2018年2月20日火曜日

「偽りなき人生を歩むために」(マルコによる福音書第1章12節~13節)


マルコによる福音書第112-13節、2018218日(日)、四旬節第1主日礼拝、(典礼色―紫―)、創世記第98-17節、ペトロの手紙一第318-22節、讃美唱25(詩編第251-9節)

説教「偽りなき人生を歩むために」(マルコによる福音書第112節~13節)



 今日は、レントに入っての最初の主の日の礼拝です。2月の第3日曜日でもあり、飯田教会では特別伝道礼拝の日でもあります。月に一回、何とかして、私どもの家族や知人・友人をこの礼拝の場に迎えたいと思ってのことです。
 さて、レント、四旬節、受難節ともいわれるイースター前の日曜日を除く40日間の大切な時期が、先週の水曜日、2月14日の「灰の礼拝」の夕べから始まり、先週の変容主日の白から、聖壇やストールの色は、主イエスの血の色、あるいは十字架につく前に着せられた緋色の衣を表す紫に変わっています。
 この時期は、古代の教会の時から、洗礼志願者が、イースター、復活祭に洗礼を受けるための準備の期間として大切にされてきました。飯田教会ではまだ、今年のイースターに洗礼や堅信礼を受けたいという申し出は受けていませんが、そのような希望を出す人が一人でも出て来ることを、心より祈っています。
 さて、四旬節第1主日に、毎年与えられる福音の個所は、「40日の荒れ野の誘惑・試み」と言われる個所であります。
 今年は、3年サイクルのB年で、マルコによる福音書第1章12節と13節の異例ともいえる非常に短い個所が与えられています。
 また、第1朗読は、創世記から、ノアの箱舟の記事が挙げられ、そこでは、ノアの洪水の後、主なる神が、ノアの箱舟に乗った8人とすべての生き物とに対して、もう二度と地上の人間や被造物を呪うことはしないと契約をし、そのしるしとして、虹を与えると約束されています。
 第2の朗読、ペトロの手紙1からも、ノアの箱舟について言及し、あの洪水は、主イエスの洗礼をあらかじめ示したものであり、私どもの受ける洗礼とは、肉の汚れを取り除くことではなく、神に正しい良心を願い求めることであると説かれています。
 さて、今日の福音の出来事は何を意味しているのでしょうか。それは、非常に短く、主イエスが荒れ野に導かれたことの意味と秘密について語っております。今日の説教の題を「偽りなき人生をあゆむために」と付けておきましたが、この日の出来事に、私たちの人生が真実なものとなる鍵が隠されていると言っても過言ではないのです。
 今日のみ言葉は、もとの文をそのまま、訳しますと、以下のようになります。「そして、すぐ、かの霊は、彼を荒れ野へと追い払う。そして、彼は、サタンによって試みられながら、40人間ずっとおられた。そして、彼は野獣どもと一緒におられた。そして、み使いたちが、彼でもって仕えていた。」
まことに、簡潔であっけないほどです。しかし、これは、主イエスの来られた意味を、すべて表しているかのようにすさまじいみ言葉であります。
 「そして、すぐに」とは、主イエスの洗礼の出来事のすぐのちに直ちにということであります。天が裂け、聖霊が下り、天から、あなたこそ、私の愛する子、私が喜ぶものである」と主イエスの洗礼のときに起こった出来事に続いて、すぐに出来事が続いているのであります。
 神のみ霊は、主イエスを、荒れ野へと追い出すのであります。荒れ野とは、いかなる場所でありましょうか。それは、人が生きていけないような過酷な場所であります。出エジプトの民が40年間さまよい、神に不平をつぶやき、主のご意志に従順に従えなかった場所であり、その期間でありました。
 主イエスはその人生の荒れ野、孤独、神との疎外された状況、生死の過酷な荒れ野へと40日間、聖霊によって投げ込まれるのであります。
 そして、サタンによって、そその間試みを受け続けられるのであります。サタンは、人間を告発するもの、そして、神のご意に敵する者であります。主イエスは、人間の身になられたが、一度も罪を犯さなかった唯一の方であります。
 その方が、私どものために、私どもが直面しますあらゆる苦悩、試練や誘惑に向かい合われたのであります。
 マタイやルカとは違って、マルコでは、この40日間の中で、主イエスはサタンに打ち克たれ、サタンはここで離れ去ったとは書かれていません。
 主イエスの全生涯は、人を神から引き離そうとするサタンとの闘いの継続であります。
 今日の出来事は、主イエスの洗礼に引き続いて、ただちに起こっています。主イエスの洗礼によって、私たちも同じ主イエスからの洗礼に与り、神の子とされています。レントのこの時期は、私たちが受けた洗礼を思い起こすべき時でもあります。マルティン・ルターは、大教理問答書の「洗礼について」の中で、私どもの洗礼は、生涯日ごとに思い起こし、受けるべき洗礼であると言っています。そして、それは主イエスが今もなお、私たちの受けるあらゆる試み、誘惑にあって、主イエスが共に戦ってくださっているということであります。野獣たちがひしめく、私たちの人生の荒れ野にあって、主が先だって、たとえ死の陰を歩むときも、この方が共に導いて下さっています。偽ることのない人生を歩むために、私どもの弱い力や知恵によるのではなく、私どもの罪を担うために来られ、十字架につき、死んでよみがえるために来られた神の独り子と共に歩むことが、この日の出来事によって私どもの一人ひとりに約束されているのであります。それを信じて主に従う日々を歩んでいきましょう。アーメン。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                       

2018年1月22日月曜日

「人をすなどる漁師にしよう」(マルコ福音書第1章14節~20節)

2018121日、顕現節第3主日(―典礼色―緑―)、エレミヤ書第1614-21節、コリントの信徒への手紙第729-31節、マルコによる福音書第114-20節、讃美唱62/2(詩編第629-13節)

説教「人をすなどる漁師にしよう」(マルコ福音書第114節~20節)

 この日から、教会暦では顕現節第3の主の日として、典礼色は緑に変わりました。緑は、神における希望を表しています。ちょうど、ノアの洪水の時に、放った鳩が、オリーブの枝をくわえて戻ってきて、洪水が引いたことを知らされたように、神のみわざとみ言葉を学ぶときとして、今日からの時期を過ごすのであります。
 そして、今日の第1朗読は、エレミヤ書からであり、そこでは、バビロン捕囚から解放されて帰って来る喜びを、エレミヤは預言していますが、そのときには、漁師が多くの魚を釣り上げ、また、狩人たちが、岩の裂け目から獲物を引き上げるとの預言があり、罪人を神がお裁きになるとの警告がなされています。
 また、今日の第2朗読のコリント書一のパウロも、終わりの時が近づいているのだから、今からは妻を持つ人は、持たないかのように、喜ぶ人は喜ばない人のように生活するように、なぜなら、この世の事柄は過ぎ去るからであると、私たちの生き方の姿勢を、改めるように促しています。
 そして、今日のマルコ福音書は、主イエスが、私たちとの公生涯に入られた後の最初の説教と、なさったみわざが記されています。
 ヨハネが捕らえられたのちに、イエスはガリラヤへとやって来られたと、今日の記事は始まっています。
 ヨハネの受難が記され、それは、やがて主御自身の受難へとつながることを示しています。そして、それは実は神御自身のご意志がそこに働いていることを意味しているのであります。主イエスも、十字架におかかりになることが、ここに既に予期されているのであります。
 そして、主はここで宣言なさるのです。時は満たされた、神の国は近づいた。なんじら悔い改めよ、そして福音を信じなさいと。
神が王となられるとのイザヤ書のみ言葉、喜ばしい知らせを告げる者が来るとの約束が、主イエスがお出でになることによって、既に実現しているのであります。主イエス御自身が福音なのであります。ただ、そのお方に信頼して私たちの全生活の向きを合わせるだけで、十分なのであります。神の国、すなわち、神が王となられるという旧約聖書の約束が、主イエスのご到来において、また、その説教において、存在において成就されているのであります。
 そして、主イエスは、ガリラヤの海に沿って、通り過ぎておられましたときに、網を打っているシモンとその兄弟アンデレをご覧になる。漁の最中の漁師であります。そして、主は、私の後にやって来なさい、そうすれば、あなた方を人間をとる漁師に成れるようにしてあげようと招くのであります。
 かつて、評論家の亀井勝一郎氏は、この漁師たちの召し出しについて、書いております。耶蘇はなぜこれらの太古の自然の民を弟子として召し出したのであろうかと。そのままにしておけばずっと良かったのではないかとでも言いたげであります。
 しかし、果たしてそうでしょうか。彼らは無学なガリラヤの漁師に過ぎなかったかもしれません。しかし、主の一方的な呼び出しに対して、すぐに網を捨てて、主に従って出て行くのであります。これによってどれほどの多くの罪に死んでいた人間たちが、新しい命へと変えられていくことになったことでしょうか。人をすなどる漁師に成れるように、私があなたがたに責任を持つから、ついて来なさいと、招かれ、その場で新しい生涯へと旅立ってゆくのであります。それは、アブラハムが、主なる神の導きによって新しい地へと出て行ったのと同じであります。
 主イエスは、さらに少し進まれたとき、舟の中で網の手入れをしている別の兄弟、ヤコブとヨハネを目にとめ、すぐに呼びますと、彼らも、父と雇人を後に残して、主に従って出て行ったのであります。
 先ほどの亀井勝一郎さんの言葉ではありませんが、私どもも、主イエスによって呼び出されなかったならば、もっと楽であったのにと思うようなこともあるのではないでしょうか。
 洗礼を受けて、主イエスの弟子とされている私共一人ひとりであります。
旧約聖書の時代、エレミヤの預言によれば、神御自身が、人間の罪とがを漁師となって終わりの日に裁かれると預言されていました。人間の罪をそのままにしておかない、終わりの日の裁きが記されています。

 しかし、主イエスがお出でになられて、私があなた方を人をすなどる漁師に成れるように作ろうと招かれたのであります。福音、喜びの知らせである主イエス御自身があなた方を、罪に悩む人間どもを救う代理人あるいは助手にしよと召し出されたのであります。闇に打ち伏せるガリラヤの民に、光が与えられたのであります。人間に寄り添って、罪の縄目から解き放ち、共に重荷を担っていく12弟子たちを、主イエスは必要となさるのであります。 そして、それは、2000年を隔てて、洗礼を受け、信徒となり、弟子となっている私共にとっても、同じことと言ってもいいのではないでしょうか。 私の後について来なさい、あなた方を必ずや人をすなどる漁師に成るように、私が作ろうと、主は今も招いておられます。復活の主が導いて下さいます。アーメン。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    

2018年1月17日水曜日

―最近読んだ本からー「土の器」 阪田寛夫著

―最近読んだ本からー「土の器」
阪田寛夫著
昭和50315日 第1刷発行
昭和50623日 第2冊発行
定価:絶版にて近くの図書館か古本屋でお求め下さい
発行所 文芸春秋
  説教塾主宰の加藤常昭先生からの紹介で「土の器」を読んだ。私が手にした「土の器」は、文芸春秋発行の本で、それは5つの短編から成っていて、そのうちの「土の器」のみを読んだのであるが、それはいずれも著者の身内を扱った小説とのことである。①「音楽入門」は著者の父を、②「桃雨」は祖父を、③「土の器」は母を、④「足踏みオルガン」は叔父を、⑤「ロミオの父」は作者の娘のことを中心に書かれているとのことである。
 さて、今回の「土の器」の感想文は、ご自分の母のことを記した③の「土の器」であることを記しておきたい。これは、現代の介護が、大きな問題になっているが、その先駆けとも思われる作者の母の晩年の病気との闘い、そして家族がその介護に、翻弄される物語である。著者の母は、熱心なクリスチャンであった。その死に至るまでの経緯が、小説家らしい観察と洞察、表現力で事細かく、記されている。人が死ぬるときは、ここに記されているような深刻な問題にだれもが突き当るのではないか。病気と老いの問題と、本人を取り巻く家族の問題が、キリスト教徒の家族であるがそれだけに母を見て来た息子の立場で鮮明に浮き彫りにされている。阪田寛夫は、19251018日生まれで2005322日逝去79歳の生涯で、日本の詩人、小説家、児童文学者とあり、身内にも著名人が何人もいて、古い血筋の家系に生まれ、大阪市の育ちであって関西に長くいた私には、なじみやすい小説でもあった。「土の器」とはご存じのとおり、パウロのコリントの信徒への手紙二第47節に出て来る言葉である。著者の母の体がすい臓がんに侵され、末期には、点滴のきれいな液と、対照的に配管から出て来る尿のこげ茶色の黒くなった血のような液など、死期を前にした人間の肉体が壊れて行く描写などが生々しい。そして、クリスチャンとして歩んだその生涯が重病を通しての心理の変化、末期の描写が、阪田寛夫でしか書けないタッチで記されている。私どもの信仰とはいったいどのようなものなのだろうか。クリスチャン家庭で子供の育った心理も窺われて反省もさせられるが、この小説は誰が読んでも得るところが大きいと思う。パウロは、我々は「土の器に」神の賜物が込められているという。阪田寛夫は自分の母親の最期まで介護し、この小説を書きその後どのように変えられていったのだろうか。








2018年1月13日土曜日

宗教改革500年合同集会 <2017年11月22~23日長崎の浦上天主堂にて全国教師退修会・カトリックとの記念シンポジウムと合同礼拝

宗教改革500年合同集会
2017112223日長崎の浦上天主堂にて全国教師退修会・カトリックとの記念シンポジウムと合同礼拝https://youtu.be/CkLUSYOPZoA
マルティン・ルターの95箇条の提題、15171031日にビッテンベルクの城教会の門扉に掲示から、500年を記念して、日本福音ルーテル教会と、日本カトリック司教協議会は、長崎市にあるカトリック浦上教会で、宗教改革500年を共同で記念する行事を1123日(木・祝)に共に行いました。
 これに先立って、1122日には、日本福音ルーテル教会の現役教職数約90名は、同じ浦上教会の一角を使用して全国教師退修会を開き、長崎市で宗教改革を記念する意義を考え、平和についての学びを改めて行いました。
 講師として、平和学の専門の鹿児島大学教授木村朗先生をお招きし、長崎に原爆が落とされた経緯、そして今に至る原発の推進の経緯が説明され、原子力の平和利用はあり得ないとの先生の結論が示され、現在世界を覆っている暗雲を取り去る必要が迫っていることを知らされました。
また、この退修会の中では、懸案であった新式文も二通りのもの、ピース案とハート案とがCDで披露され、これは今年20185月の全国総会で承認されて、各教会で順次、用いられることになるでしょう。それになじむまで各教会で、練習をしたり、定着させる努力がかなり必要となることでしょう。因みに、聖書も2018年の終わりころには、これまでの「新共同訳聖書」に代えて、「共同訳聖書」として日本聖書協会から出版される予定です。
 退修会では、そのほかにも、各施設や教会の内外で「平和を実現するためのワークショップ」も行われ、また、ルターの信仰義認の真意をつかむために、むしろ「恩恵義認」恵みによって義とされると考えたほうがいいのではないかとの江口再起先生の講演もありました。
 そして、いよいよ、1123日(木・祝)を迎えました。前夜の雨から打って変わって、青空に恵まれてのカトリック浦上天主堂での共同記念の時を迎えました。
午前は、天主堂の中にある被爆のマリア聖堂で、ルーテル教会の教職、信徒が一堂に会しての早天礼拝から始まりました。この朝の礼拝は、東教区教師会長の、大森教会の竹田牧師が説教に当たりました。
 その後、浦上天主堂の大きな聖堂で、1300人に及ぶ、日本福音ルーテル教会とカトリック教会の信徒、教職が集まり、午前中は、シンポジウムが開かれ、宗教改革500年の意義について、カトリックの司祭や、ルーテルの教職の代表が発題をしていきました。被爆にあったという深堀好敏という浦上教会信徒の方は、体調不良で、急遽、カトリック中町教会主任司祭の橋本薫神父が、長崎市の、しかも原爆直下の浦上教会で、宗教改革500年を記念する意義を説かれました。知られている通り、この地は、キリシタン迫害のなまなましい歴史を担っている場所であります。
 ユーモアを交えて語る橋本神父の講演は、カトリック教会の懐の広さを知らされるものでありました。ルーテルからは、石居神学校長が、ルターの罪認識の深さについて考究し、それが現代世界で生かされる道を考えさせられました。光延神父は、世界のエキュメニズム(教会一致運動)の中で宗教改革500年の意義を捉え直すべきであるとし、ルターも当時の世界に「福音」が見えなくなっていたのに異議を申し立てたとし、新たなカトリック性(全一性、全体に従っての意)を求めるべき時だとされました。
午後1時半からは、100人を超えるルーテルの教職とカトリックの司祭の合同司式団によって、総勢1300人の合同礼拝が実現したのでした。これは100年前の宗教改革400年記念の年には考えられないことでした。 本教会提供のDVD「リック・スティーヴスと歩むールターと宗教改革」をご覧になれば分かる通り、ルターの宗教改革以後、血なまぐさい宗教戦争や争いが起こって、歴史は展開されてきました。私たちは、宗教改革者たちの戦った信仰の戦いを、受け継ぎながらも、現代の国内外の争いの絶えない世界情勢の中でまことの平和を求めつつ聖書の示す神観に立って、一筋の希望の光を見出しながら、和解の任務を負った奉仕者として、教派間の違いや対立を超えて手を携えて、福音を伝える者となりたいものです。




2018年1月12日金曜日

「異邦人に示された救い」(マタイ福音書第2章1節~12節)  

201817日(顕現主日聖餐礼拝―典礼色―白―)、イザヤ書第601-6節、エフェソの信徒への手紙第31-12節、マタイによる福音書第21-12節、讃美唱72(詩編第721-15節)

説教「異邦人に示された救い」(マタイ福音書第21節~12節)
 
2018年に入っての最初の日曜日は、顕現主日あるいは公現主日と言われ、古くから、伝統的な教会ではマタイ福音書第2章1節から12節が読まれます。
 そして、この日は、東方教会では、今でも、この箇所が読まれて、クリスマスとして祝われています。今日与えられている旧約聖書の日課、使徒書の日課、また讃美唱の詩編の72編の記事も、いずれも異邦人に救いが、そして、キリストの福音が宣べ伝えられていくことを、預言し、あるいは証言しています。異邦の王たちが、まことの王、救い主イエスのもとに向かって、金や乳香、香料などの財宝を携えて、忠誠を誓い、ひれ伏し仕えるために到来するというのです。
 さて、1年の初めの主の日に当たります今日、この記事を与えられているのは、何のためなのでしょうか。この新しい一年、2018年はどのような年になるのでしょうか。この新年をどのように、皆さんお迎えでしたでしょうか。私は、新年礼拝を守った後、翌日にとんぼ返りでしたけれど、松山の母や妹を訪ねて帰省してきました。今年88歳を迎えます母は、かなり認知症が進んでいるようでした。一生のうちで、私たちが元気に過ごせる時間というものも、限られていることを改めて感じさせられたことでした。
 今日のテキストの、東の方で、その方の星を見たので、私たちは、その星に導かれて、お生まれになったユダヤ人の王を拝みに来たのですという記事を思い起こさせられました。私たちを導く星とはいかなるものでしょうか。私たちを導く主の星は、今年どこに私たちを導こうとしているのでしょうか、今日の福音から聴いていきたいと思います。
 マタイ福音第21節以下は、もとの文を見ますと、このように始まっています。
「で、そのイエスは、ヘロデ王の日々において、ユダヤのベツレヘムにおいてお生まれになった」と。そのお誕生の場面、状況は、ルカ福音書のようには何も記されてはいません。
  その時、東方から、マゴスと言われる者たちが、エルサレムに到着して、言うのです。
「お生まれになったユダヤ人の王はどこにいますか。私たちは、その方の星の昇るのを見たので、拝みに来たのです」と。ところが、これを聞いたヘロデ大王は、うろたえた。さらには、エルサレムの全住民もそうだったとあります。なぜでしょうか。ヘロデ大王は、自分は、ユダヤの出ではなく、イドマヤ、エドム人の血を引いており、水道工事やエルサレム神殿の再建など、行政的には非常な実績をあげていましたが、正当なユダヤ人たちの王ではなく、長い統治の晩年には、猜疑心が強くなり、自分の妻や息子も殺めたりする残虐な支配者であり、そのことは、この記事の後の嬰児虐殺をみてもわかることです。
 それでは、全エルサレムも、同じだったとは、どういうわけでしょうか。そこには、エルサレムの慰められるのを待ち望んでいたシメオンやアンナもいたのではなかったか。確かに敬虔な、救いを待ち望んでいた住民も少なくなかったでしょうが、その指導者たちをはじめ、ここに住むユダヤ人たちが、結局は、主イエスを十字架にまで追いやり、その血の責任は我々と子孫にあると公言するに至るからであります。
新しい誠のユダヤ人の王を必要としないどころか、それは、自分たちの現状維持にとって不都合なものだと、不安におびえたのであります。私たちは、どうでありましょうか。
さて、ヘロデは、聖書に詳しい、民の祭司長たちや律法学者たちを皆呼び集めて、どこにメシアは生まれるのかと、問いただします。彼らは、一致して、すぐこう答えます。「ユダのベレツレヘムです。なぜなら、こう預言者が語っています。ユダのベツレヘムよ、お前は決してユダの君たちの中で最小の者ではない。お前の中から治める者が出て来、その者が我が民イスラエルを牧するであろうと。」
ヘロデは、今度は、マゴスたちを密かに呼んで、星が昇り、輝いたのはいつかを詳しく尋ね、突き止めます。そして、彼らを送り出して言うのです。「お前たちは行って正確にその子のことを調べてくれ。そして見つかったら、私に報告してくれ、私も拝みに行きたいから」と。彼らはこれを耳にしながら出て行きますと、見よ、その昇るのを見たその星が彼らに先立ち、その子のいる真上にまで進んで、そこでぴったりと止まったのであります。「彼らはすこぶる大きな喜びを喜んだ」とマタイは、その喜びの大きさを特別に表現しています。彼らが捜しに探して、ここまで来た、そのお方についに達した喜びであります。私たちが捜しに探して歩んできたものは、何でありましょうか。私たちが心の底で求めてやまなかった方は誰でありましょうか。
彼らは、家の中に入ると、そこにその子を、その母マリアと共に見出し、跪いてひれ伏し、その宝箱から持参した贈り物、金、乳香、没薬をささげます。そして、夢でヘロデのもとに戻るなとのお告げを知らされ、別の道を通って彼らの本国へ帰って行ったのでありうます。彼らはいかなる出自の者だったのでしょうか。マゴスとは、魔術師とも訳されます。ただはっきりしていることは、彼らは神の民イスラエルには属さず、東の国から来た異邦人たちであったということです。その彼らに、星の輝きが示されて、その星のたどり着くところまで導かれて、その星の主を知り喜びにあふれ、そのお方に礼拝をし、最高の贈り物をして、変えられて、自分の国に帰って行ったということであります。
私たちも、この星の輝きの主を知っております。このお方を礼拝しつつ、すべての私たちの持ち物をこのお方のために用いる、そのような一年とさせたいものであります。
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☆今、毎月第1金曜にルターの学びをしています。現在はエンキリディオン、小教理問答書を学んでいます。「主の祈り」が終わったところです。大教理問答書は絶版ですのでコピーしていますができれば毎日少しずつでも3冊を並べて聖書個所が挙げられていれば必ずそこも聖書を開いて参照しながら学ぶのがコツです。聖書日課等と一家で夕食前等お薦めです。(次回2/2、金曜に、洗礼・聖餐・懺悔)。尚、218日(日)は特別伝道礼拝日!
















                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        

2017年12月31日日曜日

最近読んだ本からー 「祈る―パウロとカルヴァンとともに」 ルドルフ・ボーレン著 (川中子 義勝[訳])

―最近読んだ本からー
「祈る―パウロとカルヴァンとともに」
ルドルフ・ボーレン著
(川中子 義勝[訳])
20171130日 初版発行
定価(本体2700+税)
発行所 教文館
 今年は、宗教改革500年の記念すべき年である。マルティン・ルターの95箇条の提題に始まった宗教改革のもう一人の忘れてはならない人物は、ジャン・カルヴァンである。
 このほど、説教塾ともつながりがあり、加藤常昭先生の説教学の先生でもあるルドルフ・ボーレン著の「祈る」という本書が川中子義勝先生の翻訳で出た。名訳であると思う。祈りに関する著書は、たとえばルターの大教理問答書の主の祈りに関するものなど多数あるが、本書は、「パウロとカルヴァンとともに」と副題がついているように、特にパウロ書簡のテモテへの手紙第一、第二を拠り所にしながら、文字通り「祈る」作業を、ボーレン先生を含めて、パウロ、カルヴァンの三人で進める体裁をとっている。
 最初読んでいくと、パウロの手紙を、カルヴァンが行った注解の言葉をずっと紹介しているのかと思って読んでいったが、カルヴァンの注解や同労者などに出した書簡の言葉は、いずれも終わりに記されていて、その間の橋渡しの言葉は、詩人でもあるボーレン先生のパウロのみ言葉をめぐる思索の言葉であり、「祈る」ことそのものであることが分かった。神学とは祈りである。

 ボーレン先生は、改革派の神学者で、カルヴァンの流れから、近くでは、バルトやトゥルナイゼンなどと親しい関係にあられた。親日家でもあり、日本の「源氏物語」などに関する著述もなさっておられるようである。 今回の著書を通して、ボーレン先生の神髄に触れた思いである。私どもは、ルーテル教会員であり、マルティン・ルターの著書を通して、信仰による義から始まって、義人にして同時に罪人、生涯は悔い改めの連続など、それは、プロテスタント一般に、あるいはカトリック教会においても、承認されているといっていい信仰生活の宝であり、宗教改革の出発点といっていいルターの教理であるがそれを前提とした上で、カルヴァンはそれを更に教会生活の上に受肉させ、信仰の聖化、浄化と言おうか、祈りにおいて教会制度の確立を目指したのではないか。

2017年12月18日月曜日

「キリストを証しする者」(ヨハネ福音書1:19-28)

20171217日(待降節第3主日―典礼色―紫―)、イザヤ書第611-4節、テサロニケの信徒への手紙一第516-24節、ヨハネによる福音書第119-28節、讃美唱301302(ルカ福音書第147-55、ルカ福音書第168-79節)
     説教「キリストを証しする者」(ヨハネ福音書119-28
 今日で三度目のアドベント、待降節の主の日を迎えています。今日は、先週のマルコ福音書による出だしの、洗礼者ヨハネの記事に対して、ヨハネ福音書の洗礼者ヨハネの記事、第1章19節から28節までが、与えられています。共観察福音書の記事と比べて、ヨハネ福音書における洗礼者ヨハネは、違った見方から、記されています。
 マルコ福音書などでは、ヨハネは、主イエスの先駆者として現れ、人々に、主、メシアがお出でになる前に、悔い改めの洗礼を説教する者として、言わば、旧約の預言者の最後の者として、また、旧約のどの預言者よりも大いなる者として登場しているのですが、ヨハネ福音書では、あくまで主イエスの到来を告げる者、キリストの証人として、位置付けられているのです。
 ヨハネ福音書では、主イエスは、光として、この世にお出でになりますが、ヨハネはあくまでも、その光について証しする者に過ぎないのであります。
 そのヨハネについて、ヨハネ福音書では、その序章に続いて、どのような者として、現れたのかを、主イエスの登場の前に、すぐ記されているのであります。
 すなわち、ヨハネの証しはこれであると、ロゴス賛歌のあとに、続けられ、それは、ユダヤ人たちが、エルサレムから、祭司やレビ人たちを遣わした時のことであると始まります。
 あなたは、だれなのかと彼らは、ヨハネに向かって問いかけるのであります。人々は、メシアを待望していました。ユダヤの当局にとっては、期待と共にそれよりも恐れの方が大きかったのであります。ユダヤ全土に知れ渡っていた洗礼者ヨハネは何者なのかを知ろうとしていたのであります。
 それに対して、ヨハネは、告白し、真理を隠すことはなく、自分は、キリストではないと、明言して語るのであります。では、エリヤなのかと彼らが聞くと自分はそれではないと言い、では、かの預言者なのかと問い詰められると、「否」と次第に短い問答となります。
 自分はそのような、メシアでもなければ、メシアの時に現れるメシアに近い人物でもないと言い切ります。
 それでは、何だというのか、送り出したユダヤの者たちに答えれるようにしてくれと強いられたとき、ヨハネは、イザヤの預言に従って、自分は荒れ野で呼ばわる声、主の道をあなた方は真っ直ぐにせよという声に過ぎないと断言するのであります。
キリストがお出でになることを告げる声に過ぎないというのです。キリストの証し人に過ぎないと。これは、しかし、素晴らしいことであります。この世に来た光を証しする証人だと、自分のことを、はっきりと告白している。
 これは、洗礼者ヨハネに限らず、私どもも言うことのできる、最高の言葉であります。そして、アドベントの今、一番大事なことは、キリストこそ救い主であると呼ばわる声に、私どももなることができるということであります。 
 ヨハネを問い詰めたユダヤ人たちは、ファリサイ派であったと記されています。これは、ヨハネ福音書が書かれたころ、教会を迫害していたのはファリサイ派のユダヤ人たちであったことが、窺われる記事であります。
 ヨハネ福音書はこのようなファリサイ派からの迫害下にあって、救い主キリストへの信仰を捨てないように励ますために書かれたものだと言われます。
 このアドベントの時期にここが読まれますのは、私たちも、来たるべき主イエスへの信仰を、確認し、力強く証しすることができるためであります。
 更に、ではなぜ、洗礼を授けているのかと問われると、自分の後に来る方は、その靴紐を解くことにさえ自分は価しないが、その方はあなた方は知らないが、あなた方の中に既に立っておられるという。
 ユダヤの当局の者たちは、キリストを理解できなったのであります。しかし、あなた方の只中に既に立っておられると、洗礼者ヨハネは、その到来を告知するのであります。自分は、キリストでもなければ、それに近い預言者やメシア的存在でもない。ただ、キリストを証しする声として立っていると断言するのであります。
 私どもも、アドベントを迎える時、そのようにキリストの到来を証しするものとされたいと思います。
 今日の福音、ペリコペーの最後の節には、これは、ヨルダン川の向こう側のベタニアでの事であったと記されています。この救いの出来事が、確かな時と場所において起こったことを聖書は書き記すことを忘れません。
 確かにこの地上で、特定の場所と時において、この救いの出来事は、起こったのであります。
 このヨハネ福音書の初めの出来事として、洗礼者ヨハネの行ったこと、語った言葉が、私どもに救いの到来を証ししているのであります。そして、一年の初めに、私どももその声に耳を澄まし、主のお出でになる道を真っ直ぐにし、主のお進みになる道を整えると共に、自分の栄誉や評判を求めるのではなく、主の栄光をのみ求め、キリストを証しする喜びに行きたいものであります。
 そして、クリスマスを、1週間後に迎えようとしている今、このキリストの身を伝える声としての伝道にいそしむ1週間としたい者であります。アーメン。