2017年8月15日火曜日

「終わりの日まで待ち続ける神さま」(マタイによる福音書第13章24節~35節)

マタイによる福音書第1324-35節、2017813日(聖霊降臨際後第10主日礼拝―緑―)、イザヤ書第446-8節、ローマの信徒への手紙第826-30節、讃美唱119/6(詩編第11941-48節)

説教「終わりの日まで待ち続ける神さま」(マタイによる福音書第1324節~35節) 

 今日の福音は、マタイ福音書第1324節から35節までが与えられています。今日の部分は、主イエスが、群衆に語った天の国の譬えといわれている部分です。群衆は、聞いても、主の譬えを理解することができない。それで、主イエスは、聞いても理解することがなく、見ても、分からず、悟ることがないように、譬えでお語りになり、彼らは癒されることがないと預言者イザヤの預言を引用して、そのわけを弟子たちには伝え、弟子たちにはしかし、天の国の奥義が知らされていると、今日の部分の前の第13章以下ところで、尋ねた弟子たちに説明なさっています。
 そして、今日の個所では、毒麦のたとえ話をお語りになり、続いて、からし種のたとえ、さらにパンだねの譬えが続き、そのあとに群衆にはすべて譬えで、主イエスが語られたことと、その意義が記され、このペリコペー、聖書個所を締めくくるみ言葉で終わっています。
 ここで、主は、3つの譬えをいづれも、彼は別の譬えを彼らの前に、こう語りながら、置かれた、あるいは、主は別の譬えを、彼らにしゃべられたと記されています。二つ目、三つ目の譬えでは、天の国は、人がその畑にからしの木の種を植えたのと似ている。あるいは、女の人が、パン種を取って、3サトンのパン生地、小麦粉の練り粉の中に隠し込んだ事情に似ていると言われています。
 いずれも、その始まりは、取るに足らない、見栄えのしないものであります。パン種も、それは40リットルもの練り粉全体を膨らますのであり、その影響力は考えられないほどである。天の国は、そのように最初は小さなものであるが、その結果は、最初からは考えられない大きな働きを結果するのであります。
 そして、からし種から育ったからしの木には、空の鳥、天の鳥がやって来て、その枝に巣を張るほどになり、最も小さい種から、野菜、庭園草本と言われる中で一番大きくなり、木ともなると言われるのであります。確かに、主イエスの預言された通り、一握りの弟子たちと共に始まった教会は今では、世界の隅々にまで広がっています。旧約の世界で、同じように、天の下のあらゆる鳥が、また野の獣がそのもとに住み着くようになると言われたエジプト帝国やバビロン帝国は、今では見る陰もなくなっていますが、主の教会は、主イエスの約束された通りに全世界にまで波及しております。
 そして、マタイ福音書は、そのあとに、要約して、主はこれらのことを群衆には譬えにおいて語られ、譬えによらないでは何一つ語ろうとはされていなかったと記しています。
 そして、これによって、預言者によって言われていたことが満たされたのであると記し、すなわち、「私の口を、譬えどもでもって開こう。私は世界の創設、種まきの時から隠されていたことどもを、知らせようと」との詩編第78そして編1節、2節の預言が実現したと、マタイは確信して記しています。このような方法を取ることは、何も主イエスの独創によるのではなく、世の初めから、神さまのご計画であると、マタイ福音書記者は信じて疑わないのであります。
 そして、順序は逆になりますが、最初の譬え、毒麦のたとえについてご一緒に考えましょう。それも、先に言いましたように、そのままに訳しますと、「彼は別の譬えを、彼らに対して、その前に置かれた、こうお語りになりながら」と始まっています。「彼らに」とは、ずっと見ていきますと、群衆に対してであることが分かりますが、ここではあえて、「彼らに」とマタイは書いています。それはなぜでしょうか。
 さて、主がここでなさった毒麦の譬えは、こういうものでした。ある人が自分の畑に良い麦を蒔いていった。ところが、人々が寝ている間に、彼の敵がやって来て、同じ麦畑に毒麦を蒔いていっていた、そして、その敵は立ち去ったのであります。やがて、麦は芽を出し、実がみのり、その毒麦も現れました。そのとき、その一家の主人の僕たちがやって来て言います。「ご主人様、あなたが蒔いたのは良い麦ではなかったですか。それなのに、この毒麦はどこからやって来たのですか。」主人は答えます。「敵である人間のしわざだ」と。僕たちは言います。「それなら、私たちが行って、毒麦をむしり集めることを、あなたはお望みですか。」しかし、主人は言うのです。「両方とも成長させておきなさい。そして、刈り入れの時が来た時に、私は刈り入れ人たちに言おう。まず、毒麦をむしり集めて束にして、火の中へ投じるようにと。そして、麦は集めて倉に納めるようにと」。 皆さんは、この譬えを聞いて、自分はまさか毒麦のほうだとは思わないことでしょう。そして、教会の中でも、世の中においても、あの人たちこそ毒麦で、自分たちが引き抜きたいと考えがちではないでしょうか。しかし、主イエスは、両方ともそのままにしておきなさいと答えられるのです。私たちも、敵すなわち悪魔から日々試みられる存在です。そして、終わりの日まで主は裁きを取っておかれるお方であります。だれが良い麦であり、毒麦であるかは、終わりの時まで主はお待ちになられておられます。すべての人のために祈りつつ、み国に共に与る者へと努めたい者であります。
 アーメン。
















 







                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 

2017年8月9日水曜日

「世界平和のために」(ミカ書第4章1節~5節)

ミカ書第41-5節、201786日(平和の主日、JELC)(赤)、エフェソの信徒への手紙第213-18節、ヨハネによる福音書第159-12節、讃美唱201(イザヤ書第22-5節)

説教「世界平和のために」(ミカ書第41節~5節) 

 私ども、日本福音ルーテル教会では、毎年8月の第一日曜日を、平和主日として記念し、世界平和のために祈りを合わせ、そのために思いを凝らし、決意を新たにするときとしています。
 いみじくも、今年の平和主日は86日となり、この日、原爆が広島に落とされ、それから72年を経たこの時、広島では世界平和を祈願する式典が行われていることでしょう。あの日の惨禍は、今なお続き、いまだに5万人もの人が行方不明だとのことであります。そして、世界では未だに紛争は絶えず、北朝鮮ではこのところ、核開発も勢いを増し、また、アメリカなどの大国も、自国第一主義を標榜する傾向が強まり、危惧されているのが現状であります。
 このような現実の中にあって、私どもは、今一度、聖書のみ言葉に目を向け、何を祈り、どのように考え、何をなすべきかについて、ご一緒に考えてみたいと思います。今日はいつもとは違って、第1朗読の旧約聖書ミカ書第41節から4節までを中心として学びましょう。
 ここには、驚くべきことが書かれています。実は、このミカ書の第4章以下、終わりの第7章までは、預言者ミカの手によるものではなく、後代の弟子たちの預言者らによって記されたものではないかと、今では考えられています。
 そして、今日の部分の前までが、ミカの預言で、そこには、アッシリア帝国の支配が迫っている中で、一向に悔い改めようとはしないイスラエルやユダの人々、不正や民を圧迫する指導者たちへの神の裁きの預言で満ちています。
 その後に、今日のまことに信じがたい、世界平和の実現とも思われる預言、救いと赦しの約束の託宣が語られているのです。これらのみ言葉は、バビロン捕囚の時代、あるいはバビロン捕囚から帰還して後に与えられた預言の言葉であると考えられています。
 ちょうど同じ記事が、イザヤ書の第21節から5節に記されていますが、その両者の関係については、今日は触れません。ただ、ミカ書の方がより詳しく書かれており、より深く考えられていると言え、そのために平和主日のペリコペー、聖書個所としては選ばれていると考えられます。
 今日のミカ書の預言の言葉は、およそ、以下のようなものであります。
すなわち、次のようなことが起こる。終わりの日々に、主の山、主の家の山が、すべての丘、山々よりも高くなり、すべての山の頭として、堅く据えられる。
 そして、多くの民、国民が、そのシオンの神殿のある山の周りに、流れ来たる。そして、彼らは言うのであります。さあ、我々は、主の山、ヤコブの神の家に向かって登ろうと。我々を、その神は、その道から教えられる。我々は、その方の道において歩もう。
 なぜなら、トーラー、主の教えはシオンから、主のみ言葉はエルサレムから出るからだと。そして、その方は、多くの国民を裁き、遠くまで強い国々を戒める、調停され仲裁されるというのであります。
 そして、彼らは、自分たちの剣を鋤に打ち直し、自分たちの槍をその刃を打ち延ばして刈り込み鎌とするのであり、国は国に対して剣を上げず、彼らはもう戦いに備えて学ぶことはない。そして、人は、自分のぶどうの木の下に、オリーブの木の下に座り、もはや何ものも脅かすものはない。なぜなら、万軍の主の口がそう告げたからだというのであります。万軍の主とは、ダビデが近隣の諸国と戦い、周囲の国をたいらげていったそのイスラエルの神でありますが、それは、天のみ使いの軍団でもあり、ラテン語に訳された聖書では、「全能の主」と訳し変えられています。
 さて、今日のペリコペーの最後のミカ書第45節は、文字通り訳しますと、「けだし、すべての民は、おのおのその神の名において歩む。しかし、私どもは、永遠の昔から、永遠に、私どもの神、主の名において歩むのである」となります。
 昔、イスラエルの人々は、主の名のもとに、部族が集まり、国を成していました。また、ダビデ、ソロモンの栄華の時代には、エジプトからユーフラテス川の近くまでを戦い取り、戦火の後に平和を謳歌した時代がわずかですがありました。そのような歴史をも踏まえたうえで、この預言者は、日々の終わりに世界中の国民が、ヤコブの神こそ、まことの神だと言って、主の山に登ろうと流れ来たる日を預言し、主の教える道に歩む日が来ると約束しました。
 しかし、今日の終わりの5節では、すべての民は、おのおのその神の名において歩むが、私どもは、永遠に我らの主、神の名において歩むと、いったん譲歩したうえで、自分たちの決意を新たにして、今日のみ言葉を終えているのであります。
 それは、私ども人間の罪深さ、一筋縄には、まことの唯一の神に従いえない罪の現実を見据えた預言者の信仰告白の言葉なのでありましょうか。

 今日の聖書の言葉は、それ以後の長い歴史の中で、人々に強い影響を与え続けてまいりました。その一つの例として、戦前の日本の貧しさとの戦いの中で、生活協同組合運動に行きついた賀川豊彦牧師の働きが挙げられます。協同組合国家によって、世界に平和をと考えた彼は、世界連邦構想をも展開しつつ、1960年に、世界平和を祈りながら、天に召されたのでした。アーメン。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  

2017年8月2日水曜日

「無力な者にあらわれる神さま」(マタイ福音書第11章25節~30節)

マタイによる福音書第1125-30節、2017730日(聖霊降臨際後第8主日礼拝―緑―)、イザヤ書第4026-31節、ローマの信徒への手紙第715-25節、讃美唱119/11(詩編第119129-136節)

説教「無力な者にあらわれる神さま」(マタイ福音書第1125節~30節)

 先週までは、主イエスによる12弟子たちの宣教への派遣の記事が与えられていました。今日、与えられている福音は、その主イエスが、御自分も周りのガリラヤの町々に宣教なさり、ベトサイダも、御自分の町であったカファルナウムも、主イエスの告げ知らせた福音、神の国の訪れの使信によっても、悔い改めなかった、まさにその時に、「それに答えて言われた」お言葉であり、祈りの言葉、あるいは執り成しの祈りで始まっているものであります。遣わされていた弟子たちも、みもとに戻って、そばで、この祈りと、自分たちへの励ましと慰めのみ言葉を間近に聞いていて、このような形となって、聖書に残されているのでしょうか。
 主は、周りの町々が、主のみ言葉を受け入れず、拒まれたとき、カファルナウムよ、なんじは天にまで上げられようと思うのか、そうではない、お前は、陰府にまでくだされるのであり、終わりの時には、あのソドムのほうがお前よりは耐え易いであろうとまで言われました。
 その時に、主は、天地の主、父に向かって、ほめたたえる祈りをなさる。ご自分が、イスラエルの民によって、また、特にファリサイ派や律法学者たちによって、拒まれ反対されて終わったときに、嘆いたり怒ったりされるのではなく、感謝の祈り、あるいは信仰告白の祈りをなさるのであります。そして、言われました。「私は、あなたをほめたたえます、なぜなら、あなたは、これらのことを、知恵ある者や賢い者たちにはお隠しになって、幼子のような者におあらわしになりました」と。「幼子のような者たち」と訳されていますが、もとの文は、「幼子たち」そのものの意味の言葉です。それは、遣わされて行って戻って来ていたであろう弟子たち、あるいは彼らの使信を受け入れた小さな者たちのことでしょう。そして、主イエスによる救いの福音をお隠しになった知恵ある者や賢い者とは、イスラエルの民であり、特にその当時宗教的リーダーでもあったファリサイ派など、力ある者たちだったでありましょう。
 そして、それは、今でも同様なことが言えるのではないでしょうか。パウロが言いますように、教会に入れられた者には、もともと知恵ある者や家柄のよい者は多くなく、また世の知恵は、十字架の言葉を愚かなものとみなしているのであります。天の父は、無知、無学、無力な者に、またそのように自分を痛感し、自分を父の憐みに投げ出すときに、その祈りに答えられるお方である。主イエスは、それをご存じで、ここで、私共に代わって、感謝の執り成しの祈りをなさっておられるのであります。そして、このように、あなたのご好意は、あなたのみ前に成りましたと告白されているのであります。世の賢い者に、救いの計画を隠して、世の愚かな者、取るに足らない者にご自分をお顕しになる。
 そして、すべてのことが、自分にゆだねられているのであり、子を知る者は父以外にはなく、また、父を知る者は、子と子が知るようになることを欲する者たち以外にはないと祈られています。
 主イエスだけが、また、御自分がそうなることを望んで選ばれた者たちのみが、父のご計画を知るのであり、父である神のみが、主イエスを遣わされた意味を知っておられ、両者の間に、他の者たちには認識できない深い、親密な関係が出来上がっていると、むしろ私どものために感謝して祈っておられる。
 そして、主は、ここで、私共すべてに招きの不思議なみ言葉を語りかけられる。「すべての疲れている者、そして重荷を負っている者は私のもとに来るがいい」と。重荷を負って疲れていないような者はいるのでしょうか。私たち、キリストの弟子は、どうでしょうか。このお方は、すべてのそのような者は、私のもとに来なさい、そうすれば、私があなた方を休ませてあげようといわれるのです。ルターはこれを、私はあなた方を元気づけてあげようと訳しました。私たちは何によって疲れ果て、重荷を負って苦しんでいるのでしょうか。主イエスのところに行けば、私たちの不安や試練やおののきといったものがなくなると魔法のような言葉を言われているのでしょうか。
 主イエスは、私のところに来なさい、私は柔和な者であり、心低い者でありうからといわれます。そして、私の軛を、あなた方に向かって担いなさい、そして、私から学びなさいと言われる。なぜなら、私の軛は担いやすく、私の荷は軽いからであるというのです。主イエスの言われる私の軛、私から学べ、私の軛、私の荷とは何でしょうか。軛とは本来、圧迫する苦しいものでありましょう。ところが、主イエスの軛は、心地よい、親切なものだといわれる。主が私たちのために負われる、十字架と苦難の軛を、私たちも負うとき、すでにそれは、軽いもの、楽なものになっている。主の軛とは、そのような優しい、親切なものであり、主の荷は、既に私共にとっては軽いもの、恵みに満ちたものとされているのであります。 このお方のもとに来る人はすべて、このお方から学び、弟子となり、その魂に安らぎ、元気、まことの休みを見出すと、主はここに約束されているのであります。そして、弟子とされている私共は、このお方の今日のみ言葉へと絶えず招かれ、呼び戻されるのであります。このお方と共に、このお方の軛を負い、その荷を担うときにのみ、まことの元気が与えられ、まことの生を歩んでいけるのであります。

アーメン。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              

2017年7月24日月曜日

説教「主イエスの弟子たちへの報い」(マタイ福音書第10章34節~42節)

マタイによる福音書第1034-42節、2017723日(聖霊降臨際後第7主日礼拝―緑―)、エレミヤ書第285-9節、ローマの信徒への手紙第615-23節、讃美唱119/13(詩編第119145-152節)
 
説教「主イエスの弟子たちへの報い」(マタイ福音書第1034節~42節)

 聖霊降臨後の第7の主の日を迎えました。私たちは今日も、旧約聖書からは、エレミヤの預言の言葉、昔から多くの預言者たちは、災い、飢饉、戦争などを預言してきたが、ハナンヤよ、平和を預言するのであれば、それが成就したときに、初めて、その預言者を主が遣わされたことを、我々は知るのだとのみ言葉を聞きました。
 また、使徒書からは、ローマ書から、使徒パウロの、神の恵みによって我々は救われたのなら、もはや何をしてもいい、罪を犯してもよくなってしまうのではないかとの疑義に対して、決してそうではない。私どもはかつては罪の奴隷であったが、今や、無代価で救われて、義に生きる僕となっている、神は感謝すべきかなとのみ言葉を与えられました。
 また、まだ、私どもの式文では朗読はされていませんが、讃美唱、詩編第119からは、私たちの神は昔から伝えられてきたお方であるとの詩人の告白を聞きました。そして、今日の福音は、マタイ福音書第10章の34節以下であります。
 それは、主イエスによる12弟子たちの宣教への派遣のみ言葉であります。
それは、もちろん、その通りに一気に、主イエスによって、そのように語られたわけではない。主が語られ言葉を、マタイが、私共のために、記憶に残りやすいように、今の形に記してくれたものであります。
 迫害と殉教が続く中で、これらの言葉は、書き記され、記憶にとどめられたのであります。
 そこで、主は、まず、「私が来たのは、平和を投ずるためではなく、かえって、剣を、なのである」と記されています。私たちが、福音を説教するとき、そこに不和が起こるべきなのであります。今のままでいい、安楽な現状にとどまっていればいいと説く説教者は、今日のみ言葉に背いているのではないでしょうか。
 教会は今のままでいい、耳に心地よいみ言葉を、牧師は語っていてくれればよいと考えるのは、意外と多くの教会員であるかもしれません。
 しかし、主イエスの福音を携えて、弟子たちが、出ていくとき、それは、神の不和をもたらす、今までの生き方とは、異質な、新しい生き方を要求してくるものとなるのであります。
 それまでの平穏であった家庭に、剣が投じられるに至るのであります。それは、まことの平安がもたらされるために通らねばならない、十字架と受難と闘いを、もたらすからであります。
 ここで、主は、メシアの時代にそうなると信じられていたミカ書の預言の言葉を引用されます。
「息子は父を侮り、娘は母に向かって立ち上がり、嫁も姑に向かって立ち上がる、その人の敵は、その家の者である」とのみ言葉であります。
 福音が伝えられるとき、身内の中でも誤解は反対が起きる。主イエスも、宣教をはじめられたとき、その母や兄弟たちは、主イエスを取り押さえに来たと記されているのであります。
 そして、主はその時、弟子たちを指して、ここに、私の母がおり、兄弟たちがいると明言されたのであります。
 そして、主は、私よりも、父母を愛する者、また、自分の息子や娘を愛する者は、私にふさわしくないと言われます。主は、私共を、大事な弟子たちと言われるのですが、私を超えて、肉親を死する場合には、私にふさわしくない、私が受け取るべきものを、持つことはできないと言われるのでありうます。
 そして、自分の十字架を担って、私の後についてこない者は、私にふさわしくないと、あらためて弟子の道は、主イエスと同じく、十字架と苦難の生涯であることを諭しておられるのであります。そして、最後までその道を耐え忍ぶ者は、救われることを示し、自分の命を見出した者は、それを滅ぼし、私のために、自分の命を滅ばした者は、それを見出すであろう。すなわち、まことの自己、永遠の命を見出すであろうと約束されています。
 そして、最後に、あなた方を歓迎する者は、私を歓迎するのであり、私を歓迎する者は、私を遣わされた方を歓迎するのである。預言者を預言者の名へと、歓迎する者は、預言者の酬いを受ける。正しい物、義人を義人の名へと歓迎する者は義人の酬いを受ける。これは、遣わされる弟子たちのことであります。
 また、これらのいと小さき者たちの一人を、ただ私の弟子の名へと、冷たいもの、一杯を飲ませてくれる者は、まことに言っておくが、その報い、弟子と酬い、すなわち、弟子たちと同じ祝福、御国の支配、永遠の命という報酬を、決して失うことはないと約束しておられる。
 これは、主の弟子たちをもてなす人たち、あるいは信者たちを励ましておられるのではなくて、むしろ、これから、困難な中へと遣わされていく弟子たち、そしてそれは、今の信者である私たちに向けての励ましの言葉なのであります。
 いと小さき者であるキリストの弟子である私たちすべてへの励ましの言葉なのであります。そして、最後には真の平和を告げる者とされているのです。

 人知ではとうていはかり知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守られるように。アーメン。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    

2017年7月21日金曜日

―最近読んだ本からー 「祈り」O.ハレスビー著(東方信吉 岸千年訳)

―最近読んだ本からー
「祈り」O.ハレスビー著(東方信吉 岸千年訳)
1954325日発行   定価980円    
           1982102020
発行者 森 優
           発行所 聖文舎
  この書は、私共に祈ることの大切さを教えてくれる。祈り、これほど、大事だとわかっていながら、難しいものはないとしばしば感じてきた。ハレスビーは、北欧、ノルウェーのルーテル教会の牧師であり、神学者のようである。当時、ハレスビー博士の名は、国内外で小さな子供たちでも知らない者はいなかったほどだという。この人もまた、ルターの系譜につながる人であることがわかる。三代にもわたって熱心なクリスチャンの家庭であったか、あるいは牧師の家系であったと書いてあったと記憶する。そのような環境で育った人にして初めて生まれてきた書物といえようか。

 本書は第1章から第11章にわたって、祈りにかかわるテーマで書かれている。全部で205ページほどの聖文舎のシリせーズの1冊である。信仰に根差した、堅実な祈りについての、珠玉のような言葉が全体に貫かれている。北欧の堅実な信仰から生まれてきたものなのだろう。いわゆる北欧のルンド学派に属する神学者なのだろうか。著名な人だったらしく、本書の後ろの案内にも、「みことばの糧・365日の黙想」(岸恵以訳)(全書1600円)等も挙げられているが、ハレスビー本人は、このような祈りの本を以前から書きたかったが、どの本を書くにも増して難しい試みであると記している。最初の方で、祈りは、私たちの吸っている空気のようなもの、呼吸のようなものでそれをしないほうが不自然であると言っている。そして、祈りは、キリストが私たちの家の外で戸を叩いて、待っておられるのであり、私たちが、ただ心を主イエスに向かって開け放つことから始まるという。自分の無力を知って、祈りの霊に身をまかせ、み霊に聞いていくことが肝心である。この書を読みつつ、それの共訳者でもある岸千年先生の生きざまが思い起こされた。また、この著者と同じような祈りに生きた宣教師の恩師の生涯や、今もなお祈りつつ導いてくださっている牧師や信徒の方等の生き様が想起される。ルターの小教理や大教理の「主の祈り」の解説・説教を、祈り・信仰全般に渡って展開したものであるということもできよう。主イエスが説いた祈りや断食などについてのみ言葉や、祈りにかかわる旧約聖書、新約聖書のみ言葉を、静かな黙想と鋭い洞察によって把握し、祈りの本質を捉え得た名著であると思う。日々の歩みを祈りの霊によって導かれたい。

2017年7月11日火曜日

「宣教の開始」(マタイ福音書第9章35節~第10章15節)

マタイによる福音書第935-1015節、201779日(聖霊降臨際後第5主日礼拝―緑―)、出エジプト記第191-8a、ローマの信徒への手紙第512-15節、讃美唱100(詩編第1001-5節)

説教「宣教の開始」(マタイ福音書第935節~第1015節)

今日の福音は、弟子たちの派遣というテーマであります。主イエスは、ガリラヤの町々、村々を一つ一つ巡り歩き、彼らの諸会堂で教えつつ、み国の福音を告げ知らせつつ、また、悪霊を追い払いながら、あらゆる病、患いを癒しながら、歩き回られます。
私たちは、だれもが、それぞれ、町や村に住んでおります。その一軒一軒を、主イエスは、実は今も、この良き知らせを告げながら、訪ねて、その一個一個の家庭の戸を叩いて、外で待っておられます。私どもが、その戸を開きさえすれば、主イエスはこの良き訪れを携えて、私どもの家に入ってくださるのです。
問題は、私どもがその戸を開く心づもりがあるかどうかであります。主イエスは、そのとき、人々の様子を、羊飼いのいない羊どものように、苦しみ悩まされ、落胆しているのをご覧になって、深く憐れまれたと、マタイは記しております。
この時の人々も、現代の私どもの町や村の人々も、確かに当時は過酷な圧政の支配下にあったでしょうけれども、メシアの助けなくても、一見結構楽しく過ごしている人々は少なくなかったでしょうし、現代でもそうかもしれません。
しかし、主イエスはそこに、神なしに生きる人間のまことの悲惨さを、見て取られるのであります。そして、内臓が痛む思いで、私どもをご覧になってくださるお方なのであります。
私どもは、自分を憐れむことはよくあります。しかし、このお方は、御自分のこととして、いや、それ以上のこととして、私ども、他人のこと、人間のことを、悲しみ痛むことがおできになる唯一のお方であります。
そして、弟子たちに向かって、収穫は多いが、働き人が少ない。収穫の主に願って、多くの働き人を送ってくださるように、祈りなさいと言われたのであります。
それから、12弟子たちを呼び寄せ、悪霊を追い払い、あらゆる病や患いを癒す権威をお与えになります。そして、ここに、その12人の名が記されています。「まず、ペトロ」とあります。彼が、いろいろな失敗もしていきますし、完全無欠な弟子とは言えませんが、ともかくも、12人の代表格としてあがられるのです。そして、4人の漁師、兄弟たちに続いて、トマスや徴税人マタイ、あるいは、その敵対者といえる熱心党のシモン、さらに同じく、イスカリオテのユダが、終わりに記され、彼は、主イエスを売り渡した者であるとさえ記されているのです。これは驚くべきことであります。主イエスは、かような人々を、まったく御自分と同じ権威を持つ者として、御国の福音を告げ知らせるために、選び、お遣わしになる。私ども、人類の深い罪が赦され、み国がもたらされるために、これらの12人が一人残らず、替えがたい弟子としてなくてはならなないと、主イエスは、すべてをご存じで、お選びになったと、私は信じます。
さて、このようにして、12弟子たちは、主イエスによって、派遣され、その時、主は彼らにお命じになるのです。異邦人の道へと出ていくな、又、サマリア人の町へと入っていってはならないと。まずは、神の選ばれた民、イスラエルのもとに、福音は告げ知らされなければならないのです。救いは、ユダヤ人から出ると知らされていた聖書の民のもとに、弟子たちは、主イエスの福音を携えて出ていくのです。
そして、主イエスは、言われます。あなた方は出て行って、「天の国は近づいた」と告げ知らせよと。神のご支配の時が迫っている、否、既に始まっていると宣言するのです。そして、主は、あなた方は何も持って行かないようにと言われました。腰帯に銭も、それどころか、棒も靴もです。あなた方はただで受けたのだから、ただで与えなさい。賜物として救いを受けたのだから、賜物として、それを与えなさいというのです。
そして、どこか、ある町や村に入っていくときには、どの家が、あるいは、だれがふさわしいか、十分に調べなさいと言われます。そして、誰かの家に入ったら、挨拶しなさい。もし、その家が、あなた方の告げる平和にふさわしければ、平和はその家に入っていくだろう。もし、それにふさわしくなければ、その平和はあなた方に戻って来るだろう。それにふさわしくなかった者の町を出るときには、あなた方の足の埃を振り払いなさいと、主イエスはお命じになります。そして、その町よりは、裁きの日には、ソドム、ゴモラの方が耐えやすいであろうとまで言われるのであります。12弟子たち、そして、私ども、教会が告げる平和は、それほどまでに大きいのであります。この平和をもたらす知らせを携えて、今も私どもは、賜物として、受けたのだから、人々にも、賜物として、宣べ伝えるように出ていくよう、主イエスより、御自分と同じ権威をゆだねられているのであります。そのようなことはできないと私どもは、尻込みするのでありましょうか。それは、牧師や一部の特別な信徒に限られると、今日の主の言葉を、自分には関係ないとするのでしょうか。確かにここに書かれている通りにはできないでありましょう。しかし、私どもができる範囲で、今日のみ言葉を実践していく。その意味で、一人一人が、小さなキリストになるようにと、ここで、私どもは召されているのです。アーメン。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                

2017年7月7日金曜日

「主のまなざしに生かされた人」(マタイによる福音書第9章9節~13節)

マタイによる福音書第99-13節、201772日(聖霊降臨際後第4主日礼拝―緑―)、ホセア書第515-66節、ローマの信徒への手紙第56-11節、讃美唱119/7(詩編第11957-64節)

説教「主のまなざしに生かされた人」(マタイによる福音書第99節~13節)

 聖霊降臨後の第4の主の日を迎えました。今日は、マタイの召命の記事が与えられています。これは、また、私どもの召命の記事でもあると言えるのではないでしょうか。
 この並行個所を見ますと、そこで、召され、弟子として呼び出された徴税人の名は、レビとなっています。これは、同一人物なのか、同一人物の二つの呼び名であったのか、別人なのか、よく分かりません。しかし、マタイ福音書という福音書の名は、この徴税人であったマタイから来ており、12弟子の中にも「徴税人マタイ」として記されています。
 他の記事からは、マタイという人がどういう人であったかは、定かではありませんが、この福音書につながる人物が、今日出てきます、主イエスによって呼び出された徴税人であったとすれば、この日、主イエスによって、目を留められ、その力によって12弟子に選ばれ、この福音書が書き記されるうえで、大きな出発点となったと言えるのではないでしょうか。
 特に「教会のための福音書」といえるこのマタイ福音書が、今日の出来事によって、成立することになったとすれば、マタイという人は、「主のまなざしに生かされた人」ということができるのではないでしょうか。
 そして、それは、私たちと関係にない12弟子という特別な人の召命というのではなくて、私どもが洗礼を受け、主イエスの弟子とされたことの意味に通じる出来事と考えることができます。今日の福音について、しばらくご一緒に考えたいと思います。
 主は、カファルナウムで、奇跡のわざを行い、そして、今日の個所で、通りがかりに、この徴税人マタイが、収税所に向かって座っているのをご覧になるのであります。それは、罪の真っただ中で、その仕事に邁進している姿でありました。そこに座り込んで、自分の生涯はもう真っ暗闇だと思い込んでいたかもしれない。否、それすら考えるいとまもなかったのかもしれない。
 しかし、主イエスは、それを一目で見抜かれ、お語りになるのであります。私に従ってくるようにと、ただ一言であります。ところが、それを聞いて、マタイは起き上がり、主イエスに従ったと記されているのであります。カファルナウムで数々の癒しや奇跡も行い、主イエスのうわさはすでに広まっていたかもしれません。しかし、その主が、自分を招かれた時、マタイは、座っていた
その現場から、従って出ていくのであります。そして、自分の召命それ自体の記事はただそれだけしか残していないのであります。しかし、主のこの呼び出しの一言が、マタイの生涯を変えたのみならず、私どもに「マタイ福音書」という宝が与えられることになったとすら、言えるのであります。
 そして、次に記されていることは、驚くべきことであります。「そして、成ったことには、その家に、彼は、横になっており、徴税人たちや罪人たちが、かのイエスと彼の弟子たちと共に横になっていた」。
 この文は、マタイの家でのことともとれるのですが、むしろ、主イエスの家で考えるべきでありましょう。ユダヤ人たちにとって、この上なく大事な食事の交わりの席に、異邦人たちと交わり、汚れた、卑しむべきものとして軽蔑されていた徴税人たち、あるいは遊女が挙げられるような罪人とされていた者たちが、主イエスによって招かれているのであります。この食卓の交わりこそは、私たちが今日このあと守ります聖餐を表しているということもできましょう。
 ところが、どこからやって来ていたのか、これを見ていたファリサイ派の者たちは呟くのであります。「あなた方の先生は、なぜ罪人たちと食事を共にするのか」と。
 彼らは、主イエスを十字架に追いやる敵対者となりますが、律法を守り、
身を罪から清めて生活しようとしていた、極めてまじめな者たちでした。しかし、主イエスが、罪人たちと交わるのをいぶかるしかなかったのであります。これを耳にした主イエスは、弟子たちを代弁して答えられます。いや、これは、主イエスにしか答えることにできない種類の問いでありました。「健康なものには医者はいらない、いるのは、病人である」とおそらく当時の格言のようなものから、主はお答えになる。そして、あなた方は行って、「神が欲されるのは、憐れみであって、いけにえではない」とのホセア書の言葉が何を意味するのか、学べと言われます。そして、なぜなら、なぜなら、私が来たのは、正しい者たちを呼ぶためではなく、罪人たちを呼ぶためだからであるとお答えになっておられるのであります。

 主イエスは、罪人たちを、自らの食卓の交わりへと招いてくださいました。それは、律法学者やファリサイ派に勝る天の国の義へと、私たちを招いてくださったのであります。そして、御自分の命を惜しまずに、み国での宴席へと、十字架の死とご復活をかけて、この日、マタイたちを招待してくださったのであります。自分の義と行いによって、それができない罪人たちを裁くファリサイ派の者たちに対しても、主は、悔い改めるようにと招いておられます。それは、私どもも陥りやすい律法主義の生き方であります。私どもは、マタイと共に悔い改めへと召し出された洗礼の時を思い起こしつつ、「主のまなざしに生かされ」つつ、残された生涯を、主のみ業に励みたいと思います。アー