2017年10月16日月曜日

「逆転させる父なる神」(マタイ福音書第20章1節~16節)

20171015日(聖霊降臨後第19主日―典礼色―緑―)、イザヤ書第556-9節、フィリピの信徒への手紙第112-30節、マタイによる福音書第201-16節、讃美唱27(詩編第271-9節)

説教「逆転させる父なる神」(マタイ福音書第201節~16節)

 今日の第1朗読のイザヤ書は、神を見い出しうる間に探し求めよとあり、神の思いは、人の思いを超えて、広く深いとあって、今日の福音につながるみ言葉であります。また、第2朗読も、フィリピ書で、パウロは、自分が牢獄で鎖につながっていることも、キリストを伝えるために役立っているので喜んでいるとのみ言葉でありました。
 さて、今日の福音は、マタイ福音書第19章の天の国はどのような者のものであるかとの問いに続く、主イエスのなさった譬え話であります。すべてを捨てて従ったペトロたちに、あなた方、私の名のために家や父母などを捨てた者はその百倍の酬いを受け、永遠の命を受け継ぐが、多くの先の者が後になり、後にいる多くの者が先になると語られたのに続くみ言葉となっています。
 なぜなら、天の国は、次の一家の主人である人の事情に似ているからであると、つなげられているのであります。そして、この譬えの終わりの言葉も、「このように、最後の者たちが、最初の者たちとなるであろうし、最初の者たちが最後の者たちとなろいう」となっていて、第19章の終わりと同じになっていて、今日の譬えを取り囲んでいる。
 み国においては、高ぶる者は低くされ、低い者は高くされる、そのような逆転を、神はなさることができるのだから、謙遜な思いで弟子であるあなた方は、私に従ってくるようにとの主イエスの、私どもへの警告の譬えであると言えましょう。
 さて、この一家の主人である人は、夜が明けると市場にやって来て、何もしないでいる者たちと、1デナリオンで、自分のぶどう園で働くように合意し、送り出します。さらに、9時にも来て、正当な者を払うからといって送り出し、12時にも、また、3時にも同じようにして、送り出すのです。
 さらにまた、午後の5時にも来て、あなた方はなぜ、働かずに立っているのかと聞きます。だれも雇ってくれないからですというと、あなた方も行きなさいと、同じようにふるまいます。
 そして、日が暮れたとき、管理人に命じて、終わりの者から始めて、最初の者たちまで支払わせます。終わりの者たちは1デナリオンを受け取って帰っていきます。最後の者たちになったとき、彼らは自分たちは、もっと多くもらえるだろうと思いました。ところが彼らも、1デナリオンしか受け取りませんでした。彼らは、一日中重荷と灼熱に耐えた自分たちを、最後の1時間しか果たらなかった者たちと同じにするとはといって不平を言っていました。
 ぶどう園の主人は、その一人に向かって言います。私のものを私の好きなようにしてはいけないのか。それとも、私が善い者なので、あなたの目は邪悪になっているのかと。
 その言葉を、共同訳聖書では、あなたは私が気前がいいので妬んでいるのかと訳しています。
 この譬えは、昔からいろいろに解釈されてきました。最初の者たちは、ユダヤ人たちで、終わりの者たちは異邦人たち、あるいは、ファリサイ派のような人たいと、罪人、徴税人、遊女のような人たち、あるいは、宗教改革時代には、カトリック教会の修道僧のような人たちと、キリストへの信仰のみによって生きる人たちと。
 今の私たちにとっては、教会での信仰歴の長い人や短い人と考えてもいいかもしれません。しかし、いずれにしても、私たちが、後から救われた人、恵みに与った人に対して妬みの心を持つことが、主イエスによって警告され、戒め
られていると言えましょう。主イエスを裏切ったユダも、この人と同じように、「友よ」「同志よ」といって主に語りかけられています。彼もまた、妬みをもって、主イエスを裏切ったと一面では言えましょう。
 後から救いに入れられる人に対して、濁った眼、眼付きの悪い目でみてしまう。私どもの悲しい現実であります。このぶどう園の主人は、「あなたも自分の分を受け取って、ここから出て行くように。」妻子の待つ自分の家へと帰ってゆくようにと励まし、送り出しておられます。
 教会の群れに、だれが先に入れられ、後になって加えられるかは、父なる神のご自由な、み心によることであります。思いもしない仕方で洗礼に与るものであります。人生の終わりの時期に迎え入れられる人もあれば、まことに様々であります。
 私どもは、今はすでに信仰に入れられた者として、まだそうでない身内の者たちや、知人、友人に対して、謙虚な気持ちで、子どものように、心を低くし、目を澄まして、恵みの手段に、一人でも多くの人が与る日が来るようにと努め励みたいと思います。
 そして、信仰歴が長いとか、浅いとかによって、優越感を抱いたり、妬みの目で兄弟を羨むようなことではなくて、同じ恵みに与っている幸いを、「友よ」と肩を抱き合って、喜び歩む群れとされたいものであります。そして、自分の功績やわざを誇るのではなくて、キリストを信じる者とされているその信仰によって立ち続けましょう。キリスト者の生涯これ、悔い改めであると言ったマルティン・ルターの言葉に立ち続けたいものであります。アーメン。
























                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          

2017年10月8日日曜日

―現在読んでいる本からー 「キリスト教神学入門」A・E・マクグラス著(神代真砂実訳)

―現在読んでいる本からー
「キリスト教神学入門」A・E・マクグラス著(神代真砂実訳)
発行  2013725日 6版発行    
           発行所 教文館
           定価  8100円(本体価格7500円)
  この本は前任教会から、飯田教会に転任に際して、親しくしていただいた兄弟から記念に贈っていただいたものでのある。今年は、宗教改革500年記念の年でもあり、マルティン・ルターを学び直す良い年ともなっているが、改めてこのような書に出会っていることに感謝している。
 著者は、Alister E.McGraths(アリスター・E・マクグラス)で、1953年に北アイルランドに生まれている。現在最も有名な神学者のひとりであるが、この人も私より、わずか2歳年上だと思うと感慨ひとしおである。思い起こすと、マルティン・ルターも、その生涯は、63歳にも満たず、今の私の時点では天に召されていたのである。さて、この本は、ルーテル神学校では、教科書としてが使われているとのことで、前半は一年目に、後半は二年目に用いられているという。このような神学を包括的に学びうる本は、私が神学校にいた時代にはなかったと思う。マクグラスは、聖公会の神学者であるが、分子生物学で博士号を取っているというユニークな人で、若くしてマルクス主義に傾倒するがやがてキリスト教を発見し、幅広い福音主義の神学者として、現在活躍している。
 訳者は、神代真砂美(こうじろ・まさみ)氏で、1962年生まれで、ICU大学出身で、現在、東京神学大学で教えておられるようである。訳者あとがきにもあるように、非常にわかりやすい平易な訳で書かれており、マクグラスの意向に沿って、神学の初心者であっても、だれでも手に取って読める優れた訳だと思う。全体で第18章まであって、この最後の章は、「最後の事物」と題されており、いわゆる終末論を扱っている。
 本の前半は、神学の基礎的な知識が身につくように、概観的に神学の諸問題が説かれている。現在、第9章の「神論」の終わり近くまで読み進めているが、キリスト教の2000年以上にわたる神学において現れた主要な問題、議論が、その背景から、現在につながる意義まで丁寧に説明されている。全体で800頁以上にもなる本であるが、どなたでも読み切ることができる、待たれていた好著だと思う。聖書をめぐって、また人間の命と死の謎に向かって、この書は人々を光へと案内してくれるだろう。私はルターのガラテヤ書講義のペリカン編英訳本(26巻・28巻)を座右の書としているが、その位置付けにも役立とう。因みに、邦訳はルター著作集第二集、11巻・12巻ガラテヤ大講解・徳善義和訳。











2017年10月2日月曜日

「あなたの兄弟を得るために」(マタイ福音書第18章15節~20節)

2017101日(聖霊降臨後第17主日―典礼色―緑―)、エゼキエル書第337-9節、ローマの信徒への手紙第1219-1310節、マタイによる福音書第1815-20節、讃美唱119/4(詩編第11925-32節)

説教「あなたの兄弟を得るために」(マタイ福音書第1815節~20節)

「あなたの兄弟があなたに対して罪を犯すなら、あなたは、自分と彼だけの、ところに行って、彼をいさめなさい」と今日の福音は、始まっています。それは、なかなかできることではありません。
自分の名誉や、対面が損なわれているような場合に、冷静にその人と二人になって、相手の罪をとがめるといったことは難しいことであります。
しかし、主はそれをしなさい、そして、もし彼があなたの言うことに耳を傾け、聞き入れたならば、そのあなたの兄弟を得たことになる、という不思議な言葉を語っておられます。
さらに、聞き入れられない場合には、もう一人、二人を連れて行って、いさめなさいと言われ、それでもだめな場合には、教会に言いなさいと言われます。
「教会」というのは、先だっても出てきましたが、エクレシアという言葉です。外から呼び出された者という意味です。そして、それは、キリストの聖なる集会、会衆という意味であります。それは、教会の建物や大きな組織ということではもともとなくて、キリストを信じる聖なる者たちのことであります。
使徒信条で、第3条で「我は聖霊を信ず。また、聖なるキリスト教会・聖徒の交わり、・・・を信ず」とあります。ルターはこの第3条を「聖化」と要約しています。天地の創造主なる神を信じ、み子による救いを、私どもは信じますが、今を生きる私たちには、聖霊が与えられていて、その神のみわざ、働きを知らしめ、私たちが、次第次第に聖くされていくというのであります。
そのキリストの体である主の教会に、3番目には申し付ければいいと、主は言われます。その罪を犯した兄弟を獲得するために、あなたはとことん意を尽くさねばならないと言われるのであります。
それでも、彼が聞き入れない場合には、そのときには、あなたはその兄弟を異邦人や徴税人のようにあらしめればよいと言われます。
これは、そのときには、その兄弟との交わりを絶ってもよいというのですが、むしろこれは、主イエスへとゆだねればいい。そして、神に責任をゆだねて、兄弟が帰って来るのを待てばよいというのであります。
そして、これに続けて、今度は、あなた方は、と複数形になって、またまた、不思議な言葉を、主は言われています。まことにあなた方に言っておくが、あなた方が地においてしばるものは、天においてもしばられてあるだろうし、あなた方が地において解くものは、天においても解かれてあるだろうと言われています。あなた方は、兄弟の罪を赦したならば、それは、天においても、神のみもとにおいても、同じであるとまで、主は約束なさっておられるのであります。逆にあなた方が赦さなかった兄弟の罪は、天上でも赦されないままになってしまうと言われております。兄弟の罪をそのままにして、その兄弟が滅びるようなことがあってはならないと主は厳しく、私たちの責任をお問いになっていると言えましょう。
これは、可能なことでありましょうか。しかし、主は、続けて、こう言われています。
もう一度、まことに、アーメン、あなた方に言っておくが、地上で、あなた方のうちの二人が何事であれ、心を合わせて要求するならば、そのことは、天のおられる私の父のもとから、彼らに成るであろうと約束しておられる。
祈りは、必ず神に聞かれると、主イエスは約束なさっておられるのです。私たちは、祈りは必ず聞かれると思って祈っているでしょうか。
この「心を合わせって」という言葉は、シンフォニーという言葉のもとになっている言葉です。交響楽団という場合のシンフォニーです。いろいろな楽器があっていい。それで、一つのハーモニーをかもしだせばいいのです。
主はさらに、なぜなら、三人が私の名へと集められるところ、彼らのその真ん中に私はいるからであると約束されています。
前半と後半のつながりは、分かりにくいのですが、あなたの兄弟があなたに罪を犯したなら、その兄弟と二人で、あるいは、三人ででも、心を合わせて、集められて、祈るならば、その祈りは聞かれる。なぜなら、そこの真ん中に私が立っているからだと、約束しておられるということっができましょう。
まったく同じ性格や、同じ考え方になることはできないでしょう。しかし、主イエスを信じる者の一人の兄弟として、その兄弟が罪に陥っているのを、そのままにしないで、いさめ、共に天の父に祈りを合わせるのであります。
それが、私たちが毎週持っている礼拝の姿でもありましょう。それが罪の赦しを告げる主の体と血につながる聖餐の意味でありましょう。
そのとき、私たちは、その自分に罪を犯した兄弟と共に、「われらに罪を犯す者をわれらが赦す如く、われらの罪をも赦したまえ」と祈らざるを得ないでありましょう。
そして、そのとき、私たちは、主にある聖徒の交わりを信ずという使徒信条の聖徒であることを証ししているのであります。
そして、主イエスが、言われている通り、罪をそのままにしなかったということになるのであります。このような祈りを、二人ででも三人ででもするようにするように、それは必ず聞かれると約束されているのであります。アーメン。









                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            

2017年9月24日日曜日

「滅びることのない教会」(マタイ福音書第16章13節~20節)

出エジプト記第62-8節、2017917日(聖霊降臨後第15主日―典礼色―緑―)、ローマの信徒への手紙第121-8節、マタイによる福音書第1613-20節、讃美唱138(詩編第13811-8節)


説教「滅びることのない教会」(マタイ福音書第1613節~20節)

 私たちは、昨年のアドベントの時から、3年サイクルの聖書日課のA年として、主たる福音書をマタイ福音書としての一年の教会暦を歩んできましたが、今日の福音記事、マタイ福音書第1613節から20節は、その最初の記事からこれまでの総決算、頂点、あるいは、これ以降への大きな転換点ともいうべきみ言葉であり、出来事であると言えましょう。
 主イエスは、ガリラヤでの伝道、そこでの喧噪や忙しさから逃れて、フィリポ・カイザリアの地域へと12弟子たちを連れて行かれたのであります。
 多くの人々が、主イエスについて、何者なのか、いろいろな考えを思いめぐらしておりました。それについて、まず弟子たちに、人間たちが、人の子である私をどう言っているのかと質問なさったのであります。弟子たちは答えました。ある者は洗礼者ヨハネが墓からよみがえったのだと言い、別の者はあの終わりの日の来る前に再来すると当時信じられていた、はるか昔に時の偶像礼拝者たちと戦ったエリヤ、あるいは、受難の主イエスに関わって引用されているエレミヤ書の苦しみにあい、迫害を受ける預言者エレミヤという者たちもおり、さらに昔の預言者たちのうちの一人だという者たちもおりますと。
 人々のそれぞれの主張は、間違っているとはいえなかったでありましょう。そして、弟子たちも、主イエスと同行して、生活してきた中で、周りの人々の主張も耳にしていたでありましょう。また、弟子たちも、人々も、次第にこのお方が、それまでの預言者たちとは違う、それを超えたお方であるのではないかとの認識に近づいていたとも言えましょう。しかし、この時まで、そのことは不分明であったのであります。
 そして、風光明媚な、しかしまた、異教の地に退いたときに、主は、では、「あなた方は、私をだれだと言うのか」と問われるのであります。この場面で、シモン・ペトロがこう答えます。「あなたこそ、メシア、生ける神の子です」と。ここで初めて、主イエスよ、あなたこそ、待たれたキリストですと一番弟子のペトロが、信仰告白することができたのです。
 それに対して、主は、「バルヨナ・シモン、あなたは祝福されている、このことを現わしたのは、弱い人間性であるあなたではなく、天の父である」とペトロが、既に救いに与っていることを、喜ばれているのであります。
 私どもも、主イエスを信じる弟子となっておりますが、それは、私どもがそれを選んだのではなく、主イエスが私たちを選んでくださったのと同じであります。
 そして、さらに主イエスは、ペトロに向かって言われます。「あなたは、ペトロ(石・岩)、その岩(ペトラ)の上に私の教会を建てよう。陰府の門どもも、これを支配することはできないだろう。あなたに、天の国の鍵どもを与えよう。あなたが地上でつなぐことは、天においてもつながれしまってあるだろう。あなたが地上で解くことは、天においても解かれてしまってあるだろう」と。
 ここで、珍しく「教会」という言葉が出てきます。これは、もとの言葉ではエクレシアといい、外から呼ばれた者たちという意味であります。教会とは、本来建物ではなくて、主イエスによって集められた、新しい神の民を指しているのであります。
 そして、ペトロは、岩という、主イエスによって付けられたあだ名でありますが、12弟子のうちでも最初に主によって召されたシモンに向かって、あなたはペトロ、その岩の上に、私の教会を建てようと、主は言われるのであります。しかし、この岩とは、主のみ言葉でもあります。そのみ言葉に従うペトロの上に、新しい神の民を造ろうと主は約束されたのであります。ペトロは、決して揺るぎない岩ではありませんでした。しかし、主の岩に従っていく弟子たちの最初の弟子として、彼は選ばれたのであります。
 そして、この新しい神の民の集会を、陰府すなわち死者の国の戸口どもも、領有することはないであろうと、すなわち、教会が滅びることはないと主イエスはここで保証しておられるのであります。
 そして、ペトロには天の国の鍵どもが、主イエスによって与えられています。それは、死後、天国に入るときの門番というようなことではなくて、地上で、ペトロが主のみ言葉に従うとおりに、神の国においても、ペトロが神のよき管理人として、そのとおりに既になされてしまっているだろうとの約束であります。

 それは、12弟子たちのうちの最初の弟子として、選ばれたペトロへの主イエスの信任であり、委託でありました。ペトロは、しかし、この後も、決してゆるがない、落ち度のない人間ではありませんでした。主イエスはそれをすべてご存じで、ペトロを選ばれたのであります。主イエスは、御自分を否認するペトロに、受難の前に、しかしあなたは、立ち直ったとき、他の弟子たちを励ましてやりなさいと言い残しておられます。ここに、新しいイスラエルの民、救いの民であるキリストの教会が始まったのであります。このペトロへの約束は、私たちすべての弟子たちにも与えられている特権でもあります。アーメン。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                

2017年9月9日土曜日

「信仰のみによって義とされて」 ローマの信徒のへ手紙第3章21節~22節

説教「信仰のみによって義とされて」
ローマの信徒のへ手紙第321節~22
渡邊賢次

 私たち、特に現代人は理性に重きを置き、すべての問題も人間の理性で解決することができるというのが特に近代以降の科学の発達や文明の発展の出発点になっているように思います。しかし、聖書の考え方はそのような人間の理性に対して、どこまで信頼を置き、楽観的に考えているのでしょうか。実は、決して、そうではなく、人間の理性では、決して救いを見出すことはできず、ことに人間の罪の問題に関しては、私たちは、自分の力では決して解決することはできないことを聖書は語っています。
 現代の世界も、また、今の日本の社会も、行き先が見えず、閉塞感が漂い、行き詰っているように思われます。そのような混迷の中にあって、私たちは今一度、異邦人へ福音を伝えた使徒パウロのローマの信徒への手紙の使信の中核と言われる第321節以下からのみ言葉に聞いていきたいと思います。
 ここで、パウロは、「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」と述べています。すぐ前の部分で、パウロは、私たちの中には、正しい人は一人もいないと言っています。アダムとエアバが罪を犯して以来、誰一人として罪なき者はいないというのであります。
 そのような闇の続いた人間の歴史の中に、まさに今や神の義が見えるようにされたと、ここでパウロは語りだしているのであります。それも、律法とは、別に律法の外から、律法の助けによらずに、しかも、律法と預言者とによって立証されながらとうのであります。
 律法によっては、救われることはできず、ただ罪の自覚しか生じないとパウロは言うのであります。律法それ自体は悪いものではなく、それ自体は聖であり、善いものであるが、それを、罪によって私たちは果たすことができないのであります。
 私たちは、律法の行いによって救われることはできないのであります。ところが、そのような私たちのところに、今や、「神の義」が見えるようにされたというのであります。神の義とは、神が正しい方であることであります。神が神であられることであります。それを、自ら、私たちに見える形で、すなわち、主イエスの十字架の死を通して明らかにされたというのであります。
 そして、それは、旧約聖書を通して証言されているとおりに、実現したというのであります。
 そして、パウロは、その神の義とは、「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる」ものだと言います(22節)。これは、もとの文では、イエス・キリストの信仰を通して信じるすべての者に与えられるとなっています。
 私たちの信仰の行為というのではなくて、イエス・キリストの信仰、主イエスの父なる神への信頼あるいは、あるいは私たちへの誠実に対して、私たちが信じゆだねることによって与えられる「神の義」だというのです。神が、主イエスの十字架の死を通して与えてくださった義に全面信頼を寄せることだけが、私たちに必要なことなのであります。
 この「信仰のみによって義とされる」ということを、ルターは発見し、宗教改革につながっていったのであります。行いによっては救われず、その可能性はゼロなのであります。
 そして、そこには、異邦人も、ユダヤ人も区別はなく、すべての人がそうなのであります。
 続けて、パウロは、以上のことを、詳しく説いていくのであります。すなわち、すべての人は罪を犯したので、神の栄光からは足りなくなっているといいます。その私たちを、神は、キリスト・イエスにおける贖いを通して、その血でもって無償で義としてくださる。罪の囚われの身となっていた私たちを代価を払って、自由にしてくださったのであります(25節)。
 さらに、それは、神がキリストを罪の償いの供え物として、今まで犯されてきた罪の赦免のために、ご自分の義を証しするために、キリストの血において、その信仰を通して、すなわち信じる者のために、公然とお立てになり、開示なさったというのであります(26節)。
神は、私たちの罪を放っておくことはできません。しかし、私たちは、自分の力では罪をどうすることもできません。神は私たちを造られた方であり、憐れみ深く、私たちを愛し、罪を赦すお方であられ、最後の救済手段として、ご自分のみ子を罪のなだめものとして、十字架の死にお付けになったのであります。それは、「罪の償いの供え物」すなわち、イスラエルの民のために大祭司が契約の箱のふたのいけにえの血をささげたその供えものとして、主イエスを、私たちのために与えてくださったのであります。
 このように神は忍耐して来られ、まさにこの時に、ご自分が義であることを示し、このイエスへの信仰する者たちを義とすることを示されたというのであります(26節)。
 このように、私たちは、まったく無償で、贈り物、恵みとして、キリストの十字架の死を通して、それに信頼するという信仰のみによって義とされ、神との関係が、神の側からの働きかけによって与えられているのであります。
 私たちは、恵みのみによって義とされ、今や闇から光のもとに移され、罪から解き放たれて、生かされているのであります。そして、再び神の栄光を表しつつ生きることが許されているのであります。
 神が、私たちを義としてくださったのであります。それを、私たちは信頼して受け入れるだけであります。罪に対して下される神の怒りを、神は、私たちに向けられず、罪なき独り子イエスの死を通して、罪を滅ぼしてくださったのであります。この神のなさったみ業である神の義によって、私たちは神の子としての歩みを、新しく生きることが許されているのであります。信仰のみによって、神によって義とされているその幸いに感謝しつつ、私たちは、神を愛し、隣人に愛し仕えていくキリスト者の道をここから歩んで行こうではありませんか。アーメン。












 


2017年8月26日土曜日

―最近読んだ本からー 「牧会学―慰めの対話―」エドワルト・トゥルナイゼン著 (加藤常昭訳)

―最近読んだ本からー
「牧会学―慰めの対話―」エドワルト・トゥルナイゼン
(加藤常昭訳)
昭和36 31日  初版発行   定価850円    
           昭和38210日 六版発行
発行者 日本基督教団 丹羽 巌
           発行所 日本基督教団出版部
  この著書は、加藤常昭先生が若かりし頃、初任地の金沢若草教会で牧会と説教の職務に専念しておられた中で、行き詰まりを覚えておられたときに、出会って翻訳なさり、その後の転機にもなったものだと先生から何度も聴かされたことがある。ちなみに、加藤先生はその後の牧師職を続けられてきた中で、第一線として働かれる現場の牧師を離れようと思われたことはなかったのかとお聞きすると、そんな気持ちになったことは一度もなかったとはっきり答えられたことを憶えている。だいぶ前から、早く読みたいと思っていたが、宗教改革500年のこの記念すべき時に、ようやく読むことができたことは幸いであった。
 トゥルナイゼンの燃えるような牧会に対する意気込みが、加藤先生の立派な翻訳文を通して伝わってくる。それは、トゥルナイゼンの神学の発露であるとともに、それに命がけでついていこうとする加藤先生の信仰理解でもあるように思われた。トゥルナイゼンは、カール・バルトと共に、神の言葉の神学に立っており、バルトの神学を、牧会学を通して展開したものともいえると自身で書いている。トゥルナイゼンはスイスの神学者で、改革派に属するようである。この著書は「牧会学」と題名がつけられているが、加藤先生はそれについて大いに疑問であったそうである。ドイツ語のもとの題は、「Die Lehre von der Seelsorge」だから、「魂の配慮についての学」といったところであろうか。そういう事情もあったのだろうか、副題として「慰めの対話」と付けられている。
 さて、その牧会、あるいは魂の配慮とはどういうことであろうか。それは、カウンセリングとどう違うのか。あるいは、精神科医などによる心理療法等とどう違うのか。また、それらはどのような関係にあるのか、あるいはあるべきなのか。現在ではますます大きな問題となっているが、それを私がまだ6歳のころに、トゥルナイゼンは16章からなる諸テーマのもとに洞察し、答えを明確に提示しているのである。本論に入る前に字数が足りなくなったが、神の言(ことば)に祈りの霊(聖霊)に導かれながら聞きつつ、慰めの対話を通して、相手に罪の赦しを伝えていくことである。説教と聖礼典の働きを深め、広げつつ。

 
昭和36 31日  初版発行   定価850円    
           昭和38210日 六版発行
発行者 日本基督教団 丹羽 巌
           発行所 日本基督教団出版部
  この著書は、加藤常昭先生が若かりし頃、初任地の金沢若草教会で牧会と説教の職務に専念しておられた中で、行き詰まりを覚えておられたときに、出会って翻訳なさり、その後の転機にもなったものだと先生から何度も聴かされたことがある。ちなみに、加藤先生はその後の牧師職を続けられてきた中で、第一線として働かれる現場の牧師を離れようと思われたことはなかったのかとお聞きすると、そんな気持ちになったことは一度もなかったとはっきり答えられたことを憶えている。だいぶ前から、早く読みたいと思っていたが、宗教改革500年のこの記念すべき時に、ようやく読むことができたことは幸いであった。
 トゥルナイゼンの燃えるような牧会に対する意気込みが、加藤先生の立派な翻訳文を通して伝わってくる。それは、トゥルナイゼンの神学の発露であるとともに、それに命がけでついていこうとする加藤先生の信仰理解でもあるように思われた。トゥルナイゼンは、カール・バルトと共に、神の言葉の神学に立っており、バルトの神学を、牧会学を通して展開したものともいえると自身で書いている。トゥルナイゼンはスイスの神学者で、改革派に属するようである。この著書は「牧会学」と題名がつけられているが、加藤先生はそれについて大いに疑問であったそうである。ドイツ語のもとの題は、「Die Lehre von der Seelsorge」だから、「魂の配慮についての学」といったところであろうか。そういう事情もあったのだろうか、副題として「慰めの対話」と付けられている。
 さて、その牧会、あるいは魂の配慮とはどういうことであろうか。それは、カウンセリングとどう違うのか。あるいは、精神科医などによる心理療法等とどう違うのか。また、それらはどのような関係にあるのか、あるいはあるべきなのか。現在ではますます大きな問題となっているが、それを私がまだ6歳のころに、トゥルナイゼンは16章からなる諸テーマのもとに洞察し、答えを明確に提示しているのである。本論に入る前に字数が足りなくなったが、神の言(ことば)に祈りの霊(聖霊)に導かれながら聞きつつ、慰めの対話を通して、相手に罪の赦しを伝えていくことである。説教と聖礼典の働きを深め、広げつつ。


 

2017年8月15日火曜日

「終わりの日まで待ち続ける神さま」(マタイによる福音書第13章24節~35節)

マタイによる福音書第1324-35節、2017813日(聖霊降臨際後第10主日礼拝―緑―)、イザヤ書第446-8節、ローマの信徒への手紙第826-30節、讃美唱119/6(詩編第11941-48節)

説教「終わりの日まで待ち続ける神さま」(マタイによる福音書第1324節~35節) 

 今日の福音は、マタイ福音書第1324節から35節までが与えられています。今日の部分は、主イエスが、群衆に語った天の国の譬えといわれている部分です。群衆は、聞いても、主の譬えを理解することができない。それで、主イエスは、聞いても理解することがなく、見ても、分からず、悟ることがないように、譬えでお語りになり、彼らは癒されることがないと預言者イザヤの預言を引用して、そのわけを弟子たちには伝え、弟子たちにはしかし、天の国の奥義が知らされていると、今日の部分の前の第13章以下ところで、尋ねた弟子たちに説明なさっています。
 そして、今日の個所では、毒麦のたとえ話をお語りになり、続いて、からし種のたとえ、さらにパンだねの譬えが続き、そのあとに群衆にはすべて譬えで、主イエスが語られたことと、その意義が記され、このペリコペー、聖書個所を締めくくるみ言葉で終わっています。
 ここで、主は、3つの譬えをいづれも、彼は別の譬えを彼らの前に、こう語りながら、置かれた、あるいは、主は別の譬えを、彼らにしゃべられたと記されています。二つ目、三つ目の譬えでは、天の国は、人がその畑にからしの木の種を植えたのと似ている。あるいは、女の人が、パン種を取って、3サトンのパン生地、小麦粉の練り粉の中に隠し込んだ事情に似ていると言われています。
 いずれも、その始まりは、取るに足らない、見栄えのしないものであります。パン種も、それは40リットルもの練り粉全体を膨らますのであり、その影響力は考えられないほどである。天の国は、そのように最初は小さなものであるが、その結果は、最初からは考えられない大きな働きを結果するのであります。
 そして、からし種から育ったからしの木には、空の鳥、天の鳥がやって来て、その枝に巣を張るほどになり、最も小さい種から、野菜、庭園草本と言われる中で一番大きくなり、木ともなると言われるのであります。確かに、主イエスの預言された通り、一握りの弟子たちと共に始まった教会は今では、世界の隅々にまで広がっています。旧約の世界で、同じように、天の下のあらゆる鳥が、また野の獣がそのもとに住み着くようになると言われたエジプト帝国やバビロン帝国は、今では見る陰もなくなっていますが、主の教会は、主イエスの約束された通りに全世界にまで波及しております。
 そして、マタイ福音書は、そのあとに、要約して、主はこれらのことを群衆には譬えにおいて語られ、譬えによらないでは何一つ語ろうとはされていなかったと記しています。
 そして、これによって、預言者によって言われていたことが満たされたのであると記し、すなわち、「私の口を、譬えどもでもって開こう。私は世界の創設、種まきの時から隠されていたことどもを、知らせようと」との詩編第78そして編1節、2節の預言が実現したと、マタイは確信して記しています。このような方法を取ることは、何も主イエスの独創によるのではなく、世の初めから、神さまのご計画であると、マタイ福音書記者は信じて疑わないのであります。
 そして、順序は逆になりますが、最初の譬え、毒麦のたとえについてご一緒に考えましょう。それも、先に言いましたように、そのままに訳しますと、「彼は別の譬えを、彼らに対して、その前に置かれた、こうお語りになりながら」と始まっています。「彼らに」とは、ずっと見ていきますと、群衆に対してであることが分かりますが、ここではあえて、「彼らに」とマタイは書いています。それはなぜでしょうか。
 さて、主がここでなさった毒麦の譬えは、こういうものでした。ある人が自分の畑に良い麦を蒔いていった。ところが、人々が寝ている間に、彼の敵がやって来て、同じ麦畑に毒麦を蒔いていっていた、そして、その敵は立ち去ったのであります。やがて、麦は芽を出し、実がみのり、その毒麦も現れました。そのとき、その一家の主人の僕たちがやって来て言います。「ご主人様、あなたが蒔いたのは良い麦ではなかったですか。それなのに、この毒麦はどこからやって来たのですか。」主人は答えます。「敵である人間のしわざだ」と。僕たちは言います。「それなら、私たちが行って、毒麦をむしり集めることを、あなたはお望みですか。」しかし、主人は言うのです。「両方とも成長させておきなさい。そして、刈り入れの時が来た時に、私は刈り入れ人たちに言おう。まず、毒麦をむしり集めて束にして、火の中へ投じるようにと。そして、麦は集めて倉に納めるようにと」。 皆さんは、この譬えを聞いて、自分はまさか毒麦のほうだとは思わないことでしょう。そして、教会の中でも、世の中においても、あの人たちこそ毒麦で、自分たちが引き抜きたいと考えがちではないでしょうか。しかし、主イエスは、両方ともそのままにしておきなさいと答えられるのです。私たちも、敵すなわち悪魔から日々試みられる存在です。そして、終わりの日まで主は裁きを取っておかれるお方であります。だれが良い麦であり、毒麦であるかは、終わりの時まで主はお待ちになられておられます。すべての人のために祈りつつ、み国に共に与る者へと努めたい者であります。
 アーメン。