2024年4月15日月曜日

「復活したキリストの願い」日曜日のお話の要約

復活節第3主日礼拝

園職員教会学校教師就任式(2024年4月14日)(白)

使徒言行録 3章12-19節(218) 

ヨハネの手紙Ⅰ 3章3-7節(443)

ルカによる福音書 24章36b-48節(161)


 日曜日はなぜお休みなのでしょうか。何千年も前に書かれた旧約聖書の時代にはすでに一週間に一度休みが設けられており、正確には金曜日の日没から土曜日の日没まで、労働を休んで神様としっかり向き合う日とされています。これは今でもユダヤ人の生活の中にしっかり根付いています。


 この週に一度のお休みの日が土曜日から日曜日になったのは2000年前、イエス様の時代になってからです。イエス様が十字架にかかって亡くなり、蘇ったのが日曜の朝で、この日を記念したのが復活祭、イースターであり、ヨーロッパにキリスト教が日曜が広まっていくと、この考え方が定着していきます。つまり、日曜がお休みになったのはイエス様の十字架と復活からなのです。


 イエス様の最初の弟子たちはほとんどがユダヤ人でしたが、イエス様が神様だと納得してからは、土曜ではなく日曜日に仕事を休んで礼拝を守るようになりました。日曜日が休日でなかった時代に仕事を休むことは大変なことでしたが、イエスの復活を記念して、神様に感謝しながら礼拝を守り続けました。


 4世紀になると当時大国だったローマ帝国が迫害から一転してキリスト教を国の宗教として認め、礼拝を守るため日曜日を休日に定めました。ずーと思い煩って仕事をするよりも、安息の日を定めて神様と自分に向き合う方が人として健康的だと定着したのかも知れません。「キリスト教は日曜日が休日だから礼拝するのではなく、最初の弟子たちの、イエス様を崇める強い思いが日曜日を休日とさせたのです。」


 さて、では最初のイースターについて、聖書にはどんなふうに記されているかご一緒に見てみましょう。


 本日読みました聖書、福音書の箇所は、十字架の死から復活したイエス様が、それを信じられない弟子たちのところに現れた場面です。


 イエス様は以前から「十字架にかけられて死んでも三日目に蘇る」と弟子たちに語っておられました。しかし弟子たちはそもそもイエス様が捕えられて犯罪者のように処刑されるなどとは信じられませんでした。


 イエス様は天の国から来られた神様の独り子ですから、権力者が駆け引きを続ける複雑な古代イスラエル社会にあっても、真っ直ぐに愛や希望や信仰を語り、真っ先にご自分が実践されました。権力者たちはイエス様の活動を妨害しようとしましたが、イエス様はことごとく言い負かされました。それで弟子たちは、この方は絶対負けない、いずれ王様になって、世直しをしてくださる方だ、その時は自分も一緒に出世できるだろう、とまで考えていたのです。


 そんな勘違いをしていたものですから、イエス様が本当に十字架にかかった時、あまりの恐怖と絶望に衝撃を受けます。そして中でも12弟子と呼ばれる中心的な男の弟子たちは隠れ家に閉じ籠りました。イエス様の仲間とバレれば自分達まで十字架にかけられるかもしれない、と怯えたのです。イエス様といたときは気が大きくなって、何でもできそうに思ったのに、今やすっかり情けない姿になってしまいました。


 しかしイエス様は弟子たちの心がそんなふうに折れてしまうことをちゃんと理解しておられました。イエス様は弟子たちが扉を固く閉めて誰にも入れないように閉じこもっている家の真ん中に入って来られます。そして「あなた方に平和があるように」と声をかけられたのです。


 彼らがどれほど驚いたかは、今日の聖書に書いてある通りです。弟子たちがなかなか信じられないので、イエス様はご自分が亡霊や幽霊でないことを示すために、焼き魚を召し上がった、というのはなんともユニークな感じがします。


 イエス様はご自分の復活を弟子たちに納得させるために、決して難しい言葉を重ねたり、魔法のような力を示したりするのではなく、一切れの焼き魚を召し上がることで証明なさったのです。


 45節には「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開かれた」と書いてありますが、「聖書を理解できるようになる」ということは、特殊な方法を用いなければ無理、ということではないことがよくわかるのです。


 「心の目を開く」というのは抽象的な表現です。私たちは溢れるような情報の中に生きていて、騙されないように、間違えないように、何かと懐疑的に生きています。自分の目に見えるものでさえ、信じられないことがあります。そういった毎日を送っていると知らず知らずのうちにキリスト教に対しても疑い深くなり、聖書に書かれていることも皮肉な目でしか見られなくなり、素直に受け取れなくなってしまうのです。


 そういった「疑い」や「先入観」が私たちの目を塞いでいます。しかしイエス様は私たちが心折れている時にはそばに来てくださり、日常の中に愛や優しさを注ぎ込んでくださいます。怯えた弟子たちを納得させるために、焼き魚を食べてみせた、そんな素朴な愛で私たちを包んでくださるのです。


 祈りつつ繰り返し繰り返し聖書を読んでいると、ある時何かがストンと納得できることがあります。それは、聖書を理解するのに最も大切な「イエス様への素直な心」を手に入れた瞬間です。それをイエス様が自ら与えてくださるのです。その時、あなたのそばにイエス様がおられるのです。



4月13日は4月の土曜学校でした

2週間遅れのイースターのお祝いです


礼拝ではゆうこ先生手作りの紙芝居を見た後

工作とエッグハントという盛りだくさん(?)のプログラム


工作を始める前に

事前に先生がゆで卵をたくさん作っておき

お友達と一緒に、お湯につけるとピタッと張り付くシールで

可愛いイースターエッグを作りました



心の中とやることがバラバラなばらばらくんの物語
みんな真剣に見てくれました

お湯に3秒つけるだけ
昨年もやったけど
やっぱりなんだかおっかなびっくりのみんな

工作は紙皿を使ったゆらゆらひよこ
みんな真剣にハサミを使っています

そうそう、紙芝居は
「一番はじめのイースターとばらばらくん」
バラバの物語を下敷きにしてPCでざっくり作りました
上演は一昨年に続いて2度目で、見てくれるおともだちは
入れ替わりましたが、こんな絵でも(笑)
しっかりお話を聞いてくれます


兄弟で参加したM君とH君
工作と卵を持ってピース!
お揃いのシャツで決まってます



もう一組ご紹介
久しぶりに来てくれたIちゃんとNちゃん
とっても春らしいゆらゆらひよこができました


最後にみんなで「ハッピー イースター!」

2024年4月7日日曜日

「光あるうちに」(日曜日のお話の要約)

聖餐式・復活節第2主日礼拝(2024年4月7日)(白)

使徒言行録 4章32-35節(220) 

ヨハネの手紙Ⅰ 1章1-10節(441)

ヨハネによる福音書 20章19-29節(210)


 科学や医療が発展した現在、以前は不治の病とされたものでさえ、治療や改善方法も見えてきました。このことで「人間は死ぬもの」という考えを頭の片隅に押しやって、死んだ後に与えられる「永遠の命」を求めなくなったと言われています。


 この世が楽しければ、少しでも長くこの世に留まることを望むのは理解できます。だいぶ前にアメリカ留学から戻った牧師先生から伺った話ですが、「永遠の命」を信じないわけではないが、「天国」に行ったらイエス様に会えるからではなく、クリスチャンである先祖にあえる、教会のクリスチャン仲間に会えるという程度なのです。


 この考えが広がることは日本のキリスト教にとっては大きな痛手です。あの世、この世を教え、先祖代々の仏様を守ることを教えることを美徳とすることは、すでに日本文化の中で当然のこととなっており、死んだらあの世でご先祖様や先に死んだ家族に会える、という考え方はほとんどの日本人に定着しているからです。


 先祖崇拝や初詣をするだけで「仏教徒」を名乗り、必要以上にキリスト教を毛嫌いする方もたくさんおられます。聖書には「天国」もあるけど「地獄」もあるという教えをお話しすると、妙な新興宗教に染まっているように思えるのか、「地獄へ行くなんて「かわいそうじゃないか」と敬遠されるのです。しかし今この瞬間も、たった一つの核兵器のボタンで世界の終わりがやってくるかもしれません。私たちは本当に死と隣り合わせの人生を生きているのです。


 本日の福音書は、イエス様の復活を女性の弟子たちから告げられたにも関らず、権力者たちを恐れて家の戸に鍵をかけた弟子たちの物語です。時はもう夕方になっていました。この時の彼らはイエス様に教え学んだ日々のこと、宣教して人々に喜ばれた日々のこと、イエス様に議論を挑んできた律法学者やファリサイ人をギャフンと言わせた出来事などを思い出していたことでしょう。楽しく豊かな日々は過ぎ去り、イエス様は一人で十字架に掛けられ、自分達は逃げ出した。思い出が楽しければ楽しいだけ、彼らは自分の弱さに傷つき、ふさぎ込んでいました。


 そんな彼らの気持ちをイエス様は誰よりも感じ取っておられました。なんの手順も踏まずに、いきなり鍵をかけた部屋に、落ち込む弟子達の真ん中に立たれたのです。すでに夕方だというのに、その様子は夜明けの光が部屋に差し込むようでした。弟子たちは、明るい光の中で、イエス様の手にあるくぎ跡と深々と開いた脇腹の傷をはっきりと見たのです。

 

 普通なら死んでいるはずのボロボロの肉体のまま、イエス様がそこに生きていたのです。彼らは強い衝撃を受けます。人間によって奪われた命を、神様は新たに与えてくださるということを目の前のイエス様のお姿を見て直感的に悟ったのです。人間は人間によって生きるのではなく、神によって生きるのだということを、心から納得した瞬間でした。


 「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」この言葉を聞いた弟子達は、イエス様を地上に送られた神様の意図を理解し、また自分達をお集めになったイエス様の思いも受け止める用意ができたことでしょう。そしてイエス様も、弟子達の決意を部屋に溢れる空気から感じとられたのでしょう。喜びと平安を取り戻した弟子たち一人一人に向かって、イエス様は息を吹きかけ言われました。「聖霊を受けなさい」。

 

 このみ言葉は、神の思いから離れて世界が闇に包まれようとするときにあっても、いえ、そのような時だからこそ、あなた方は神様から与えられた力によって光になったのだということです。人間という、土から出来たものに過ぎない存在が、イエス様によって新たに創られたのです。


 さて復活後の出来事で、24節から、トマスの物語がまるで付け足したかのように始まります。弟子達が復活のイエス様とお会いした時には、そこにいなかった、と「そうそう、忘れてたけどそうだったんだよ」とばかりに記されています。トマスは最初の場にいなかったため、「聖霊を受けなさい」と言われませんでした。そんな彼は仲間はずれにされてひがんだ子どものように「イエス様の傷跡を見ない限り信じない」と宣言します。イエス様がこの世で受けた傷であり、辱めを受け、最後は殺されてしまった、そんな闇の象徴のような傷跡を見たがったのです。そのような状態から生き返ることなんてありえない、と言い放ったのです。


 しかしイエス様は、そのようなトマスの思いを知った上で、またもや弟子達の中心に立たれ、「安かれ」と言われたのです。そして今度は「聖霊を受けなさい」ではなく、「信じなさい」と言われたのです。「見ないで信じる者は、幸いです」という言葉は、「聖霊を受けなさい」と同じく、力強い言葉なのです。


 イエス様の弟子達は、エルサレムを拠点に宣教を始め、あるものは伝道旅行に出発しました。その中で一番遠く、今でいうインドまで旅をしたのがこのトマスと言われています。彼は暗闇の中を歩く人に神の光を届けるために、イエス・キリストを宣べ伝えました。ただこの世界を神の光で照らされることを祈り願ったのです。


 「疑り深いトマス」という不名誉な名前で呼ばれたトマスですが、イエス様の弟子として残りの生涯を捧げ切りました。力が支配する世の中にあって、光あるうちに、本当の光を届けるために、トマス自身もボロボロになりながら、宣教の旅をしたことでしょう。


 私たちもまた、人々が、自分ではそうとは知らず闇の世界に生きようとする中で、光を差し出し、光の中を歩みなさいと宣べ伝えるのです。現代の価値観の中では夕方の弱々しい光くらいでしかないようにも思えます。もうすぐ夜がやってくる。たとえ、そうなっても私たちは「光ある」うちにと、イエス・キリストを宣べ伝え、信じることを、凝りもせず、傷つきながらでも積み重ねて参りましょう。



今週の土曜日は土曜学校
2週間遅れのイースターをお祝いする予定です
大人も子どももアレルギーを持った方が多くなり
卵も小麦粉も要注意です
イースター恒例のたまご探しも
工夫して行います
みんなで楽しくお祝いしましょう!




2024年3月31日日曜日

「両手いっぱいの愛」(日曜日のお話の要約)

主の復活礼拝(2024年3月31日)(白)

ヨハネによる福音書20章11-16節


 イースターおめでとうございます。

 今日はキッズバンドに「両手いっぱいの愛」を賛美していただきました。小さいお友達もお母さんも一緒に歌ってくれてありがとうございます。この歌は日曜学校で「こども聖歌隊」を結成した頃から、歌うメンバーが入れ替わってもここで歌い続けてきました。


 「両手いっぱいの愛」はよく手話をつけて歌います。イエス様、僕のこと、私のことをどれくらい愛してますか?と、「これくらい?」「これくらい」と手を広げながら訪ねます。二番もこれを繰り返します。


 三番になると今度はイエス様が静かに両手を広げて「あなたのことをこれくらい愛しているよ」と教えてくれます。それはもう、目一杯両手を広げてくださいます。ところがイエス様がいっぱいに広げた両手は十字架の横の棒に釘を打たれてしまいます。それでもイエス様はおっしゃいます「あなたのために死んでも構わない、それくらいあなたのことが大好きだよ」両手いっぱいの愛とは、イエス様のものすごく大きな愛のことを歌っているのです。


 さて、イエス様は何にも悪いことをしていないのに、他の悪者と一緒に十字架にかかって死んで、お墓に入れられました。イエス様は前から「私は神様のお力で蘇る」つまり、生き返るよ、と言っていたのですが、誰もそれを信じませんでした。


 今日聖書に出てきた女の人は、イエス様が死んでしまったのが悲しくてお墓にやってきました。イエス様のお国のお墓は日本のと違っていて、亡くなった人を布でぐるぐる巻きにして、洞穴に入れます。その時良い匂いのする油を死んだ人の体に塗るのですが、イエス様は「こいつは悪者だ」と言われて死刑になったので、乱暴に布で巻いただけで洞窟に放り込まれていないか、女の人はとても心配になったのです。


 ここで皆さんに質問です。この女の人の名前は、なんでしょう。最初のところに書いてありますね、「マリア」さんと言います。でも、この人はみんながよく知っている、イエス様のお母さんのマリアさんとは別の人です。「マリア」という名前はとても人気があったので、同じ名前の人がたくさんいたのです。


 ではこのマリアは何者でしょう?ヒントは今度は聖書の一番最後のところに書いてあります。この人はイエス様のことを「先生」と呼んでいます。つまりイエス様を先生として、いろいろ教えてもらった、イエス様の生徒さんだったのです。イエス様にはたくさんの生徒がいて、みんなイエス様から神様のお話を聞くのが大好きでした。

 ところが、イエス様が、たとえば「世界中のどんな宝をもらうより、神様に愛されていることの方が素晴らしいんですよ。だからよくお祈りをして、神様ともっと仲良くなりましょう」と教えてくださっても、ほとんどの人が「いいお話だったね」と喜ぶだけで、「私には無理だな」と思って、すぐに忘れてしまいます。


 でも生徒の中には、一生懸命イエス様の言うことを聞いてイエス様のそばで頑張る人たちがいました。その人たちのことを聖書では「弟子」と呼んでいます。弟子の人たちは「この世の中のどんな宝より神様の愛の方が素晴らしい」とイエス様がおっしゃれば、素直に信じます。そして「私は神様に愛されているんだ」と嬉しくなって、もっともっと神様のことを勉強します。そしてやがて他の人にイエス様のお言葉を正しく伝えられる人に成長するのです。


 さてさて、話をもとに戻しましょう。ここに出てくるマリアはイエス様の熱心な生徒、つまり弟子でした。イエス様と会う前はあまり良くない仕事でお金儲けをしていたという噂がありましたが、イエス様の弟子になってからは、イエス様や他の弟子たちのお世話係になりました。すっかり貧乏になりましたが、マリアはとても幸せでした。


 それなのにイエス様が死んでしまって、マリアはものすごく悲しくなりました。せめていい匂いの油を塗ってあげようと思ってお墓に来たのに、イエス様のお体がそこになくて、もう本当にどうしていいかわからなくて、心の中が真っ暗になって、一人ぼっちで泣き始めました。


 涙でいっぱいで何も見えなくなったので、天使が話しかけても、蘇ったイエス様が話しかけても、誰から声をかけられたのか全然わかりませんでした。イエス様から「マリア」と名前を読んでもらって、ようやくそこにいるのがイエス様だと気がついたのです。


 マリアはすごいと思います。普通は死んだと思った人が急に後ろに現れたら、「幽霊だ!」と驚いて怖がるものです。でもマリアは、イエス様が「私は三日目に蘇る」と言ったことを思い出して、すぐに信じたのです。そしてとっても嬉しくなって「先生!」と叫んで思わず抱きつこうとしました。


 イエス様はちょっと焦ったかもしれませんね。そこでストップストップ、といった感じで、「私に縋り付くのはやめなさい」とマリアを止めます。そして「他の仲間のところに行って、私が蘇ったことと、もうすぐ神様のいる天国に帰ることになっている、と知らせなさい」と言います。マリアは素直に頷いて、大急ぎで他の弟子たちのところに飛んでいったのでした。


 マリアの心は喜びでいっぱいでした。さっきまで「イエス様は私を一人ぼっちにして死んでしまった」と悲しかったのです。でも蘇ったイエス様に会えた時、そしてその両手に釘の跡を見た時、「あなたのことをこれくらい愛しているよ」といっぱいに広げられた両手を見た気がしたのです。


 マリアはイエス様に抱きつくことはしなかったけれど、イエス様が、そして神様がいつまでも自分のそばにいて、見守ってくださることがわかったのです。マリアは繰り返し繰り返し「ありがとうイエス様」と心の中で思っていたことでしょう。


 みなさんがこれから「両手いっぱいの愛」を歌うとき、イースターのこんな物語を思い出してください。そして「あなたのために死んでも構わない、それくらいあなたのことが大好きだよ」とおっしゃったイエス様のことをいつまでも忘れないでくださいね。


イエス様のご復活おめでとうございます!

皆様の教会はどのように過ごされたでしょうか

飯田教会は今日も音楽で盛り上がりました

前奏後奏と特別賛美はリーベクワイヤのみなさんの

ハンドベル演奏で彩られました

特別賛美その2(?)はルーテルキッズバンド

「両手いっぱいの愛」と「十字架わが力」を

元気に歌ってくれました




礼拝には今日が一歳のお誕生日のAちゃんから
おんとし95歳の牧師夫人のお母さんまで
年度最終日だったせいか
少ない出席人数ではありましたが
みんなで楽しく過ごすことができました


今まで気づかなかったのですが
礼拝堂正面の壁に窓枠の影が写っていました
十字架がもう一つあるような
不思議な光景でした



2024年3月28日木曜日

「わが救い主の十字架」(日曜日のお話の要約)

主の受難礼拝(2024年3月24日)(紫)

イザヤ 50章4-9a節(1145) 

フィリピの信徒への手紙 2章5-11節(363)

マルコによる福音書 15章21-39節(95)


 本日の礼拝は、「わが主、イエス・キリストの受難」を覚えての礼拝です。「キリスト」という名称は「油注がれた者」という意味のある、誇り高き名称、「称号」です。イスラエルにおいては、古くは王様のことを指し、この世を救う救済者という意味でも使われます。言うなれば、血統や先祖に寄らず、その時代が創りだしたヒーローのことを、救済者と呼びました。その救済者の徴として、その人物のこうべに油が注がれる儀式があったことが起源となっています。


 例えばサムエル記上16章にはダビデ王が油注がれて将来王様となることが約束されるシーンがあります。このように旧約聖書には油を注がれて「救い主」と認められた人物が何人か登場します。しかし新約聖書の時代になり、神様はイエス様こそ「唯一のキリスト」として私たちのもとに遣わしてくださいました。私たちはその「イエス・キリスト」を信じる者の集まりなのです。


 ところで、キリスト教会というと、一般的には宗教施設の名称に使われますし、一般の人たちからは「信者じゃないと入れなところなんでしょう?」と尋ねられたりもします。しかしこれはもちろん間違いです。「教会」はもともとはギリシャ語で「エクレシア」と呼ばれていました。これは「集められた者」という意味です。すなわち、神様が集めて下さった人々が集まっているのが教会で、洗礼を受けている、受けていないは二の次なのです。


 洗礼というのは、「私は神に清めていただかなければ、欲深く、邪心に溢れた存在だ」ということを認め、清めて頂くことが大切だという教えを信じた方が受けるものであり、洗礼を受けないと教会に入れないとか、洗礼を受ければ突然救いが分かるとか信仰が急成長する、というものではありません。


 ただ、重要なのは神様が私をここに呼んでくださり、他の人々と共に集めてくださったという感謝の思いです。その結果として洗礼を受けるならば、その謙虚さが、教会にはいつも充満しているわけで、この思いが社会に浸透していけば、きっと社会はよくなると信じて、教会は運営され続けました。


 しかし教会が社会に影響を与えるようになると、それを利用しようとする権力者も集まってきます。歴史の中で教会と権力が結びついて大きな過ちを犯したこともありました。2000年前、イエス様の弟子たちによって教会が形になり始めた頃に記されている使徒行伝やパウロの記した手紙には、すでにその兆候が記されていて、こちらを信じる、いやあちらを信じる、とイエス様そっちのけで派閥争いをしていた様子がわかります。


 現代においても、キリスト教を国の宗教の中心においている大国どうしが戦争を起こすことも私たちは目撃します。キリスト者と名乗っていても、謙虚さを忘れ、悔い改めを忘れ、キリストの名を利用することしか考えない人々に成り下がっているのです。


 本日読みました福音書には「それから、兵士たちはイエスを十字架につけて」と書かれています。これは「今、兵士たちによってイエス様は十字架につけられる」と訳すのが正確なのだそうです。教会では、会堂の正面に十字架を掲げていますが、これは単なる飾りではありません。「今、まさにイエスが十字架につけられる」ということをしっかりイメージするために、ここにあるのです。


 イエス様が十字架につけられたとき、イエス様が極悪人で、社会のゴミのような存在であれば、この死刑は喜ばれ、歓迎されたことでしょう。しかし民衆の多くはそうでないことを知っていましたし、全員とは言いませんが、イエス様によって救われた人々もそこにいたのです。また、そもそも死刑判決を下したローマ総督のピラトはイエス様に死刑に値する罪がないことも知っていました。


 しかし十字架につけろ、というヒステリックな声がその場を支配していて、彼らを身動きできなくしてしまったのです。そして、それこそがそれが神様のご計画だったのです。


 イエス様ご自身も何度も何度もご自分が十字架にかけられることを予告し、その上で蘇ると宣言されてきました。「蘇る」前には絶望的なほどの苦しみが待っているけれど、ご自分は神様のお力によって必ず勝利する、そしてあなたにも同じことが起こる、そう伝え続けられたのです。これがイエス様が私たちにお伝えになった大切なメッセージであり、イエス様が身をもって教えられたことなのです。


 私たち一人ひとりの身に起こるあらゆる不条理も神様のご計画だと信じられるのは、先頭に立ってお手本となってくださったイエス様がおられるからであり、だからこそ私たちはイエス様を私たちは救い主とするのです。


 私たちはキリスト者として、誰にも理解されず、追い詰められた状況に生きることもあります。しかし、苦しみの中でイエス・キリストが体験されたのと同じように神様のご計画を見出し、十字架の意味を再認識することができるなら、世界は違った景色に見えるでしょうし、新たな歩みがそこから始まるのです。


 ここまで生き方を極めれば、どんな生き方になろうとも生きていくことはできます。どんなに小さな信仰でも、最後はイエス様が贖ってくださる、救ってくださることを知っている限り、動じることはないのです。それが自分の生き方であり、神様に与えられた生き方だと信じることができるのです。


 わが救い主イエス・キリストの十字架は、今、私のためにある、と信じられる時、救いがあることを見出すことができるのです。