2017年6月22日木曜日

「思い煩いは神にゆだねる」(マタイによる福音書第6章24節~34節)

マタイによる福音書第624-34節、2017618日(聖霊降臨際後第2主日礼拝―緑―)、イザヤ書第4913-18節、コリントの信徒への手紙一第41-13節、讃美唱92(詩編第922-10節)

説教「思い煩いは神にゆだねる」(マタイによる福音書第624節~34節)

教会暦の上での大切な、四旬節、受苦日、復活祭、復活節、聖霊降臨祭を過ぎて、今日から再び、聖霊降臨後の季節に入りました。
今日は、「思い患いを神にゆだねる」と説教題を付けておきましたが、正しくは「思い煩う」と書くべきでしょう。しかし、思いわずらうことは、ある意味で病であり、その意味では間違った題ではないと改めて思うのであります。
私の母がまだ洗礼を受ける前に、私が高校のころでありますが、この主イエスのみ言葉を読んで、この言葉だけはその通りだなと思うと、私に語ってくれたことを思い出だします。
今日の個所は、新共同訳では、マタイ福音書第6章の24節と25節の間には1行あけてあって、25節から34節までが、一つの段落となっているのですが、私どもの聖書日課、ペリコペーでは、24節から34節までが、一つもまとまりとして続けて読むように、伝統的な区分に従っているのであります。
さらに言えば、この分け方は、第6章の19節からの流れに沿って読まれるべきことを指示しているように思います。天にあなたの宝を積め、あなたの宝のある所にあなたの心もある。あるいは、あなたの心の目は澄んでいるのか。そして、そこに、あなた方は二人の主人にかね仕えることはできない。そして、あなた方は富、マモンと神とに、かね仕えることはできない、と主は言われ、そして、そのあとに、今日の何度も繰り返される「思い悩むな、思いわずらうな」という言葉が出てくるのであります。
主は、悪魔的で人格的な力を持つ、富、マモンなるものと、神とにかね仕えるべきではないと言われるのではなく、かね仕えることはできないと断言されているのであります。そして、それだから、あなた方は命のことで何を食べ、何を飲み、体のことで何を着ようかと思い煩ってはならないと言われる。
神に仕え、従っていくために、思い煩いから解かれて、また、空の鳥、天の鳥や野の花のように、すべてを神の守りにゆだねて、なすべきことをなしていくようにと言われます。思い煩わないで、生きてゆくことができると、主は、私どもの日々の労苦を十分にご存知の上で、また、御自分はそのような、思い煩い、日々の悪、人生の苦難をその身に、私どものために代わって引き受けられながら、しかし、あなた方は、その日々の思い患いから、解かれて生きてゆけると、ここに約束なさっておられるのです。そのために、どうすればよいのか。主は、まず第1に神の国と彼の義を求めなさい。そうすれば、あなた方に必要な者は添えて与えられようと言われます。神は、私どもが祈るよりも先に、私どもに必要なものが何であるかをご存じであると言われます。
そして、旧約の詩人も、自分は、主に従う人が、他人にパンを乞い求め、さらには、その子孫までもがそうするのをいまだかつて見たことがないと証言しています。
マモンに決別し、神にのみ仕えていくとき、日々、耐えられないような労苦、災厄に遭うということもありましょうが、神がそこにも支配しておられるのですから、一日一日を神のご支配にゆだねて、その一日を精一杯生きてゆくことができる。その主の言葉に励まされて、私どもは、思い煩いから解き放たれた、キリスト者の歩みをさせていただきましょう。アーメン。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                               

2017年6月15日木曜日

「神のみわざを語りだす弟子たち」(使徒言行録第2章1節~21節)

ヨハネによる福音書第737-39節、201764日(聖霊降臨際礼拝―赤―)、ヨエル書第3章1節-5節、使徒言行録第21-21節、讃美唱104(詩編第10424-35節)
   
説教「神のみわざを語りだす弟子たち」(使徒言行録第21節~21節)

  今日の礼拝を、ペンテコステの礼拝といいます。50日目の日の礼拝という意味です。ちょうど、今年のイースターが416日ですから、その日から数えて、今日64日が50日目に当たります。主イエスが復活させられたのが、イースターであり、過ぎ越しの祭りにおいてでありました。
 そして、復活の主は、弟子たちに現れ、使徒言行録によると、その後40日間、弟子たちと共に飲食をなさりながら、天に上げられる前に、父の約束されたものを、エルサレムにおいて待つようにとお命じになられました。そして、50番目のその日が満たされたのであります。
 それは、いみじくも、ユダヤ人たちにとっての七週の祭りに当たる日であり、五旬祭ともいわれる三大祭の一つに当たる、ユダヤ人たちにとっての集会の日でありました。当時のユダヤ人の成年男子は、過ぎ越しの祭りと、この日の五旬祭と、秋の仮庵の祭りの、年に少なくとも三回はエルサレムの神殿に詣でるべきこととなっていたのであります。この五旬祭は、他の二つに比べれば、地味な祭りであったようであります。
 イスラエルの民が、エジプトから、出エジプトの後に、カナンの地に戻り、農耕生活にいそしむようになって、最初は新穀の感謝、小麦の初束をささげる収穫感謝の祭りでありましたが、この時代には、他の二つの祭り同様に、出エジプトを記念する祭りの意味合いが濃くなり、特にシナイ山での十戒、律法を与えられたことを記念する祭りとして定着していたようであります。
 そういうわけで、この祭りのために、信心深いユダヤ人たち、またそのユダヤ教への改宗者たちが、地中海世界の方々から、また、東はチグリス・ユーフラテス川流域や、エジプト、カスピ海、黒海周辺、クレタ島からアラビアまで、さらには、ローマからも、エルサレムの都に戻り、滞在していたのであります。
 さて、この日に弟子たちは、一つどころに集まり、同じ一つ思いとなって祈っていたのであります。少し前の記事を読むと、二回座敷に集まり、120人ほどの者が、主イエスの母マリアも含めて祈っていたとありますが、今日の記事の者たちが、同じ者たちで、同じ場所であったのかは定かでありません。
 12人の使徒たちであったのか、ガリラヤからのもっと大勢であったのか。とにかく、その日、その家じゅうを、天から強い風が吹き付けるような音がして、今度は、家の中に座っていた者たちの上に、火のような舌のかたちをした聖霊が一人一人の上にくだってきて、とどまったのであります。そして、そのガリラヤからの主イエスの弟子たちは、聖霊に満たされて、おのおの違った言語の言葉で語りだしていたのであります。それは、異言を語るという場合に使われる言葉が使われています。
  さて、それを聞きつけた、エルサレムに滞在していた、世界中から集まっていたユダヤ人や改宗者たちがやって来て、自分たちの生まれ育った国の言語で、主イエスの弟子たちが、神のみわざを語りだしているのを見て、度を失して驚き怪しむのです。その出来事は、家で起こったとありますが、あるいは神殿でのことであったのでしょうか。そして、そこで見られた表象は何を意味していたのでしょうか。世界中から集められていたユダヤ人たちは、これは一体何なのかと戸惑い、ある者たちは、彼らは甘い新酒に酔っているのだとあざ笑うしかなかったのです。
  その時、ペトロが、11人と共に立ち上がって、復活の主イエスと出会って後初めての説教を語りだします。ユダヤの人たち、知っていただきたいことがあります。あなた方が見聞きしているのは、預言者ヨエルが預言していたことなのですと。終わりの日々に、-神は言われるー私は私の霊からすべての肉に向かって、それを降り注ぐ。そうすると、あなた方の息子、娘は預言し、あなた方の若者は幻を見、あなた方の内の老人は夢を見る。私のしもべ、しもめにも、その日々には、私の霊から、降り注ぐと彼らも預言するだろう。上で、天において前兆を、下で地の上ではしるし、証拠を、私は与えよう、血と火とたちこめる煙を。太陽は闇へと変えられよう、月は血へと、大いなる輝かしい主の日が来る前に。しかし、主の名を呼び求める人はみな救われるであろうと預言がここに実現しているのですと、ペトロは新しい時代を、ここに宣言しているのであります。

  ペンテコステのこの日の出来事は、キリストの時代から、教会の時代へと新しい時代が始まったことを記しています。聖霊がくだり、聖霊に満たされるとは、預言の言葉が与えられ、神のみ言葉を、弟子たちが語りだせるようになったということです。それは又、復活の主のみ名を呼び求める者は皆救われる時となったのです。そして、そのみ名の他に、この地上には救いは与えられていないのであります。主イエスと共にやって来ていたガリラヤの弟子たちの語る言葉は、バベルの塔の出来事の時に人々の言葉が互いに通わなくなったのとは正反対に、すべての国の人たちに分かる救いの言葉であったのであります。ヨエルの預言の言葉は、直接にはいなごによるユダの国の飢饉、危機に際しての、しかし、祝福と救いの約束を伴った、黙示録的な警告の預言であったといいます。しかし、弟子たちは、そこに主イエスの聖霊降臨の約束の成就を見てとることができたのであります。アーメン。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                       

2017年6月12日月曜日

「ヘブル書講義解におけるルターの神学思想」岸千年著

―最近読んだ本からー
「ヘブル書講義解におけるルターの神学思想」岸千年
発行 昭和36111日 1961    
           発行者 聖文舎
           印刷  精文堂KK
 今年はマルティン・ルターの15171031日の95箇条の提題から始まったとされる宗教改革から500年記念の年を迎えている。今から20年ほど前、結婚して水俣教会に赴任したころ、岳父から、家内の祖父に当たる岸千年先生の著書である本書を譲られ、読んだのであるが、当時内容を理解することはできなかった。本書は、岸先生が京都教会におられるころ、同志社大学を使って研究し、同大学から受けた博士論文であったと記憶する。私は京都にいた学生時代に京都教会に通うようになった者であるが、たまたま銭湯で知り合った統計学であったか、何かの老教授が「あなたは岸千年先生を知っているか」と聞かれたことがある。その後、何度か、岸先生は京都教会に説教に来られ、私も32歳で神学校に入ることになり、まる一年ほど神学校でもお世話になったのだが、先生は天に召され、そのとき先生の著訳書を集めたりしたのだが、不思議な縁でその孫にあたる家内と結婚することにもなったのである。
牧師となって23年ほどになるが、宗教改革500年でもあり、久しぶりにルターセミナーにも出、この度、本書を何とか通読することができた。先輩の牧師先生方からは、ルーテル神学校長初期の頃の岸先生は極めて厳しい校長であったことを聞かされている。しかし、私がお目にかかった先生は、いつもにこにこした、元気のいい好々爺であった。京都時代に薫陶を受けた婦人会のある姉妹から伺った、岸先生から聞いて、耳に残っている言葉は、「あれもこれもはできない。あれか、これかでなければならない」というものであった。少し、前置きが長くなってしまったが、本書を読んでの感想を記したい。この書は、1961(昭和36)年に発行されている。岸先生の生涯は明治311898)年115日生まれで、1989(昭和64年、平成元年)630日逝去であるが、91歳で天に召されるまでほぼ生涯現役であった。であるから、この書は、先生の油の乗り切った60歳ころに完成されたものといえる。ルターの「ヘブル書講義」(1517年~1518年)を中心に、ルターの神学、信仰、聖書解釈、人間観やキリスト論、罪観等々、いわゆるルターの神学の骨子を、2000年の歴史の中で洞察し纏めたものといえる。日本にルターを紹介した草分けでありその代表的著書といえよう。ルターの「聖書のみ」「信仰のみ」「恵みのみ」の真意が理解できた。今ではキリスト教専門の古本屋でしか、手に入らないが、3000円ほどで入手できる。



2017年5月24日水曜日

「執り成す方を送るとの主の約束」(ヨハネ福音書第14章15節~21節)

ヨハネによる福音書第1415-21節、2017521日(復活後第5主日礼拝―白―)、使徒言行録第1722-34節、ペトロの手紙一第38-17節、讃美唱66(詩編第661-9節)

 説教「執り成す方を送るとの主の約束」(ヨハネ福音書第1415節~21節)

 私どもは、ここのところ復活節を、ヨハネ福音書の告別説教の1節から与えられています。最後の晩餐で、主イエスが弟子たちの足をお洗いになられた。そして、あなた方も、師である私がしたように、互いに仕え合いなさいと教えられた後に語られているお言葉の一節であります。
 始めと終わりに、囲い込みのようにして、もしその人が私の言葉を守るならば、その人は私を愛する者である。私を、あなた方が愛するのならば、私の戒めを守るであろうと、主は言われています。ご自分は、もう数時間後には、弟子たちと、この地上での別れをすることになる。しかも、主は十字架上の死を遂げて、弟子たちは一旦はばらばらにされる時が迫っている。
 しかし、そこで、主は、あなた方は、私を愛するならば、私の言葉、あの身をもって教えた、主が私たちを愛されたように、互いに愛し合い、仕え合うとの戒めを、守るであろうと弟子たちに語られます。
 そして、この時、私は父にお願いしよう、別の弁護者をあなた方に与えてくれるように、そうすれば、その方はあなた方と永遠にいてくださることになると約束なさいました。
 この弁護者と訳されているもとの言葉は、パラクレートスという言葉です。そばで叫ぶ、あるいはそばに呼ばれるというパラクレオーという言葉から来ています。弁護士とか、カウンセラーとかの意味があり、助け主とか慰め主とか訳されてきました。主イエスも、パラクレートスとも言われ、新共同訳はここで、適切に別の弁護者と訳しています。主イエスに代わって、永遠に私たちと共に、私たちのそばにいて、私たちを励まし、支えてくれる聖霊を父が与えてくれるように、私はあなた方のために願おうと言われるのであります。
 このお方は、真実の霊であるとも主は言われます。主イエスは、ご自分こそ、道であり、真理であり命であると言われました。その真理と命である主御自身へと導くのが、この弁護者なる聖霊の働きであります。
 この世は、これを見ず、認識もしないが、あなたがたは、それを認識するであろうと、主は私どもがこのお方を認識することになると約束されたのであります。
 そして、主は、私はあなた方を孤児にはしておかないと言われます。聖霊が、この後、父への主の願いを通して与えられることになるからであります。そして、それと共に、主はご自身のご復活を約束して、続けて語られます。私はあなた方に向かってやって来る。あなた方は、私を見るであろう、なぜなら、私は生きる、そして、あなた方は生きることになるであろうからだ、と主はここで、主が、私たちのあらゆる罪責、死と闇を打ち滅ぼすために、十字架の死を遂げ、まったく新しい命によみがえられ、私たちもその全き命に生きるようになると、別れを前にしている弟子たちにはっきりと約束なさっておられる。
そして、もはや、私たちは誰一人として自分のために生きるのではなくなる。そして、もはや、孤独に、孤児として置かれることはなくなると、これから起こることを預言しておられるのであります。
それは、死を前にした人にとっても、「私は生きるので、あなた方は生きることになる」と主は真の慰めを、主イエスを信じるすべての人に約束なさっておられるのであります。
主イエスは、ここで繰り返し、「あなた方は、」「あなた方は」とヨハネの教会の人々に向けて語っておられます。私たちは、もはや独りぼっちではないのであります。
そして、主は、その日には、父が私の内におられ、私があなた方の内におり、あなた方が、私の内にいることを、あなた方は認識するであろうと言われます。
もうしばらくすると、世は私を見なくなるが、あなた方は私を見ると言われます。
そして、最後に、私の掟を持つ者、私の掟を守る者が、私を愛する者である。その人を、父は愛され、私もその人を愛するであろう、そして、私はその人に、自分を現すであろうと主は明言なさっています。
主イエスを愛する者とされる、それは、主イエスのご復活を信じて、新たに生きる者とされることであります。そして、それは、教会において起こることであり、兄弟姉妹のために祈り、仕え合うことを通して、初めて実現することであります。
この復活節の終わりの主の日に、私どもは、主のご復活の日に起こること、私たちの弁護者である聖なる霊が、私どものもとに送られ、そして、ご復活の主にまみえ、主と出会い、はっきりと認識するに至るとの主イエスの言葉をいただいています。そして、私どものすべての者がその言葉に生きることができます。
実際に主イエスと飲食を共にし、そのみ声に接し、手で触れていただいた、この日の弟子たちに勝るとも劣らず、私たちは、主イエスとは別のパラクレートスなる執り成し手である真理のみ霊をいただいており、また、ご復活の主に出会って、「私は生きるのであなた方も生きるであろう」との主の約束を受けて、生かされている幸いを、教会を通して、感謝したいものであります。



                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                   

2017年5月19日金曜日

―最近読んだ本からー 「国家神道と日本人」島薗進著

―最近読んだ本からー
「国家神道と日本人」島薗進
            岩波新書(新赤版)1259
発行 2016721日 第6刷発行    
           発行者 岡本厚
           印刷所 株式会社 岩波書店
 日本人は無宗教という言い方がしばしばなされる。島薗氏は、それに対して、そうであろうかと最初に疑問を出されている。この書を読む契機となったのは、尊敬する先輩の牧師先生が、島薗進氏の記事がその日の朝日新聞に載っているから是非読みなさいとのアドバイスからであった。
 早速、店で朝日を買ってきて読んだのである。それは、確か現在の安倍内閣の伊勢神宮参拝などの動向を危惧するものであったと思う。その記事の終わりに、先生の著書として、この本が挙げられていたので、買っておいたのである。先生は1948年生まれであるから、まだ69歳であり、今もなお、現代日本社会に対して、この著書のような発言をなさっておられることを思うと心強い。
 日本の神道の影響の多大であることを、島薗先生は、宗教学の立場から明らかにしておられる。一口に神道といってもその定義付けは難しく、特に明治維新以降の国家神道が、日本社会に及ぼした内容について、多くの側面から考察を展開しておられる。そして、国家神道の中心に天皇崇敬があり、皇室祭祀と神社神道が、紆余曲折を遂げながら、明治憲法、教育勅語などを転機として、戦時体制を整えていく展開となっていく。
 その中で、仏教や新宗教も取り込まれていったと大枠では捉えることができよう。明治維新の前から、尊王攘夷では一致していたとはいえ、神道と、国学、儒学の間での相克も一筋縄ではいかなかった歴史が検証されている。
 この著書の中では、内村鑑三の不敬事件が取り上げられているが、キリスト教、西洋思想は、明治政府の国家神道を日本国の国体とする政策の中で一貫して遠ざけられていくのである。では、象徴天皇制となった現在ではどうなっているのか。島薗先生は、国家神道、天皇の皇室祭祀を中心とする実態、意識、風土といえようか、それは今も形を変えながら存在していると見ておられる。

 天皇や皇室に対する敬慕の念は確かに日本人一般に今なお大きい。そのような中で、私たちは、世界大戦に突入していった日本人の宗教観や価値意識に国家神道が与えた影響力を忘れることはできないし、それはまた、現在も続いている大きな課題であることを正視しなければならないと改めて自覚させられた。今後とも島薗先生の働きに注目し、学ばせていただきたいと願っている。

2017年5月16日火曜日

「場所を用意しに行かれるみ子」(ヨハネ福音書第14章1節~14節)

ヨハネによる福音書第141-14節、2017514日(復活後第4主日礼拝―白―)、使徒言行録第171-15節、ペトロの手紙一第24-10節、讃美唱146(詩編第1461-10節)
 
説教「場所を用意しに行かれるみ子」(ヨハネ福音書第141節~14節)

 先週は「主の憐みの日」の礼拝として、ヨハネ福音書第101節から16節の」「私が良き羊飼い」との主のみ言葉を聞きました。今年は主たる福音はマタイ福音書ですが、私たちは、残すところ2回の復活後の主日も、ヨハネ福音書から、福音の記事が与えられています。しかも、今朝と次の主の日にはいずれも、最後の晩餐の記事の中から、今日の個所とそれに続く個所が読まれます。
 復活節を祝うこの時期に、今日の個所が選ばれているのはなぜなのか、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 主イエスは、ここで、あなた方の心を騒がせないがよいと語り始めておられます。もう数時間後には、裏切ったユダが、エルサレム当局の者たちと共に、主を捕えに来る。そして、主の命がこの世から絶たれる時が迫っている。11弟子たちは、本能的にそのことを直感していたに違いありません。その時に主は、この言葉を語られる。そして、続けて、「神を信じゆだねなさい、そして私をも信じなさい」と言われます。弟子たちは、自分の生涯を傾けてきた大きな支えを失おうとしている。自分のすべてを賭けてきた主イエスがいなくなることを、肌で感じ取っている恐怖と不安のどん底にあったともいえる弟子たちに、おののくことはない、神にゆだねなさい、そして、私へと信じゆだねればいいと言われます。
 私たちも、しばしば、それに近い試練や危機にぶつかり、不安に打ちのめされそうになります。しかし、この主の言葉によって、それを乗り越えることができるのであります。
 主は続けて、不思議な言葉をここに残されています。「私は、あなた方のために、父の家に場所を用意しに行く」と言われている。私の習った宣教師の先生は、教会学校の分級で、中学クラスを一緒に教えるときに、今日の個所をある日のテキストとして選ばれ、このような言葉を語った人は、イエス様の他にはだれもいませんと語られたのを、今も鮮明に覚えています。
 主は、父の家には多くの住まいがある。そうでなければ、あなた方のために場所を用意しに行くといっただろうか。そして、私は場所を用意したら、また、やって来る。そして、あなた方をそこへ連れて行くであろう。そうして、私にいるところに、あなた方もいることになると言われます。
 復活節を祝っているこの日に、今日のみ言葉が与えられているのは、主がこの後、苦しめられ、十字架の死を遂げ、三日後によみがえり、天の父の父の右の座にお座りになることの意味を、今日の個所が表しているからではないでしょうか。
 主は、続けて、あなた方は、私が行くところ、その道を知っていると語られます。すると、あのトマスが、「主よ、あなたが行くところ、その道を私たちは知りません。どうして、知ることができましょうか」と質問するのです。
 主を慕って、一心についてきたトマスの、愚直といえば愚直な問いかけであったかもしれません。しかし、主はそれを無視して、答えられないようなお方ではありません。この問いかけによって、私たちに最も必要な主の言葉の一つが残されることになったとも言えましょう。主は、「私が、道であり、真理であり、命である。私を通らないでは、だれも父のもとにやって来る者はいない」と言われたのであります。私があなた方に道を教えようというのではないのです。私が道であると言われます。父なる神のみことに行くには、子であるキリストを通してでなければ、到達することはありえないと言われます。
 他にも、道はあるのではないかと考えがちな私どもに、まことと命に通じる道は、私の他にないと言われます。それが、分かれば、私どもは、もはや、どのような試練にあっても、心騒がすことはなくなるのではないでしょうか。
 さらに、今度は、フィリポが、「主よ、神を見せてください。そうすれば、私どもは満足します」と懇願するのであります。
 主は、フィリポよ、あなたはこんなに長く私と一緒にいるのに、父がわからないのか。私を知った者は、父をも知っているのである。今から、あなた方は父を知っている、否、父を見ているのであると言われます。
 神を見た者は、死なねばならないと、旧約聖書では信じられていました。
しかし、主はここで、私を知る者は、父をも知っており、父を見たのであるとまで言われるのであります。そして、私は、父の内におり、父も、私の内におられる。私が語っている言葉は、父が私においてなさっているみ業なのであると言われます。そして、そのことを信じる者は、私のしている業を行い、さらには、私よりももっと大いなることを行うことになると、弟子たちに、そして、信じる私どもに約束なさっておられるのです。今の世界中に広がっている教会の働きの預言であります。
 そして、その働きのためにも、主は、何事でも、私の名において要求しなさい、そうすれば、私がそれを行うであろうと、主のみ名による祈りの必要性を教えておられます。主を、そしてその父なる神を信じるということは、主イエスの名において、祈り求めるということであります。主の命の唯一の道に生かされ、常に心騒がされないで、宣教の働きへと励む者とされたいものです。













                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                

2017年5月10日水曜日

「迷わず生きるために」(ヨハネによる福音書第10章1節~16節)

ヨハネによる福音書第101-16節、201757日(復活後第3主日礼拝―白―)、使徒言行録第61-10節、ペトロの手紙一第219-25節、讃美唱23(詩編第231-6節)
   
説教「迷わず生きるために」(ヨハネによる福音書第101節~16節)

 私どもは、この復活節の4回目の主の日に、今日の「私はよい羊飼いである」という主イエスご自身がご自分こそが「良き羊飼い」であるとの主の残されたお言葉を聞かされています。
 昔から、この箇所が、主の復活後の第2あるいは、私どものように第3といった主の日に読まれ、「主の憐みの主日」の福音として大切にされてきました。この記事は、生まれつき盲人であった人の眼に主イエスが唾で泥をねり、お付けになって眼を見えるようにされたその第9章の出来事に続いて記されている主のお言葉であります。そして、昔から教会が大きな危機に面したときに、この箇所を通して、繰り返し説教がなされ、教会が教会であることを主イエスがご自分について語っておられるそのお言葉を通して、確認し、あるべき道をその都度、取り戻してきた大切な部分でもあります。
 主イエスは、まず羊と羊飼いについて、ここで語り始めておられます。羊は、羊の囲いの中で初めて安全に保たれるものである。羊飼いが羊たちを中へと導き、門番、見張りは羊飼いに、門、戸口を開き、羊は、羊飼いの声を聞き分け、従っていく。
 ところが、その羊の囲い、柵を乗り越えて、別のところから入る者がおり、それは盗人であり、強盗である。しかし、羊たちは、彼らにはついていかず、その声には従わないと主イエスは語られました。それは、だれに語られたのか。原文では、彼らにとしかないのですが、それは、第9章から続いていた、対立していたファリサイ派の人たちに対してでありました。
 彼らは、そのたとえが、何のことを、主イエスが語っておられるのか、まったく分からなかったともとの言葉では強い言葉で書かれています。ここでの「たとえ」というのは、ことわざ、格言とか謎めいた言葉、隋のある言葉といった意味です。ここでは、主イエスが、自分たちを、羊の囲いに塀を乗り越えて侵入してくる者だと、主がたとえられたのを、このユダヤ人たちは認めることは到底できなかった。というよりも、むしろそのようなことには思いも及ばなかったのであります。しかし、羊たちは、羊飼いの声を知り、見分けてついていく。そして、その一人が、すぐ前に詳しく記されている、主によって、眼に泥を塗って見えるようにされた、生まれつき眼が見えなかった人であります。
 そこで、主イエスは、再び、まことに、まことに、あなた方に言っておくが語り直されるのであります。
 私は、羊たちの門であると言われています。羊たちは、その門、あるいは戸口を出たり入ったりし、また、彼らは牧草を見出す。私は、門であって、それは、羊たちが命を持つため、しかも豊かに持つためであるという。そして、私より前に来た者は、いづれも、盗人であり、強盗であるとまで言われます。それは、この言葉を聞いているファリサイ派やユダヤ人の指導者たちを指して言っておられるのです。
 そして、主は、「私は良い羊飼いである」と言われます。私こそが良い、まことの羊飼いであるとここで断言されます。そして、偽物の羊飼い、所有者でない、雇い人に過ぎない者は、狼が来ると逃げ出すと言われます。そして、狼は、羊たちを引きずり回し、追い散らすのであります。
 しかし、主イエスは、ご自分こそ、待たれた、唯一のまことの羊飼いであって、羊のために、命をも捨てる、差し出すとここでお答えになっておられます。そして、父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じように、羊たちは、私を知っており、私も羊たちを知っており、ご自分の命を羊のために捨てるのであると約束されています。羊たちは、自分の声を聞き分け、従ってくるのだと言われるのです。
 私たちは、この「私こそが良い羊飼いである」という主のみ声を聞き分けねばなりません。その他のどのような声にも聞き従うべきではありません。たとえそれが、自分に生来与えられている誠実さというような賜物であっても、それによって、主にのみ聞き従い、そのお声を知ってついていくことが妨げられるのであれば、それに信頼してはならないのです。
 私は、キリストなしでやっていける、そのような声に私どもは決して従っていくべきではなく、私たちに命を得させ、しかも豊かに得させるとの声に、「私こそが良い羊飼いである」と十字架の死とご復活を通して言われる方の声のみに、聖書の声のみに私たちは従ってくるようにと、主は招いておられるのです。
 今日のペリコペー、聖書日課である福音記事の終わりのヨハネによる福音書第10章の16節では、主は、私には、この囲いにはいない別の羊たちがおり、その羊たちをも、私は導かねばならない、父のご意志によって導くことになっている。そして、彼らは一つの群れとなり、一人の羊飼いのもとへと成るであろうと預言しておられます。確かに、私たち日本人も、主の約束された通り、主の羊の囲いの中へと招かれて今、この私どもの飯田教会の群れへと、一人ひとり招かれ、この後、主の聖餐にも与ります。

 しかし、宗教改革記念500年のいまだなお、一つの教会、一人の「良き羊飼い」である主イエスのみ声を聞き分け、ついていく同じ思いの一つの群れであるかは、問われ続けねばならないのであります。アーメン。