2017年4月26日水曜日

「復活の主と出会う」(マタイによる福音書第28章1節~10節)

マタイによる福音書第281-10節、2017416日(復活祭聖餐礼拝―白―)、使徒言行録第1039-43節、コロサイの信徒への手紙第31-4節、讃美唱118/1(詩編第11814-24節)

説教「復活の主と出会う」(マタイによる福音書第28章1節~10節)

 私どもは、少数の者でありましたが、去る受苦日には、礼拝堂に集められて、マタイによる福音書から、主イエスの十字架上の言葉から、主のみ苦しみを共に思い起こしました。
 それは「わが神、わが神、どうしてあなたは、私をお見捨てになられたのですか」という父のみもとに召される直前午後3時頃に大声で叫ばれた、マタイによれば、主が十字架上で発せられた唯一のお言葉であり、祈りの言葉でありました。父の独り子であるみ子が、父によって見捨てられるということがどうして起こったのでしょうか。
 しかし、主イエスは、その時にも、父である神を、わが神、わが神と二度も呼ばれつつ、霊を父のみ手にゆだねられて、十字架の死に至るまで、父のみ旨に従い通されたのであります。 
 それを、遠くから見守っていたのが、マグダラのマリアと他のマリアたちでありました。そして、そのご遺体を、アリマタヤのヨセフが、引き取って新しい墓に納め、しかしその墓は大きな石で封印され、番兵たちが見張りとしておかれていたのであります。 
 主イエスが、十字架上でなくなり、墓に納められたのは、安息日が始まる前のこと、すなわち、金曜日の日没前のことでありました。そして、安息日は金曜日の日没から、土曜日の日没まで続きます。
 そして、今日、イースターの出来事は、もとの文を読みますと、「安息日の遅くに、それから一つ目の明け方が始まるときに」起こったと記されているのであります。これは、難解な書き方ですけれども、主イエスが何度も予告しておられた、十字架に付けられて三日後に、あるいは、三日目に起き上がらされたということを表しているのであります。
 マグダラのマリアと、もう一人のマリアは、この日早く起き出して、主イエスのご遺体のある墓を見に行くのであります。大きな石でふさがれており、封印されて、番兵たちの見張る墓へ、とにかく二人は出かけるのであります。
 ガリラヤから、主イエスに付き従ってきた女の弟子たちの先生イエスへの人間的な思慕から、二人は、ご遺体を見届けるために来たのであります。あるいは、それとも、既に、この二人は、主イエスが何度も予告していた、主がご復活になるという約束を信じてやって来ていたのでしょうか。それは、ありそうもありません。しかし、ともかく、二人は、墓のところまで、この日の明け方に来たのであります。
 すると、そのとき、み使いが天からくだり、その大きな石を動かし、その上に座ったのであります。それゆえに、大きな地震となり、番兵たちは恐れて死人のようになります。そのとき、み使いは、女たちに言います。「恐れることはない。あなたたちは、十字架に付けられたイエスを探していることを、私は承知しているが、その方はここにはおられない。死人の中から起き上がらさせられたのだ。
ここを見なさい。その方が横になっておられた場所である。あなた方は、彼の弟子たちに言いなさい。彼はあなたがたよりも先にガリラヤに行かれる。そこで、あなた方は彼に出会うことになると。確かに私はあなた方に言いました」と。
 二人は、恐れと大きな喜びをもって、墓から駆け出します。復活の出来事は、私どもに、恐れと喜びとを起こさせるものであります。ところが、その途上で、見よ、主イエスが二人を出迎えられるのであります。そして、「おはよう」と言われて、おなじみの挨拶で声をかけられた。
 二人は、思わず、そのみ足を抱き、ひれ伏し礼拝するのであります。そして、主イエスはそれを温かく受け止められる。11弟子たちよりも前に、起き上がらされたお方は、女の弟子であったマグダラのマリアたちにお姿を現わされるのであります。そして、み使いが告げたのとほぼ同じ使信を二人に託されます。「あなた方は恐れる必要はない。あなた方は出て行って、私の兄弟たちに伝えなさい。彼らがガリラヤへと出発するように。彼らはそこで、私に会うであろう」と。
 ペトロをはじめ、主の十字架におかかりになるときに、主を知らないと言い、主を見捨てて逃げてしまうことを主は前もって弟子たちに予告し、「私は羊飼いを撃ち、羊たちは散らされてしまう」と告げておられました。しかし、主イエスは、そのときに、ご自分は復活した後、彼らより先にガリラヤへ行くと約束しておられました。その使信を伝える務めを、マグダラのマリアたちに託されたのであります。

 そのとき、11人は逃げ出していましたが、再びどこかに集まっていたらしく、マグダラのマリアたちはそこに向かっておりました。そして、ご復活の主イエスにも最初に出会うという光栄をマリアたちは与えられ、その主イエスを通して、再びガリラヤに参集し、兄弟姉妹としての交わりを回復してくださるとの使信を弟子たちに伝えるのであります。死と罪と闇から、私たちを、解き放つために、主イエスがこの朝、死者の中から、父によって起き上がらされ、今も共に生きて、お治めになっておられることを共に祝いましょう。アーメン。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                               

2017年4月19日水曜日

「宮沢賢治童話全集 新装版 6 なめとこ山のくま」

―最近読んだ本からー
「宮沢賢治童話全集 新装版 6 なめとこ山のくま」
宮沢賢治
                発行 2016930日    
                発行者 岩崎弘明
                発行者 株式会社岩崎書店
                定価  2138円 
 宮沢賢治の「なめとこ山のくま」を読みなさいと、ある先輩牧師先生から薦められた。さっそく取り寄せてみたが、しばらくたってしまった。「なめとこ山のくま」は、岩崎書店発行の「全集の新装版の6」に納められている。
賢治が故郷の岩手県を中心に題材として残されている民話、伝説などから作った同系列の童話が他に8篇、載せられている。
宮沢賢治については、詳しく知らないが、晩年、日蓮宗の熱心な信徒であったと聞いている。しかし、一方では、キリスト教の影響も大きかったのではないかとも聞かされている。
若干37歳の若さで、1933年(昭和8年)に病気でなくなっている。日本には、今も各地に古くからの伝説や民話が残っている。「なめとこ山のくま」もそのような日本の地方、特に賢治が生まれ育った岩手の山奥に伝わる伝説から、賢治が作品としたもののようである。

「小十郎」が主人公とも言えるなめとこ山の猟師である。そして、むしろ、真の主人公は「なめとこ山のくま」たちである。小十郎は生きるために、熊を撃ち、その毛皮や内臓などを、安いお金で、町に下りていって売り、酒に変えたり、一家の生活の糧にせざるをえない。熊たちも、小十郎を憎んでいるわけではなく、一匹一匹と仲間を失いながらも、なめとこ山で共生しているのである。ある夜、小十郎は愛犬と森をめぐっているとき、母熊と小熊が向かいの谷の景色を眺めているのに出くわす。小十郎もまた、なめとこ山の熊たちを、この上なく愛していたのである。やがて、小十郎も、熊に襲われる日が来る。そのしかばねを、熊たちは真ん中にして、集まり、葬るかのように群がる。なきがらとなった小十郎の顔もどこか笑っているようであった。そのような自然と動物と人間が一体となって生きていた日本の昔の伝説から、作られた童話が、この全集の6巻に納められている。かなりの年齢である日本人には、だれでも懐かしくなる、そのような童話が9篇、集められている。方言も美しく、文学者賢治が聖霊に促されて、紡ぎ出した言葉の宝庫がここにあるのではないか。

2017年4月10日月曜日

「謙りの主イエスの都入り」(マタイによる福音書第21章1節~11節)

マタイによる福音書第211-11節、201749日(枝の主日礼拝―紫―)、ゼカリヤ書第99-10節、フィリピの信徒への手紙第26-11節、讃美唱22/2(詩編第2224-32節)

説教「謙りの主イエスの都入り」(マタイによる福音書第211節~11節)

 今日から、受難週、聖週間が始まりました。今朝の主の日は枝の主日と呼ばれます。待降節、アドベントの最初の日曜日にも、先ほど一緒にお読みしましたマタイによる福音書第21章1節から11節までが読まれます。それは、新しい一年の信仰生活を、まことの王、主イエスを、私どもの生活の中にお迎えする用意をするために、その記事を持って礼拝をし、歩み出すわけです。
 そして、レントの最後の日曜日に、同じこの聖書個所が与えられているのは、クリスマスで、主イエスがお生まれになり、地上で生活なさり、みわざとお働きをなさったのちに、時が来て、十字架に向かわれる。そして、都エルサレムで受難の1週間を、ここからお始めになる。そして、捕えられ、十字架に付けられ、最後まで、父なる神のご意志に従って、苦しまれ、ついに死なれて墓に納められるが、三日後に、死人の中から、旧約聖書によって預言されていたとおりに、起き上がらされるに至るのであります。
 その主イエスの地上での歩みを、今朝の記事の中に、私どもはその全体の姿を読み取ることができるのであります。
 今日の出来事とその意味をしばらくご一緒に考えていきたいと思います。
 先ほどお読みしましたように、主イエスと大群衆は、ホサナ、ホサナと歓呼の声をあげながら、エルサレムの都へと入って行きました。
 そのとき、迎えたエルサレムの人たちはどうであったか。彼らは、この人は一体だれなのかと戸惑い、それどころは、揺り動かされたというのであります。
 これは、主イエスがベツレヘムでお生まれになったときに、東の方から博士たちがやって来て、ユダヤの王としてお生まれになった方はどこにいますかと問うたとき、ヘロデ大王と全エルサレムは、うろたえたと書いてあるのと同じ言葉が使われています。
 彼らは、地震を受けたようになったというのです。歓迎するどころか、心騒ぐばかりで、このまことの王を拒んだのであります。それに対して、ガリラヤから、過ぎ越しの祭りで一緒になってエルサレムに巡礼し、主イエスと共に都入りをする群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と賛美しながら応えている。
 主イエスがだれなのかを、巡っては、人間は中立であることはないし、そうはできないのであります。神の民であるはずの都の民、シオンの娘は、主イエス、神の子を拒み、ガリラヤからの群衆は、主イエスを喜び、歓呼の声をあげつつ入城しているのであります。
 今日のお出でになっておられるお方を、自分のまことの王として受け入れるのか、それとも、今の自分には必要ない、あるいは、無益だと拒むのかが、私ども一人一人に問われてくる出来事であります。
 その出来事を、今日のテキストのみ言葉に従って、丁寧に見ていきましょう。
主イエスは、エリコから、オリーブ山へと、ベトファゲへと、エルサレムに向かって近づかれたとき、弟子の二人を遣わして言われます。向かいの村へと行きなさい、すると、ろばがつながれているのを見出す。それをほどいて、引いてきなさい。もしだれかが何か言ったら、その主がそれを必要としているとあられます応えなさい、そうすればすぐに渡してくれる。そして、彼らは、出て行ってそのとおりにしたと記されています。
 主イエスが命じられるとおりにすることが、私ども主に従う者がなすべき生き方なのであります。そして、二人は、雌ろばとその子ろばを引いてくる。
 これによって、マタイは次の預言者の言葉が満たされることになったと言います。すなわち、エルサレムの娘よ、あなたの王があなたのところにお出でになる。彼は柔和な方で、雌ろばと荷を負う言葉に乗って。
エルサレムの娘、神の民のところに、主はお出でになる。そして、それは今では私たちのところへであります。この方は柔和な方であり、重荷を、私どものために担ってくださるお方であって、王でありながら、私どもの罪や重荷を担ってくださる。そういうふうにして、平和をもたらされる王である。
 柔和なお方、へりくだられて、十字架の死に至るまで父なる神のご意志に従われ、苦しまれる、仕えるしもべであられる王である。 力によって戦争をする王ではなく、ただ戦争がないというだけの平和をもたらされる王でもない。積極的に、仕える事を通してこそ、まことの幸いが得られるのではないでしょうか。自分の才能や力によって、人を支配する。そこからは、真の幸いも救いも、私どもは得ることはできないのであります。 そして、連れて来た雌ろばと子ろばの上に、二人は自分たちの上着を敷くと主イエスはそれにお乗りになります。そして、大群衆は、上着を主の進まれる前に広げたり、野から枝を切ってきて敷く。そして、ホサナ、ダビデの子に!主のみ名によってこられる方に祝福あれ、ホサナ、いと高きところに、と歓呼しながら都に入っていく。ホサナとは今助けて下さい、あるいは、万歳といった喜びの叫び声であります。これによって、詩編118編の、人々が無益だといって捨てた石が隅の親石になったとある預言が満たされることになったのであります。主はそのようなまことの王として、そして、十字架に付かれる王として、今日私どものところにお出でになられている。その主を仰ぎ見たいのであります。アーメン。









 

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                             

2017年4月5日水曜日

「マルタの信仰告白」(ヨハネ福音書第11章17節~53節)

ヨハネによる福音書第1117-53節、201742日(四旬節第5主日礼拝―紫―)、エゼキエル書第3310-16節、ローマの信徒への手紙第51-5節、讃美唱116(詩編第1161-19節)
 
説教「マルタの信仰告白」(ヨハネ福音書第1117節~53節)

 今、レントの時を過ごしています。今日は非常に長いヨハネによる福音書からのみ言葉を、皆さんと一緒に声を合わせて読みました。そして、今朝は、はるばるフィンランドからの思わぬお二人のお方と共に礼拝に与っています。
 この飯田教会を建てた、この教会の初代宣教師サホライネン先生のひい孫娘に当たるミーナ・サホライネンさんとそのご主人ミカ・ベンホーラさんご夫婦です。
 そして、先ほどは、いみじくも、マルタが、信仰告白をする、長いペリコペー、聖書個所を一緒に朗読したのですが、この個所が、この日に与えられたのも、不思議な神の導きのように思います。
 100年以上も前に、飯田の地に来たビートリ・サホライネン先生もまた、今の私たちがしているのと同じように、式文を用い、今日与えられているような聖書日課を用いながら、この飯田の地で、同じような礼拝を持ったことだろうと思います。
 そして、たまたま、一緒に今日お読みしたこの福音の個所は、サホライネン先生たちを思い起こさせるのにふさわしい個所であります。
 100年前に、この地に、主イエス・キリストの福音の種を蒔いたサホライネン先生も、今では遠い過去の人のようですけれども、そのなさった働きは、消えることはなく引き継がれ、ここに教会、幼稚園は存続し、そのひい孫に当たる方とそのご主人が、曽祖父の残した遺産を確かめようと訪ねて、一緒に今礼拝をしているのであります。「私を信じる者はたとえ死んでも生きる。生きていて私へと信じゆだねる者は皆、決して死ぬことはない。」これは、サホライネン宣教師にとって、当てはまるみ言葉であります。
 さて、今日の福音はこういうものでありました。
 エルサレムの近くの村、ベタニアのマルタとマリアの弟ラザロが何かの病気で危篤となります。
 その知らせを、二人から聞いた主イエスは、どういうわけか、すぐには助けに行かれなかった。そして、この病を通して、神の栄光が表されることになると、主は不思議な言葉を弟子たちにお語りになりました。
 そして、ついにラザロはなくなり、四日後、主イエスとその一行は、ベタニアの村はずれまでやって来ます。
 それを聞きつけたマルタは、主をお迎えしに、その場所までやって来ます。そして、主にお会いするなり、「主よ、あなたがいてくださったら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と悲しみを吐露します。
 そして、しかし、今でも、あなたが神にお求めになることは何でも、神はお与えになると知っておりますと言いますと、主は、あなたの兄弟は起き上がると不思議な言葉を返されます。
 マルタは、終わりの日における起き上がり、復活において彼も起き上がるであろうことは信じていますと言うと、主は「私は、起き上がり、復活であり、命である」と言われました。
 そして、私を信じる者は死んでも生きる。生きていて、私へと信じる者は皆、もう死ぬことはないと言われたのであります。
 そして、マルタに向かって、このことを、あなたは信じるかと問われる。マルタは、それに対してはっきりと答えることができました。「私は信じました、あなたこそ、メシア、神の子、そして、この世にお出でになられるお方だと。」
 この応答、信仰告白は、聖霊の不思議な促しによってなされたとしか言いようがありません。
 この後、マルタは、マリアを家に呼びに行きます。マリアは、先生があなたを呼んでおられると聞くとすぐに起き上がり、主の下に急いで行って、足もとにひれ伏し、同じように「主よ、あなたがいてくださったら、弟は死ななかったでしょうに」と言います。そのとき、エルサレムから、弔問に訪れていたユダヤ人たちも、後を追って来ていました。
 そして、この情景を見て、盲人の目を開けたこの方も、ラザロを死から救い出すことはできなかったのかと評します。

 主は、この時、ラザロのために涙を流されますが、彼らの言葉に対して、深くお感じになり、自ら動揺されたとあります。新共同訳はこれを、「憤りを、主はお覚えになった」と訳しています。何に対してお怒りになったのでしょうか。それは、彼らの不信仰に対してであります。主が命と死との主であられることを信じない私どもに対する憤りです。 そして、主は、ラザロの墓石をどかせて、天の父に向かって感謝の祈りをささげられ、この祈りは周りにいる者たちのためにする祈りだと言われ、ラザロよ、出てきなさいとお命じになる。すると、死人は包帯のような者に巻かれたまま出て来る。主は、それをほどいてやって、行かせなさいと言われました。このことによって、それを見た多くのユダヤ人たちは、主を信じたが、それを信じないで、エルサレムに引き返し、ユダヤ当局に告げ知らせる者たちもいました。そして話し合った後、ついに主は、十字架の死へと決定されるのです。しかし、主を生きていて信じる者は皆、もう死ぬことはない。このみ言葉は日々の生活の只中で真実です。アーメン。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    

「マルタの信仰告白」(ヨハネ福音書第11章17節~53節)

ヨハネによる福音書第1117-53節、201742日(四旬節第5主日礼拝―紫―)、エゼキエル書第3310-16節、ローマの信徒への手紙第51-5節、讃美唱116(詩編第1161-19節)
 
説教「マルタの信仰告白」(ヨハネ福音書第1117節~53節)

 今、レントの時を過ごしています。今日は非常に長いヨハネによる福音書からのみ言葉を、皆さんと一緒に声を合わせて読みました。そして、今朝は、はるばるフィンランドからの思わぬお二人のお方と共に礼拝に与っています。
 この飯田教会を建てた、この教会の初代宣教師サホライネン先生のひい孫娘に当たるミーナ・サホライネンさんとそのご主人ミカ・ベンホーラさんご夫婦です。
 そして、先ほどは、いみじくも、マルタが、信仰告白をする、長いペリコペー、聖書個所を一緒に朗読したのですが、この個所が、この日に与えられたのも、不思議な神の導きのように思います。
 100年以上も前に、飯田の地に来たビートリ・サホライネン先生もまた、今の私たちがしているのと同じように、式文を用い、今日与えられているような聖書日課を用いながら、この飯田の地で、同じような礼拝を持ったことだろうと思います。
 そして、たまたま、一緒に今日お読みしたこの福音の個所は、サホライネン先生たちを思い起こさせるのにふさわしい個所であります。
 100年前に、この地に、主イエス・キリストの福音の種を蒔いたサホライネン先生も、今では遠い過去の人のようですけれども、そのなさった働きは、消えることはなく引き継がれ、ここに教会、幼稚園は存続し、そのひい孫に当たる方とそのご主人が、曽祖父の残した遺産を確かめようと訪ねて、一緒に今礼拝をしているのであります。「私を信じる者はたとえ死んでも生きる。生きていて私へと信じゆだねる者は皆、決して死ぬことはない。」これは、サホライネン宣教師にとって、当てはまるみ言葉であります。
 さて、今日の福音はこういうものでありました。
 エルサレムの近くの村、ベタニアのマルタとマリアの弟ラザロが何かの病気で危篤となります。
 その知らせを、二人から聞いた主イエスは、どういうわけか、すぐには助けに行かれなかった。そして、この病を通して、神の栄光が表されることになると、主は不思議な言葉を弟子たちにお語りになりました。
 そして、ついにラザロはなくなり、四日後、主イエスとその一行は、ベタニアの村はずれまでやって来ます。
 それを聞きつけたマルタは、主をお迎えしに、その場所までやって来ます。そして、主にお会いするなり、「主よ、あなたがいてくださったら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と悲しみを吐露します。
 そして、しかし、今でも、あなたが神にお求めになることは何でも、神はお与えになると知っておりますと言いますと、主は、あなたの兄弟は起き上がると不思議な言葉を返されます。
 マルタは、終わりの日における起き上がり、復活において彼も起き上がるであろうことは信じていますと言うと、主は「私は、起き上がり、復活であり、命である」と言われました。
 そして、私を信じる者は死んでも生きる。生きていて、私へと信じる者は皆、もう死ぬことはないと言われたのであります。
 そして、マルタに向かって、このことを、あなたは信じるかと問われる。マルタは、それに対してはっきりと答えることができました。「私は信じました、あなたこそ、メシア、神の子、そして、この世にお出でになられるお方だと。」
 この応答、信仰告白は、聖霊の不思議な促しによってなされたとしか言いようがありません。
 この後、マルタは、マリアを家に呼びに行きます。マリアは、先生があなたを呼んでおられると聞くとすぐに起き上がり、主の下に急いで行って、足もとにひれ伏し、同じように「主よ、あなたがいてくださったら、弟は死ななかったでしょうに」と言います。そのとき、エルサレムから、弔問に訪れていたユダヤ人たちも、後を追って来ていました。
 そして、この情景を見て、盲人の目を開けたこの方も、ラザロを死から救い出すことはできなかったのかと評します。

 主は、この時、ラザロのために涙を流されますが、彼らの言葉に対して、深くお感じになり、自ら動揺されたとあります。新共同訳はこれを、「憤りを、主はお覚えになった」と訳しています。何に対してお怒りになったのでしょうか。それは、彼らの不信仰に対してであります。主が命と死との主であられることを信じない私どもに対する憤りです。 そして、主は、ラザロの墓石をどかせて、天の父に向かって感謝の祈りをささげられ、この祈りは周りにいる者たちのためにする祈りだと言われ、ラザロよ、出てきなさいとお命じになる。すると、死人は包帯のような者に巻かれたまま出て来る。主は、それをほどいてやって、行かせなさいと言われました。このことによって、それを見た多くのユダヤ人たちは、主を信じたが、それを信じないで、エルサレムに引き返し、ユダヤ当局に告げ知らせる者たちもいました。そして話し合った後、ついに主は、十字架の死へと決定されるのです。しかし、主を生きていて信じる者は皆、もう死ぬことはない。このみ言葉は日々の生活の只中で真実です。アーメン。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    

2017年3月21日火曜日

「いのちの水」(ヨハネによる福音書第4章5節~26節)

ヨハネによる福音書第45-26節、2017319日(四旬節第3主日礼拝―紫―)、出エジプト記第171-7節、ローマの信徒への手紙第417節b-25節、讃美唱142(詩編第1422-8節)

  説教「いのちの水」(ヨハネによる福音書第45節~26節) 
       
レントの中での3回目の主の日を迎えました。主の日を除く40日間の主の十字架の道行きを覚える、古くは断食等もした、慎ましやかに送るべき教会暦の時を与えられていますが、そのような中にあっても、主の日には、福音を聞くために、教会に集められ、福音の喜びによって慰められるようにと、それぞれの主の日に、福音が与えられていますが、今日は、サマリアの女性との出会いの個所が福音として、選ばれています。それは一体何故なのかを、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 今日の福音の記事は、ヨハネ福音書第45節から26節までですが、そのすぐ前の第45節には、主イエスは、サマリアを通って行かなければならなかったとあります。ユダヤで弟子たちと共にあり、弟子たちは洗礼を授けていましたが、ユダヤ当局に知られるところとなり、ガリラヤに帰って行こうとされた。そのとき、ヨルダン川沿いではなくて、サマリアの中のスカルという町の近くを通っていかれねばならなかったのです。
 これは、ただ物理的にそうせざるを得なかったというだけではなく、神によって、ここを通っていくことに決まっていたという意味であります。ここを通って行くことにより、今日のサマリアの女性と出会うことが、神のご計画であったというのです。
 さて、主イエスは、長旅で疲れ果てて、この場所にあったヤコブの泉の上に座っておられた。弟子たちは、町へ食料の買出しに出かけていました。そこに、第6時ころ、正午頃、サマリアの女性が、水を汲みにやって来るのであります。
 ヨハネの福音書は、いくつもの対話が記されているのが特徴です。今日も、ここから、主イエスとサマリアの女性との対話が始まります。サマリアの女性は、ユダヤの民から見ると、部外者でありました。しかし、この女性は、主イエスとの対話の中で、主イエスへの信仰を持っていくのであります。
 ところが、この個所以前に出て来た対話として、ユダヤ人の指導者、ファリサイ派のニコデモが、夜やって来る物語がありました。ニコデモは、しかし、主イエスの言われることに合点がいかないのであります。主イエスは、人は、新たに、上から生まれなければ、神の国に入ることはできないと言われますが、彼は、年取った者が再び、母のおなかの中の入って、生まれ変わることができましょうかといぶかるのです。主は、風がどこから吹いてきてどこへ行くのか分からないように、霊も思いのままに吹く。霊によって、新しく生まれるのもそれと同じことであると言われましたが、ニコデモはここではついに、物別れに終わっているのであります。
 それに対して、サマリアの女性は、対話の中で、次第に洞察を深め、主イエスを受け入れてゆくのです。
 さて、主イエスは、この女性に対して、私に、水を飲ませてほしいと申し出られます。女性は、ためらって、何故ユダヤ人のあなたが、サマリアの女である私に、水を飲ませてほしいと言うのかと反問します。アッシリア帝国によって北イスラエルは紀元前7世紀の頃に滅ぼされ、サマリアには別の民族が植民し、混血となり、宗教もサマリア五書だけを正典とし、サマリア人たちとユダヤ人は、その当時、交際しない。ましてや、ユダヤ人の男はサマリアの女に直接話しかけることはしなかったと言われます。
 しかし、主は、もしあなたが、神の賜物を知り、あなたに話しかけている者がだれであるのか知っていたなら、あなたは自分から、申し出て、彼はあなたに生きている水を与えたことであろうにと語られたのであります。
 この女性は、最初は、溢れ出る新鮮な水のことを考えていましたが、次第次第に、それが、自分の渇きをいやすいのちを与える水のことを言っておられると理解していきます。最初は、主イエスを何ものかと疑い、あなたは、私たちの尊敬している父祖ヤコブよりも偉いのですかと皮肉を込めて対応していますが、対話をしていく中でこの方こそ自分の抱いてきた渇きを解決してくれる方だと、次第次第に眼を開かれていくのです。主は、この井戸から飲む者はまた渇くが、私から飲む者は、その人の中で泉となって、永遠の命につながる生きた水が溢れ出ると言われます。女の人は、その水を私にも下さいと願い出るに至るのです。その命の水とは何でしょうか。それは聖霊であると言えるかもしれません。
 主は、話題を変えて、あなたの夫をここに連れてくるようにと申し付けます。しかし、彼女は、自分には夫はいないと正直に答えます。主は、それに対して、あなたは確かに正しく答えた。あなたには5人の夫がいたが今一緒にいるのは夫ではないと見抜かれます。昔から、この女性は不道徳な女性であったのだろうと、多くの人が考えてきました。しかし、必ずしも、そうではないかもしれません。レビラート婚のような事情があったのかもしれません。しかし、他の何によっても鎮められない心の渇きがあったことは否めません。彼女は、自分たちはゲリジム山で礼拝しているが、あなた方は礼拝すべき場所はエルサレムだと言っていますと質問します。主は、あなた方は知らないものを礼拝しているが、私たちは知っているものを礼拝している、救いはユダヤ人から出るからだと言われ、サマリア五書だけを正典とする彼らをただされます。
この女性は、私たちは、メシアと言われるキリストがお出でになることを知っています。その方がお出でになるとき、すべてを教えてくださるでしょうと、自分たちの信仰を表明します。彼らにとってのメシアとは、再び戻って来る教師だと考えられていたのです。
 しかし、主イエスはそれに対して、まことの礼拝をする者たちは、霊と真理において父を礼拝しなければならない。その時がやって来る、否、今がその時であると仰いました。そして、あなた方、サマリア人たちの信じているメシアとは、実は「私である、あなたとしゃべっている者である」と答えられたのであります。
 キリストとは、遠い先に来られる方ではなく、今もうこの時、来ている自分であるとこの時、主イエスは宣言されたのであります。そして、それは、預言者や、教師のような存在ではなく、「私である」という方であり「ありて、ある者」として示されているのであります。
 そして、このレントの時に、私たちは、今日、サマリアの女性がであったこの主は、このあと、十字架におかかりになるお方であることを覚え、この救い主を証する者となっていくこの女性の中に、自分たちを見出しつつ、礼拝の意味を再確認するときとしたいと思います。
               アーメン。
















                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          

2017年3月15日水曜日

「幼稚園の経営を劇的に変える方法」雑賀さいか竜一著

―最近読んだ本からー
「幼稚園の経営を劇的に変える方法」雑賀(さいか)竜一
                発行 2012310日    
                発行者 松本 恒
                発行者 株式会社少年写真新聞社
                定価  1620円 
 この本は、現在の日本社会での幼稚園の存在意義と、それをどのようにしてより実り豊かなものとしていけるかについて、実践的にアドバイスを与えてくれる本である。
3章から成り、幼稚園の園長をはじめ、先生方がどのようにして、幼稚園の教育の質を高めていけるかを、幼稚園の経営コンサルタントとしての長い経験から、奨めている内容になっている。
雑賀氏は、1976年生まれであるから、まだ、41歳という若さである。しかし、何百という全国の幼稚園を見て廻り、そこから考え出された内容からは、老練な経験を積んだ熟練者としか思われない、分かりやすいが、深い思索と研究に基づく啓蒙書となっている。
私は、このような書物は始めて読んだが、挿絵入り、図解入りで、現代の日本の幼稚園の抱える問題点や今後の課題が、手に取るように分かった。
この本は、幼稚園に関わる先生方や職員一人一人にもぜひ読んでいただきたいものとなっている。大きな文字で、見やすい絵や図解を頼りに、154頁ほどのものであるから、一気に読むこともできる。現場で忙しい先生方にも読んでいただいて損はないと思う。
とにかく、幼稚園は、人で決まるというのが、雑賀氏の強調してやまない点である。そして、少子化で今後厳しい、生き残りを巡っての時代が続くが、その園でしかない魅力をアップしていくことを提唱され、そのための具体策を一つ一つ挙げていかれる。
そして、今の日本で、社会が混沌としてきている中で、幼稚園の使命とその教育のやりがいの大きさを訴え続ける内容となっている。
このような仕事をなさっておられる方がいるのだと、新しい眼が開かれた思いである。私は、会社に勤めた経験はないが、世の中にこのような働きを担っている方が数多くいて、今の社会は成り立っているのであろう。
そして、幼稚園も人が担っているのであり、それぞれに園の歴史や”園風“

はあるが、人の和が結集されて始めて、良き働きが生み出され、十分な働きが可能になることを、この書を通して改めて気付かされている。