聖週間の礼拝に出られたある方は、自分は何者なのか、とても苦しい時でしたと後で打ち明けてくださいました。受苦日の礼拝では、私どもはただ教会讃美歌第86番だけを使って、十字架上の七つの主イエスのみ言葉をひとつひとつ味わい、あるいは祈りの言葉と言ってもいいこのみことばを読み進め、賛美しながら祈りと黙想の時を持ったのであります。

そして、そのことのあった、それに続く今日のみ言葉なのであります。マルコは、この日の出来事を、丁寧に、しかも極めて控えめに記しております。これが、4つの福音書のうちで、最初に書かれた福音書の主のご復活に関わる記事のすべてであるといっても過言ではありません。というのは、この後のマルコ福音書第169節以下は、明らかに使われている語彙もここまでとは違っており、また、中身も後代の付加であることは、今日、だれもが認めるところだからであります。マルコ福音書は世に出され、福音書なるものが初めて教会で読まれたとき、今日一緒にお読みした第168節で終わっていたのだと考えて、差し支えないと思うのであります。

マルコは、安息日が過ぎたときのことから、今日の記事を書き出しています。安息日とは、金曜日の日没から土曜日の日没までであります。マルコによれば、金曜日の日没前に、アリマタヤのヨセフが、急いで十字架上の主の遺体をもらい受けて、真新しい墓に納めたのを、女の弟子たちは確かに見届け、その日は帰って、翌日土の安息日が終わってから、香料あるいは香油と言われる高価なものを、主イエスの遺体に、とくに顔に防腐剤として塗って、丁重な最後のお別れをしようと仕入れておくというところから今日の出来事は始まります。

そして、夜が明けるのを待ちかねるようにして、非常に朝早く、太陽が昇ったときに、ですから、日が昇るとすぐと訳してありますが、この女の弟子たち、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、墓に向かってやって来るのであります。

しかし、彼女たちは、お互いに、あの墓をふさいでいる石をだれが取り除いてくれるのだろうかと語り合いながらやって来たのであります。墓穴をふさいでいる石は大きかったからだと記されています。私たちの世界と墓の向こうにある死の世界の隔たりも、とてつもなく大きいものであります。私が神学生のころ、ある教会の葬儀で火葬場に同行したことがありました。いよいよ故人が焼き場の中へと入れられ、鉄の戸が閉まったとき、ある婦人は「私はいつもこのとき、この鉄の壁の向こうとこちらとでは、越えることのできない世界があると思うの」と口にしておられました。マリアたちも、ある意味では、それと同じように、自分たちではどうすることもできない大きな、重たい石、あるいは悩みについて、どのようにして、それは除くことができようかとつぶやいていたのかも知れません。

ところが、彼女らが目を上げてみると、その墓の入り口をふさいであった石は既に転ばされてあったのであります。そして、彼女たちはその狭い墓の中に入ったとき、白い長い衣を着た若者が右手の方に座っているのを見出して困惑させられるのであります。
すると、その若者は、こう告げるのであります。「困惑させられることはない。あなた方は、あのナザレのイエス、十字架にかけられた方を捜しているが、その方はここにはおられない。起き上がらされたのだ。ここが人々が彼を安置した場所である」と。そして、更にこう彼は言うのです。「あなた方は行って、彼の弟子とあのペトロに言いなさい。『あの方は、あなた方より先にガリラヤに行かれる、そして、そこであなた方は彼にまみえる、あの方があなた方に言っておられた通りに』と。」この時、既に弟子たちはばらばらとなり、あのガリラヤに向かって失意のうちに帰ろうとしていたかもしれません。ここには、最後まで女弟子たちだけが残っていたのであります。

若者の言葉を聞いたとき、マリアたちはどうであったでしょうか。彼女たちを、震えと自失とが捉えました。そして、彼女たちは墓から離れて、逃げ出すのであります。そして、彼女たちは、だれにも、何も言わなかったとあります。「なぜなら、彼女たちは恐れさせられていたからである。」これで、実は、マルコ福音書は終わっているのであります。主イエスのご復活の体やそのみ声には出会っていません。ただ、その見定めた墓の中にはあのご遺体は既になく、そこにいた若者のとりなすみ言葉だけにしか出会っていないのです。

私たちの罪、死、闇の現実の中で、主イエスは、御父の起こしたみわざによって、埋葬されたあのご遺体が死者の中から起き上がらされ、既に死に打ち克たれていることを指し示しておられる。私たちの死と闇が、このお方のよみがえりによって既にその命へと飲み込まれているのであります。この出来事の前に震え上がり、正気を失って、恐れさせられる聖なる出来事、それが主イエスのご復活のときの私共の偽らざる姿であります。そして、ここからこそ、主イエスが、まことに神の子、キリストであり、私どもにとっての唯一の、福音、良き知らせであることを、私どもは学び始めるのであります。アーメン。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          

2018年3月30日金曜日

―最近読んだ本からー「イエスの死と復活―ルカ福音書による-」 ヘルムート・ゴルヴィツァー著


―最近読んだ本からー「イエスの死と復活―ルカ福音書による-
ヘルムート・ゴルヴィツァー著
 岡本不二夫/岩波哲男 訳
 発行所  新教出版社
 初版発行 1962331
定 価  190円(古本でお求めください)
 ゴルヴィツァーのこの書は、1938年から1940年にかけて、ベルリンのダーレム教会でなされたルカ福音書についての受難と復活に関わる説教集である。
 受難週、復活祭を前に、この書、ゴルヴィツァーの説教を、読むことができたのは、幸いであった。ルカ福音書の受難物語、復活物語の記事を、通読的に説教していったものが、まとめられている。
 主イエスの受難の記事、十字架の出来事、そして、復活、昇天に至るみ言葉を、よくもまあ、これほど自由自在に黙想し、説教できることであろうか。
 その聖書の深い読み、洞察力は、どこから来ているのだろうか。ルターの国、ドイツの神学の伝統の素地の上に、このような説教が可能になったのであろう。
この説教が説かれたとき、ドイツは、ヒトラーのナチズムが荒れ狂い始めた時
期でもあったであろう。
 それにしても、主イエスのご受難、十字架の意味と、それに続く復活の秘儀が見事に説教の言葉となって受肉している。私の黙想で思いつかぬほどのことではないにしても、よくもまあ、そのような琴線に触れた表現ができるものである。
 その背後には、おそらく地道な神学や祈り、黙想があったことであろう。また、ドイツを襲った、大きな危機と試練の時代背景もあったであろうが、その説教は現代の日本人にも、時代と国を越えて問いかける迫力を持っている。
 今は、レントであって、ちょうど人生の終局、終わりの日を黙想するのにもふさわしい時期であったし、この時期にこの書に巡り会えたことを感謝している。おそらくドイツにしか出ないような説教者であり、神学者なのであろうが、このような説教の言葉が紡ぎ出せるまでには、人知れない研鑚と信仰の戦いもあったのではないか。まったく型にはまらない自在な説教の言葉、黙想から生まれた説教なのであろうが、下積みな聖書との格闘、釈義的な訓練もここに至る背後にはきっとあったに違いない。日本の中からもこのような説教者が生まれていくとき、日本のキリスト教も、更に大きく定着していくに違いない。その説教は月並みな、字句を追うような解説的な説教でないのであるが、それらを地盤とした上でしかもみ言葉の精髄から離れずに大胆に核心に迫るのである。

2018年3月26日月曜日

「ホサナ、主の名によって来られる方に祝福あれ」(マルコ福音書第11章1節~11節)


2018325日、枝の主日礼拝(―典礼色―紫―)、ゼカリヤ書第99-10節、フィリピの信徒への手紙第26-11節、マルコによる福音書第111-11節、讃美唱92(詩編第922-10節)

説教「ホサナ、主の名によって来られる方に祝福あれ」(マルコ福音書第111節~11節)

 灰の水曜日から、レントの期間を過ごしてきましたが、それもいよいよ残すところ1週間となり、今日から、受難週、聖週間に入ります。今日の日曜日は、棕櫚の日曜日と言われてきましたが、最近は、枝の主日と呼んでいます。

 そして、ルーテル教会では、アドベントの第1主日に、今日と同じエルサレム入城の記事が読まれます。そこでは、クリスマスに向けて備えるアドベントに入る最初に読まれ、まことの王としてのキリストをお迎えするのに備えるために読まれます。

 そして、今朝の枝の主日においては、特に十字架におつきになられる受難の主という意味で、再び同じエルサレム入城の記事が読まれるのです。一年の教会暦の聖書日課において、毎年二回にわたって同じ記事が読まれるように与えられているのは、私の記憶する限り、このエルサレム入城の記事だけであります。

 主日を除く40日間にわたって、私どもはレントの季節を過ごしてきました。そしてその旅路の終わりの最後の主の日に、今日のエルサレム入城の出来事が毎年読まれ、説教されます。

 それは、主イエスが生きておられたユダヤ教の時代には、三大祭りの一つとして、過ぎ越しの祭りを祝うために、はるか遠くの離散のユダヤ人たち、ディアスポラのユダヤ人たちも、エルサレムに向かって巡礼の旅をしました。その後に、過ぎ越しの祝いを、この都の神殿で行っていたのです。そして、私どもは、今では、主イエスの十字架への道行きをおぼえるレントの終わりの時に、エルサレム入城の枝の主日をおぼえ、受難週の洗足聖餐礼拝、受苦日の礼拝を守って、来週はイースターの日曜日、復活祭の礼拝を迎えるのであります。

 さて、今日の記事は、主イエスの一行はいよいよエルサレムに近づいたとの記述から始まり、最後もそのエルサレムにお入りになって、主は神殿の境内を見廻しておられたとの筆で終わっています。エルサレム、しかもその神殿が、主イエスの目指す目当てであります。これからは、エルサレムの神殿においてではなく、私の体を神殿とする、霊と真との礼拝をあなた方は守るようになると教えておられたそのことが、実現することに向けて、この日の主のふるまいも言動もなされるのであります。

 主は、不思議なお言葉を、オリーブ山のふもと、ベトファゲとベタニアとに近づかれたとき、二人の弟子に言われます。向こうの村へ出て行きなさい、そうすると、直にまだ誰も乗せたことのない子ろばがつながれているのを、あなた方は見出すだろう。それを解いて連れて来なさい。もしだれかが、何でそんなことをするのかと言ったら、その主がお入り用なのですと答えなさい。そうすれば、許してくれると。そして、二人は出て行き、その通りになります。

 そして、そこに居合わせた人たちの内のある者たちがどうしてそんなことをしているのかと聞いたので、主が言われた通りにすると行かせてくれました。

 これは一体どうして起こったことなのでしょうか。「主がお入り用なのです」は「それの主が必要を持っている」というのが直訳です。子ろばの主人が了解していて、主イエスが、事前にお膳立てをしていた通りに事が運んだということでしょうか。というのも、他の個所で、マルコ福音書で主イエスがご自身のことを、主と呼んでいるところはないからです。あるいは、ここでの「主」とは、神御自身を指して、神のご意志として、子ろばを欲しておられるということでしょうか。

 むしろ、主イエスは、ここで初めて、ご自分を父なる神のみ子として、ご自分の主権を指し示すために、「主がお入り用です」と言わせたのではないでしょうか。それに対して、持ち主たちはそれを認めて、子ろばを連れて行くのを許したのであります。

 そして、子ろばを連れて来た二人も、自分たちの上着を、その上に敷き、主イエスの御座とし、多くはその前にその外套を広げ、別の者たちは刈ってきた葉のついた枝を敷き詰めるのであります。この方こそ、自分たちの主であると、期せずして表わしているのであります。「ホサナ、主の名によって来られる方に祝福があるように」。今朝の枝の主日の聖書の出来事は、私たちが、まことにこの方を王として、主として礼拝しているかを改めて問うている主イエスの語りかけなのであります。その主に従って受難週を過ごしたいものです。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                               

2018年3月24日土曜日

-最近読んだ本から-「新しい天と新しい地-政治的説教-」           


-最近読んだ本から-「新しい天と新しい地-政治的説教-」           
ヘルムート・ゴルヴィツァー著
 土岐正策/菅原一夫
 奥村益良/高岡 清 訳
 発行者  秋山県警
 発行所  新教出版社
 初版発行 1976年1月31
定 価  1600
 ゴルヴィツァーは、19081229日生まれで、19931017日に84歳で天に召されている。この書は4人の人の訳として邦訳されている。
 内容は、いくつかの説教がまとめられている。いずれも濃厚な説教が凝縮されていると言ったらいいだろうか。
 一時代を画した説教者だったのであろう。その説教には、神学生たちはもとより、あらゆる世代、階層の人々がその説教を聞きに集まったそうである。それは老人から、若い娘さんまで、すこぶる高揚があって、会衆は彼の説教に喜んで耳を傾けたらしい。 ドイツにあっては、ナチの台頭や激変の時代の中で、彼は人々をみ言葉によって導いたということだろう。秘密警察が混じる礼拝の中でなされた説教もあるようだ。そして、現代にいたるこの苦悩する世界で、彼はイエスの譬えや聖書の示す真理を語り続けたのであろう。 加藤常昭先生はその生の声、司式し祈る姿に実際に出くわされて、その荘厳な祈りや司式の姿勢について、しばしば懐かしそうに口にされたことがある。 そして、この説教集一つを読んでみても、そのようなゴルヴィツアーの人格が切々と伝わって来る。 私どもルーテル教会の伝統では、個人の魂の救いを中心に説いて、あまり政治やこの世の中の動きには疎い傾向がなきにしもあらずであろう。しかし、彼は、私ども一人一人のふるまい、信仰の在りようがまわりの社会、ひいては世界とつながっていると説き、時の世界の出来事へのやむことのない関心がみ言葉集中と共に説教を貫いている。 また、従来の一人でも多くに洗礼を授け、改宗を迫って世界制覇してきた宣教・伝道の在り方に疑問を呈している。そして、この世界にわずかなキリスト者、新しい神の民が存在すること、クリスチャンの希少価値と言えば語弊があろうかそのこと自体に周りの世界は、自分の生き方を問い直す喜びを見出すという。ゴルヴィツァーもまた、使徒教会時代の使徒たちの説教への回帰を示す説教者と言えるのではないか。